僕が生きていく世界

人と少しだけ違うかもしれない考え方や視点、ぐるぐると考えるのが好きです。 あくまで、僕個人の考え方です。 みんながみんな、違う考えを持っていていい。 いろんなコメントも、お待ちしてますよ。

いつまで「ムラ社会」をやってるつもり?

結局のところ僕が違和感を覚えるもの、
打破したいと思っているものは、
いわゆる「ムラ社会」というやつに他ならないのだ。

僕の考える「ムラ社会」の特徴は、

1. 世界を「身内」と「よそ者」に二分割する。
2. 「身内」には同質化を強要する。自分たちの「常識」から外れないようにさせる。
3. 2を前提として、「身内」を盲信的に信頼できるものとみなす。
「何があっても(何をされても)裏切らない」ことを美徳とする。
その一方で、「よそ者」に対しては強い警戒心(あるいは敵対心)を持ち、どこまでも冷淡になる。
4.個人の幸福やほかのあらゆるルール(法律、憲法、人権など)よりも、
ムラの掟が最優先。

現代日本で取り沙汰される、いじめも児童虐待も、
排外主義も労働基準法違反のブラック企業も、
どれも「ムラ社会」に起因した問題だといえるだろう。

ムラ社会にしないために大事な考え方が、「是々非々」だ。
「(立場に関係なく)是を是とし、非を非とす」ということで、
つまりは、誰の行為であれ正しいことは正しい、間違ったことは間違っている、
と判断できることが大事、ということ。

是々非々を貫き通すのは難しい。
そうすることは薄情だと思われたり、冷たい人間だとよばれたりする。
是々非々とは全く逆の、
「愛するあなたのすることは(たとえ間違ったことであっても)絶対に協力する」とか、
「あなたに敵対するやつは(対立している原因があなたにあったとしても)私が叩きのめす」
という、「身内を過剰にひいきする人」が、「愛情の深い人」とよばれ、人気者になったりする。

ムラ社会」ではしばしば、身内に対する一体感を高めたり、身内への忠誠を示したりするために、
半ばパフォーマンス的によそ者の軽視やよそ者への攻撃がなされる。
身内の集まりの中によそ者の言動を晒して笑いものにしたり、
よそ者に対して行ったひどい行為を、武勇伝として語ったりしたがる。
「いじめ」がなくならないのは、いじめる行為が、
あらゆるルールよりも優先されるムラの掟の中において
「非難されること」ではなく「称賛されること」だからだ。

だが、身内としてひいきされることで得られる安心感は、とても危ういものだ。
いつなんどき「お前は身内じゃない」とみなされるかわからないし、
そうなれば今まで自身がよそ者にそうしていたように、どこまでも残酷な扱いをされる。
そして、「ムラ社会」の人たちはそれを止めてはくれない。
だから「ムラ社会」の人間は、「ムラ八分」をおそれ、つねに身内の顔色をうかがいながら生きる。

そんな偽りの安心にすがるよりは、ムラの境界の石垣をとっぱらって、
「相手がよそ者だろうが誰だろうが、ひどいことはしない。
ムラの掟なんかより優先する基本的人権自然権)は誰にでもある」
と言ったのがフランスの人権宣言だったのだけど、
200年以上たった今でも、その考えが実現するのはなかなか難しい。

今こそ目指したい、目指すべきことは「ムラ社会からの脱出」だと、僕は思うのだ。

「しあわせを語るな」という呪いについて

Twitterを見ていると「Facebookが嫌い」という発言をよく目にする。
なぜかというと、「リア充のしあわせ自慢に見えるから」。
特に独身の人は、Facebookで同級生などが家族や子どもの話題でしあわせそうにしていると、自分と比較してしまい、家族も子どももいない自分が惨めに思えてしまう、というのだ。
だから、「自分がしあわせであることを自慢するな、自重しろ」と、本気で主張する人もいる。

