僕が生きていく世界

人と少しだけ違うかもしれない考え方や視点、ぐるぐると考えるのが好きです。 あくまで、僕個人の考え方です。 みんながみんな、違う考えを持っていていい。 いろんなコメントも、お待ちしてますよ。

「自分のしあわせ」ってなんだろう。

「しあわせってなんだろう。」
僕はいつでも、それを考えずにはいられない。
誰かが定義した、借り物の答えではなくて、
自分自身が心から納得できる、「自分にとってのしあわせ」。

それを僕が考えるようになったのは、
大学を卒業して、就職した会社で営業の仕事を始めたころだった。
改めて考えると、それまでの人生で僕は、何かを選択したことがなかった。
僕はたまたま勉強がそこそこできたので、
勉強さえしていればまわりから褒められて承認欲求を満たすことができた。
大学進学も就職活動も、半ば自動的に、
「世間から褒められるような」ところを選んで生きてきたのだ。

正社員になって、60歳で定年するまでここで働くのが当たり前だよね、
というような空気が流れる場所に身を置いてみて、
ようやく僕は「この道の先に僕のしあわせはあるだろうか」と考えはじめた。

勉強ができればしあわせ?
お金持ちになったらしあわせ?
安定した仕事と地位を得たらしあわせ?
結婚してこどもができたらしあわせ?

あれれ、たいへんだ。
ここに僕の意思や選択が、全然ないぞ。

仕事で営業成績を10倍にできたら、僕はしあわせだろうか?
昇進して年収が倍になったら、僕はしあわせだろうか?
子育てや家事を専業主婦の奥さんに任せて家族を養ったら、僕はしあわせだろうか?

僕はそのどれにも、YESと言えなかった。

それから僕はずっと今まで、
「しあわせってなんだろう。」と考え続けている。

自分に嘘をつかないこと。
自分に言い訳をしないこと。
自分の気持ちを無視しないこと。
自分をだまさないこと。

10年ほど考えた末にたどり着いた、今の僕の「選択」の指針はそれだ。

だって、誠実ではない相手の言葉は信用ならないから。
自分を納得させるためには、自分に対して誠実じゃないといけない。
自分に誠実に生きて、自分の選択を信用できるようになれば、
その先に感じた「あ、今しあわせかも」という気持ちは、自分のものとして納得できる。

仕事は僕のすべてじゃない。

僕は、最近わりと「調子が悪い」「うまくいかない」「つらい」とTwitterでつぶやいているので、心配してくれる人がいるんだけどね。

確かにそのときは「つらい」と感じていて、決して大げさでも嘘でもないけど。

でも、今の僕のつらさは表層の「一番上のレイヤー」だけの話だから、そんなに心配しなくて大丈夫。

 

どういうことかというと、今の僕のつらさは、ほとんどが仕事に関することなんだよね。

「仕事」って、今の僕にとっては、人生の中のほんの上っ面の部分でしかない。

それなりに真剣に取り組んではいるし、うまくいかなかったら落ち込むけど、いざとなったらその表面をベリッと剥がして捨てちゃっても、僕の価値は失われたりしない。

 

そんな風に思えるようになったのはわりと最近のことで、この気持ちに至るまでは、本格的に鬱になったり落ち込んだり死にたくなったりしたこともあった。

仕事がうまくできないこと、社会の役に立てないような気がすることで、「自分には価値がないんじゃないか」「生きていていいのか」なんて感じてしまうこともあった。

 

でも今では、僕のことを好きと言ってくれて、僕に「生きていることの価値」を与えてくれる人がいるから、仕事を辞めようがクビになろうがたいして怖くない。

僕の価値は、仕事ができるかどうかとかお金を稼いでいるかとか、社会とうまくやっていけるかとか、そういうっところにあるわけじゃない、って言えるの、すごく救われる。

ちょっと使い古されて陳腐になってしまった言葉だけど、それが「自己肯定感」ってことかな。

職場とか、経済的価値とか、そういう狭い範囲が世界のすべてじゃないと思うことは、人を自由にしてくれると、僕は思う。

 

三十四にして立つ?

