僕が生きていく世界

人と少しだけ違うかもしれない考え方や視点、ぐるぐると考えるのが好きです。 あくまで、僕個人の考え方です。 みんながみんな、違う考えを持っていていい。 いろんなコメントも、お待ちしてますよ。

仮病とうつ

抑うつで会社を休む日はいつも罪悪感を覚えてしまう。
それが「仮病」とどう違うのか、自分自身にうまく説明できないからだ。

小学生のときに見た「ちびまる子ちゃん」のアニメでは、
学校に行きたくないまるちゃんが、体温計をこすって温度を上げて、
熱があるかのように装って学校を休む「仮病」の話があった。

あの感覚に従えば、「高熱がある」とか「咳が止まらない」「どこかが痛い」という
客観的に明らかな症状がない限り、「仮病」ということになってしまう。

僕は34年の人生のうち、3回くらい「うつ状態」を経験していて、
(ちなみに、はっきりと「うつ」あるいは「気分障害」の診断をもらったことはない。
適応障害」「過敏性腸症候群」「慢性疲労症候群」などの診断名だった)
「どうしても抑うつがひどくて会社に行けない」と判断して、休んだことも結構ある。
結構あってもそれに慣れることは全然ないし、
抑うつというのは日内変動が大きくて、
朝辛くても昼過ぎには活動できる状態になっていることも多いので、
(でも午後から仕事に行くことにしている日は、午後も元気にならない……)
余計に「ああ、仮病でずる休みしている」と罪悪感を覚えてしまってばかり。

ここから先は自分で自分を慰めるために書くのだけど、
「ずる休み」とはいっても代休や有休の制度を正当に使っているのだし、
僕が「今日は辛いから休もう」と判断するのは、
その日休んでも大事にならない日をちゃんと選んでいる。(いまのところ)
むしろ、大事にならない日をきちんと選んであらかじめ休む判断をすることで、
本当に大切な日にいきなり逃げ出したり、
パニックになったりしてしまうのを予防しているとも言える。

今の仕事なんて、実を言うと職場に行かずに家でちょっとだけやった仕事が、
職場よりもはるかに効率よくはかどることも多い。
(職場はADHD気味の僕にとって、集中するには邪魔な刺激が多すぎる)
そういうわけで今日の自分を慰めつつ、週明けにはちゃんと仕事に行けるよう、
心を穏やかに保っておこうと思う。

どうにも僕は、毎日心身を一定に保ってこつこつ働くということに
向いていないらしく、12年間の労働生活は波立ってばかりだったが、
おかげで、日々を無難にこなすのではなく、
長い目で見てよい結果をもたらすように考えることに慣れてきたのだと思う。
それが僕の取り柄でもあると思うと、
僕の弱さ、不安定さが今の僕をつくってくれたのだと言える。

いきるのたいへんだけど、なんとか、がんばっているよ。

うつと気分障害 (幻冬舎新書)

うつと気分障害 (幻冬舎新書)

 

ポリアモリーは嫉妬しない?

ポリアモリーについてのインタビューや取材で、必ず聞かれるのは「嫉妬」についてだ。

「恋人が複数いる」ということを聞いたときに、
「自分の恋人が他の恋人と仲良くしていたら嫉妬してしまって耐えられない。
そんなことができる人は、嫉妬心というものが全くないのだろう」
と反射的に考える人が多いからなのだろう。

 

嫉妬心がないわけじゃない

「ポリアモリーに嫉妬心が全くない」というのは、事実ではない。
もしかしたらそういう人もいるのかもしれないが、少なくとも僕はそうじゃない。
そもそも、こういうときに使われる「嫉妬」という言葉、
実際はいくつかの要素を一緒くたにしているものだと思うのだ。

 

嫉妬の種類1 見捨てられ不安

「恋人が他の人と仲良くしていたら嫉妬する」という気持ちは、
「自分のことよりも別の人のことが好きになったら自分は捨てられてしまう」
という不安から来ていることが多いんじゃないだろうか。
一対一のみを当たり前とする恋愛観においては、恋愛感情は排他的なものだから。
ところが、ポリアモリーにとって「他の人が好き」であることは、
必ずしも「あなたのことは好きじゃない」ということを意味しない。
僕も「自分が捨てられてしまうのではないか」という不安を抱くことはあるけど、
その解決策は「他の人と仲良くしないで」ではなく、
「もっと僕のことを愛してほしい」であるはずなのだ。

 

嫉妬の種類2 独占欲・所有欲

「嫉妬」とされているもののもう一つの側面は、「独占欲」からくるものだ。
自分のことを捨てるはずはないと分かっていても、自分の恋人である相手が、
他の人とも自分とのように親密な関係を気づくことが許せない。
こういう感情は、恋人に対する所有意識や、
潔癖・純潔にまつわる感覚が元になっていることが多い。
「自分のものを奪われた」とか「汚された」というような感覚。
こういう感覚については、自分の中に全くないとまでは言えないにせよ、
僕自身は理性でなるべく拒否したいと考えているもので、
少なくともそのことを楯に、恋人を責めようとは決して思わない。