実際、日本社会は(Facebookで多少変わってきたとはいえ)しあわせを語ることを嫌う傾向が強い。
逆に「自分は不幸だ」「自分はこんなにダメだ」と嘆くことには寛容に思える。
そういう人を見ると、「自分はまだマシ」と安心できるからだろうか。

SNSでそれぞれが「自分のしあわせ」を語ることが、「みんな同じことをしなければならない雰囲気」だと感じるのは錯覚だし、それを「しあわせの押し売り」と考えるのは被害妄想だ。
劣等感を覚えるのは他の誰でもなく自分自身が「独身は負け」だと思いこんでいるからであって、問題は、「しあわせを語る人」にあるんじゃなくて、「他人のしあわせを許せないと思う自分」の方にある。

共感が得られてお金になるからだろうけど、現代の広告社会は、そういう被害妄想的劣等感を刺激して、「みんなを見返すために○○しましょう」とか「負けたままでいいの?」みたいなことを言いすぎだと思う。
被害妄想からくる動機で行動してたらどこかで崩壊する。

他人との比較や相対評価なんぞ取るに足らないよ。それぞれの感じるしあわせのかたちは違うんだよ。ということを自分で納得できていないと、他者からの圧力がなくなっても、無限に被害妄想を生み出してしまって、生きづらさは決してなくならない。
「しあわせを語るな」という言葉は、巡り巡って自分を呪う言葉になる。

他人と自分を比べる「相対評価」には大きな問題がある。
自分の相対評価を上げるもっとも簡単な方法は、自分を高めることではなくて、「他人を失脚させる」ことだからだ。
人々が「社会や集団の中での相対評価を高めることこそしあわせ」だと錯覚していたら、おたがいに足を引っ張り合う社会・集団になるのはごく自然なことだ。

だから、たとえそれが多数派の意見だったとしても、他人を妬み、足を引っ張ろうとする声には耳を傾けてはいけない。
それに従ったら行き着く先は、「みんなで不幸になる」しかないのだから。
しあわせは、相対評価ではない。周りの人が不幸になったらあなたがしあわせになる、なんてことはありえないのだ。

LGBTとの接し方?

こないだ、今働いている職場で「LGBT研修」なんてのがあって、「あなたの身近にもLGBTはいます」と言われて「でも、知っている人では見たことがない」なんて人がたくさんいたんだよね。
で、ふと自分のことを考えてみたら、そういえば今仲良くしている人たち、だいたい半分くらいはLGBTとかセクシャルマイノリティとよばれるような人たちだった。
別にそれを意識しているわけではないけど、僕のまわりには「世間の常識に馴染めない人」が集まりがちだからかもしれない。

 

それで、ふと思いついたことなんだけどね、「身近な人がLGBTだったら、どう接していいかわかんなーい」みたいなこと言う人にはね、「例えば、きのこが嫌いな人、くらいな扱いをすればいいよ」って答えればいいんじゃないかな。
「もったいない!きのこが嫌いなんて人生損してるよ!」「きっと食わず嫌いなだけだよー、ほら、食べてみなよ」とか言い続けられたらそりゃ不愉快だよ。
だから、それをしない程度の配慮はいるだろうけど、それ以外は何も困んないでしょうよ。ってこと。

「だれもがきのこ好きだと思い込んだ」無神経な発言をくり返したりしなければいいだけであって、そんなに難しいことは要求されないだろうと思うんだよね。
LGBTに配慮しなきゃいけなくなったら、なんにも言えなくなる」とか言う人は、普段からどんだけ無神経なのさ。
これはLGBTだけでなく、アセクノンセクとかにも言えるな。
というか、シンプルに「人の好き嫌いや趣味嗜好その他もろもろに口を出すな」ってことなわけで、なんにだって適用できる話だよね。全然難しい話じゃない。

 

勘違いしないでほしいのは、「その人の前できのこの話をするな」ってことじゃないってこと。そんなことまでは、たぶんほとんどの人は思ってないよ。「わたしはこういうきのこが好き」という話は、気にすることなく話せばいい。
「あなたはどのきのこが好きなの?」「きのこが好きなのは人間なら当然だよね!」みたいに、「きのこが好きなこと」を押しつけるべきではないよね、ということ。