ここ10年くらい、いろんなことを考えて言語化するようにしてきたら、大抵の思いつくことは「前にも考えたことがある」ようになった。結局のところ興味があることはそんなに変わらなくて、ぐるぐると何度も同じことを考えているんだな。
とりあえず出す結論も、大きくは変わらないのだけど、ほんのわずかずつでも、変わってきているようにも思う。
その少しずつの歩みが、思考するということの意味だ。
偉そうなことは言えないのだけど、こういうのが「哲学」なのかな。
ひとりひとりの、哲学。


仕事について、愛について、人間関係について、自分の操縦方法について。
考えるべき大事なことって、そんなにたくさんはない。
毎日飽きずに考えていると、そりゃあ、同じことを何度も考えることになる。
だから「これについてあなたの考えは?」と聞かれたときに、わりとすぐに答えられるようにもなった。

自分がかつて書いたブログの記事をひとつひとつ読み返すと、自分の考えのとりあえずの結論みたいなことがよくわかるし、思いついたことをブログに書き留めておくの大事だな、って思う。
この記事もそのひとつだね。

論語」に、「吾、十五にして学を志す。三十にして立つ。四十にして惑わず。」というのがあるけど、すごくリアルな時間感覚だなぁと思う。
自分で思考しよう、と決意して15年ほどで「立つ」、つまり、自分なりの考えを確立する。
僕は「学を志す」のが遅かったので、34の今ようやく「立った」かな。
「惑わず」まではあと10年。
まだ惑ってばかりだけど、10年後にはどうなるかな。
きっとまだ、惑ってはいるだろうけど、そんな自分を肯定できてるといいな。

動画が苦手~僕の特性の話~

僕は、動画が苦手。というか、動いている映像を長く見ていることが苦手だ。


うちにはテレビがないし、僕は映画とかもほとんど見ないんだけど、それって、「動く映像」の情報量多すぎてパンクしちゃうからなんだよね。
「映画を見るとぐったり疲れてしまうので滅多に見られない」と言うと驚かれるのだけど、たぶん、僕の脳の構造というか思考の癖というか、そういうものが関係しているのだと思う。僕はインプットされた情報をそれなりにうまく受け流すことがとても苦手で、すべてのことが気になってしまうから疲れすぎてしまうんだ。

僕が、「知的好奇心旺盛」と言われるのも、情報に接したときに「知らないこと」があるととても気になって気になって、流せないからなんだろうな。感覚過敏ではなくて情報過敏。そのわりについつい大量の情報を摂取しちゃうんだけどね。情報依存症気味なのかも。

さらに言うと、僕の摂取できる情報は、ほぼ文字情報に限られる。それ以外の感覚的なものに対してはとても感度が鈍くて理解できないから、無理矢理すべての感覚を文字情報に翻訳して理解しようとしてしまう。
写真や映像を見ても、すぐに文字による解説をつけて「分析」してしまう。一秒あたり数百文字のキャプションを頭の中でつけ続けてしまうのだから、そりゃあ映像は疲れる。
まぁ、だからこそ、「何かを言葉で説明する」ことには長けていて、仕事の種になってるんだけど。

僕がとても方向音痴で道を覚えるのが苦手なのも、空間認知能力が不足していて、例えば「棚の中にこれらの道具が入りきるかどうか」と言ったことをイメージするのが苦手なのもこの「目から入った風景や映像を、そのまま理解することができない」ということに起因しているように思う。道を覚えるときにもわざわざ、「この看板を右に曲がって、三つ目の角を左折して……」と、言葉にして暗記しないとダメだから、とても負担がかかる。

こうして自分の特性みたいなのを改めて理解して把握しておくと、何が得意で何が苦手なのかすぐに判断できるので、昔に比べるとわりと生きやすくはなった。
とはいえ、僕の「非言語的理解力」の低さは、一般の人の「当たり前にできること」をかなり下回っているようで、特に仕事のときなんかは、自尊心的にはかなりつらいものがあるんだけどね……。