 

「文月煉哲学」を編纂したい

哲学というと大げさだけど(笑)。

僕がこれまでに考えてきたこと、選んできたこと、したいと思っていること。
いろいろとまとめたらなにかの役に立つんじゃないかと思って。
僕が下手くそながらなんとか生きて、考えてきたことを、残したい、という気持ちなのかも。
とりあえず、本にするとしたら「章タイトル」になりそうなキーワードを、今思いつくままに書き出してみる。

  • Don't Be Evil.
  • 減点法ではなく、加点法で考える
  • 甘えること、頼ること、無条件降伏をすること
  • 少し長い目で見る、ということ
  • 過去や未来で、現在を縛らない
  • 「より良い未来」に加担する
  • 手のとどく範囲をしあわせにしたい
  • Pay it forward、あるいはgiveがtakeになるよろこび
  • 脱「ムラ社会」――是々非々で物事を判断する

君の世界を広げようぜ。

「世界」とか「世の中」と聞くと、なにか確固たるものがあるように思うけど、それは錯覚だ。
「世界」とは、「自分が認識できる範囲」と同義なのだから。
だからこそ、ときに「新しい世界を知って」、「世界が広がった」りするのだ。

一人の人間にとって、認識できていないものは、存在しないのと同じだ。
「職場(や学校)」と「家」しか認識していない人にとっては、そのどちらにも馴染めなかったら、「世界中の人に嫌われている」ということになってしまう。
単に今いる職場(や学校)に馴染めないだけなのに、「自分は世の中で何の役にも立たない」と錯覚したりもする。

世界は、広がるものだ。
そう認識するだけで、全然ちがう。
小さな部屋から飛び出すのが難しければ、まずは窓を開けよう。
窓の向こうに、まだ知らない何かがある、ということだけでもいい、たびたび思い出そう。
狭い世界に閉じこもっている人たちは、自分の知識を過大評価する。
「○○な人なんていない」「○○な場所なんてない」とか、すぐ言いたがる。
なんでそんなことわかるのさ。君は世界のすべてを知ってるの?
ソクラテスの言った、「無知の知」。
なにも知らないということを知ろう。

まだ出会っていない君のために、僕はここに、居場所をつくって待っているね。

 

主体性をもつこと。あるいは、自分の人生の支配者であること。

結局のところ、僕の人生における命題は「主体性をもって生きる」というところにすべて行き着く。という結論に、不意にたどりついた。

他人を信頼する(信用ではなく)のは、自分の主体性でもって「この人になら裏切られてもかまわない」と思うからであり、そういうふうにしていれば、何かを誰かのせいにすることはない。

僕は、自分の人生のいろんなことを誰かのせいにしたくないから、束縛すること・されること、依存すること・されることから、離れる道を選び続けてきた。
おかげで、今の人生はまさしく僕が自分の選択で作り上げたものになっていて、なにひとつ他人のせいにはできない。

 

今、僕は僕の支配者であるという確かな感覚がある。
家族も、会社も、配偶者も、恋人も、友人も、何も僕を縛らない。
だからといって傍若無人に振る舞ったって楽しくないから、僕は僕の意志で、信頼したい人を信頼して、生きる。
誰かを喜ばせたいと思って何かをすることもある。

 

自由とは、主体性だ。主体性とは、誰かのせいにしないことだ。

 

主体性をもつことと、他人の主体性をうばわないこと。
これがたぶん、僕の中でもっとも大切な命題。
さらに言えば、主体性を奪われている人がそこから抜け出すのに手を貸したい、という気持ちもある。
ポリアモリーのことも、働き方のことも、居場所をつくりたいのも。
すべてはつながっているんだ。

LINEモバイルで「電話」は終わりを告げるか。

先日、LINEがついにMVNO事業(いわゆる格安SIM)に参入した。

 

「LINEモバイル」で格安プラスαの価値を――LINEがMVNOに参入した理由 (2/2) - ITmedia Mobile http://www.itmedia.co.jp/mobile/articles/1609/05/news137.html

 

LINEとTwitterFacebookのアクセスを通信料にカウントしない、
SNS使い放題」の部分がやたらととりあげられたり、
通話機能付きSIMは3GBで月1690円と、先行するMVNOに比べてそんなに安くないため、
「期待はずれ」と言われたりしているが、注目すべきところはそこではなくて、
これはもしかすると、世の中が大きく変わるきっかけになるんじゃないかと思っている。

 

これを端緒にして、
日本の社会から電話というものがなくなるのではないか、ということ。
「LINEモバイルによって、携帯電話はついに『電話』じゃなくなる」ということが、目の前で起こっているのではないだろうか。

 

LINEモバイルのすごさは、月額500円のデータ通信専用(つまり電話番号がなくて電話ができない)SIMにあると思う。
これまでのMVNOにだってデータ通信専用SIMはあったし、中には月額500円より安いところもある。
LINEモバイルのそれが他と違うところは、データ専用SIMを「完全にLINEに対応させた」こと。
今までは、SMSで認証をおこなっていたため、SMSが使えないSIMではそもそもLINEが使えなかった。
SMSが使えるものでも、MVNOのSIMでは年齢認証ができず、IDによる友達の追加ができないという問題があった。
LINEモバイルのデータ専用SIMでは、そのどちらもクリアできるという。

 

ここに来て提示された新しいスタイルは、「スマホに電話番号なんていらなくない?」ということだ。
いわゆるガラケーの時代から携帯電話を使ってきて、自分の電話番号を常に身につけて歩くことに慣れた世代には、ちょっと信じがたいかもしれないけど。

僕らの世代は、ある意味で電話番号に縛られている。
電話帳にはLINEでは繋がっていない人の連絡先がたくさん入っているし、電話番号を失うことは、その人達との連絡手段を失うことに等しい。
実際には連絡はもっぱらLINEやFacebookや電子メールで行っていて、電話をすることなどほとんどないにもかかわらず、
「あるかもしれない」電話の機会を考えると、電話番号を手放すことなど考えられない。
しかし、最初から連絡手段はLINEで、電話を使うことなどめったにない、
いわば「LINEネイティブ」の世代にとってはどうだろう?
「データ通信」の倍以上のお金を払って、わざわざ電話番号つきを選ぶだろうか?

 

これまでのMVNOの「データ専用SIM」で想定されていたのはおそらく、「サブ端末」用の使い方だ。
ところがLINEモバイルのデータ専用はおそらく、今後「メイン端末」用として機能していく。
そう考えると、「月額500円」のインパクトはすごい。
端末代の分割払いをあわせても、月1000円ほどでスマホを使えるのだから。

 

すでに若者の多くが固定電話を持たなくなって久しいが、携帯電話の番号までなくなれば本当に電話番号と無縁になる。
「電話番号がないと不便じゃないの?」と思うかもしれないが、持っていない人が多くなれば、
様々なサービスは嫌でも「電話番号がなくてもできるように」進化していくだろうから、しばらくすれば不便はなくなるだろう。
どうしても電話をしたければIP電話で050の番号を取得するという方法もあるけど、それも過渡期だけになりそうだ。
(最後まで電話が残るのはビジネスでのやりとりだろうな。現状のFAXと同じように……)

 

「最近の若者はパソコンが使えない」という話が少し前に話題になったが、
「最近の若者は電話番号を持っていない」と嘆く発言が話題になるまで、あと数年だろうか。
まぁ、そうなると、否が応でもLINEへの依存度が飛躍的に高まるわけで(LINEとしてはそれが狙いでもあるだろうけど)、
いろいろと不安もあるけど、おそらくこの流れはもう止められないんじゃないだろうか。

 

ベル以来の、140年の電話の歴史に終止符を打つ一歩が、ここにはじまったのかもしれない。