 

 

罵倒は正当化されない ~「Don't Be Evi.(邪悪になるな)」ということ~

しばらく前に、こんな文章を書いた。

 

fuduki-ren.hatenablog.jp

 僕がDon't Be Evil.を座右の銘的に掲げるのは、

Twitterをふくむネット言論で支配的な「悪いやつには何を言っても(しても)いい」という空気に流されないようにするためだ。


この間Twitterで見かけた、

 という意見は、「本当は前者が悪で後者が善なのに逆に思われてしまう」と言いたかったんだと思うけど、僕は後者に対してもひどく違和感がある。

現実には「前者が絶対悪なのだから、後者は攻撃的でも排除的でもない」とする考え方はある程度市民権を得ていて、だからこそ後者のような人が人気者になっているということも多いように思う。

Twitter上の議論がよくかみ合わないのは、このあたりの認識の違いなのかな。
後者を批判すると「前者の味方」扱いをされてしまったり……。

 

でも、「批判」と「罵倒」は同じではない。

僕の感覚では「罵倒」はEvilなので、どんな理由でも正当化はされない。

先ほどの例で言えば、「地獄に落ちろ」は明確に罵倒だから、たとえ相手が悪だとしても、その行為自体が正当化されることはないと僕は考える。
後者の人だって十分に「攻撃的で排除的」だと思うのだ。

まあそうは言っても、「正当化はされない」ということと「絶対にやってはいけない」ということはイコールではないとは思うけどね。
よくはないけどやってしまうことはあるさ。人間だもの。

僕だって、Don't Be Evil.は目標にすぎず、僕自身が今、胸を張ってI'm not Evil.と言えるわけではない。

それでも、「正義だと思ってやる」ということと、「よくはないけれどやってしまうことがある」ということは、少しだけ違うのではないかと、僕は思うのだ。

34歳。今日も生きてる。

少し前から毎年、誕生日前後にブログ記事を書いている。

「おめでとう!」と言われたいという下心もあるけど(笑)、定点観測的に自分の生き方を振り返るのにちょうどいいからね。

今の気持ちは、こんな感じ。

ここ5年くらい、毎年、誕生日の時点での生き方が、一年前の想像を超えている、っていうのを繰り返している。

30歳のときは結婚したばかりで、31歳のときは「ポリアモリー」という概念に出会って人生が様変わりしていた。

32歳のときは心身を捧げていた図鑑の編集者の仕事を過労と鬱で辞めたところで、33歳のときは、煉's Barでの「居場所づくり」に生きがいを見出していた。

そして今、34歳。

なぜか、長野県という、これまで縁もゆかりもなかった場所にいる。

またしても想像もつかないような仕事をしていて、会いに来てくれる人もたくさんいて、ふとした瞬間に「僕の人生はしあわせだな」なんて確信したりしている。

来年、35歳の自分が何をして何を思っているのか、さっぱりわからない。

わからないけど、わからないことが、とても楽しみ。

絶滅危惧種のうなぎを、大量に売る日本の現状に思うこと

ニホンウナギは、2014年についに国際的な絶滅危惧IB類に指定された。「希少な生き物」としてよく知られるジャイアントパンダやコアラよりも「絶滅の可能性が高い」とされたのである。

一方で、日本ではまた今年も「土用の丑の日」が近づき、全国的に「うなぎを食べよう!」というキャンペーンがすすめられている。

小売業と広告業界の努力の成果により、うなぎを売る勢いは近年、かつての何倍にも高まり、スーパー、コンビニ、牛丼屋などのファストフードで大量の「安いうなぎ」が売られている。

当然、土用の丑の日を過ぎるとうなぎを買う人は桁違いに減るので、丑の日直後には大量のうなぎが、ゴミとして廃棄されるのだろう。

 そんな社会について、思うところをいろいろとつぶやいたので、あとで読み返せるようにブログにまとめておく。

  

 

おまけ。

魚が食べられなくなる日 (小学館新書)

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