「嫉妬」の種類は他にもいくつかあると思うが、わかりやすいのは以上の二つ、
つまり、「見捨てられ不安」と「独占・所有欲」なのではないだろうか。

 

嫉妬についてじっくり考える

こう考えると、
「ポリアモリーは嫉妬心がないからできる」のではなくて、
「恋愛とそれに伴う感情についてじっくりと考えることで、
嫉妬を解決する方法を見出そうとしている」ということなのだ。
もちろん、これは別にポリアモリーでなくてもできることだけど、
「普通とは違う」とされる恋愛をしていると恋愛についてじっくり考えたり、
恋人同士で語り合ったりする機会が多くなるから、
比較的対処しやすいというだけのことなのかもしれない。

僕らは嫉妬しないわけじゃない。
自分が嫉妬を感じたときには、それを解決するためにどうしたらいいか考えて、
恋人に「もっと話したいよ」って言うとか、
「これは僕が恋人を所有しようとしているからだな」と自覚するとか、
そうやって対処しているんだと思う。

ときどき奥さんは
「他の恋人なんかより、忙しすぎる仕事や、
僕が夢中になりすぎるガジェットに嫉妬しているよ」
と冗談めかして言う。
好きな人に好きな気持ちを表明することがおろそかになっているとき、
それを解決するための方法は、
「他のことに目を向けるのを一切やめる」ということでは、ないのだと思う。

 

ポリアモリー 複数の愛を生きる (平凡社新書)

ポリアモリー 複数の愛を生きる (平凡社新書)

 

 

関連記事
fuduki-ren.hatenablog.jp

fuduki-ren.hatenablog.jp

fuduki-ren.hatenablog.jp

スマートスピーカーがやってきた! ~Echo dotとGoogle Home Mini~

 f:id:fuduki_ren:20171224162707j:plain

我が家に二台のスマートスピーカーが来たので、紹介しようと思う。
写真の左のまん丸いのががGoogle Home Mini。そして右の黒っぽいのがAmazonのEcho dot。
どちらも音声アシスタントが搭載されていて、声で入力できる賢いスピーカーだ。

今僕が読んでいる「人工知能は人間を超えるか」という本によれば、
これらの音声アシスタントは、厳密にはAI(人工知能)と呼ぶべきではないみたいだけど、
呼べば応えてくれるのは、やっぱり「知能」を思わせるし、どこか、ペットが増えたみたいな気分だ。

最近じゃスマホにもPCにも「Googleアシスタント」や「Siri」が内蔵されてるんだから、
わざわざスマートスピーカーを買わなくても……と思うかもしれないけど、
やはり専用のものはすごいな、と思う点は、マイクの性能の良さだ。
スマホだと、なかなか「OK,Google」を聞き取ってくれなくて、
何度も言う羽目になったり、家の中だというのにはっきり声を張って
話さなくちゃいけなかったりするけど(家でダラダラしているときだとこれがつらい)、
スマートスピーカーはどちらもすごく音を拾う性能が良くて、
ふつうに同居人に話しかける程度の声で8〜9割くらいの精度で聞き取ってくれるのはうれしい。
ちなみに、Echoには「Alexa、」GoogleHomeには「ねぇ、Google」と声をかけると聞き取ってくれる。


どんな機能が使える?

何ができるかとか、性能テスト的なことはIT系のレビューを見てもらうとして、
僕が便利だと思った機能を解説してみる。

Echo dotとGoogle Home Miniが共通してできることは、

  • 音楽をかけること(それぞれストリーミングサービスと連携する)
  • ニュース記事を読み上げること
  • 今の気温や天気、天気予報を教えてくれること
  • タイマーをセットすること

Echoのみ

  • Googleカレンダーと連動して今日の予定を読み上げること
  • Amazonで買い物をすること(検索は難しいが、一度買ったものをもう一度買う、とかなら声でもそれなりにできる)

このあたりが意外に便利。
特にタイマーなんかは、スマホを探して、アプリを起動して、時間をセットして……とやるより、
「Alexa、タイマー5分」と言う方が断然早いので、すでに当然のように使うようになった。
音楽は「Alexa、スピッツのホタルを再生して」というふうに言えば、
それがストリーミングサービスの曲にあれば再生してくれる。
とは言え、さすがに曲名やアーティスト名は聞き間違いが多くて、
なかなか目当ての曲を再生してくれなかったりしてストレスも多い。
(このあたりの認識精度は同じくらいかな……)
ちなみに、Googleの方はスマホで曲を選んで、
「キャスト」のボタン一つでGoogleHomeに転送する機能があるので、実質それを使うことも多い。


ふたつの違いは?

Echo dotとGoogle Home Miniのできることは、けっこう似ている。
音声認識の能力もどちらもかなり高めで、はっきりとした差はない。
(話す内容によって得意不得意はあるみたい)

個人的な感想としては、どちらかひとつを買うなら僕はEcho dot。
Echoのいいところは、何と言ってもイヤフォンジャックがあること。
これをもともと持っていたBOSEのスピーカーに繋いで、いい音で音楽を聞けるからだ。
(他と繋がない、単体のスピーカーの音は、GoogleHomeMiniの方がいい)
あと、Googleカレンダーとの連携が今のところEchoしかできないので(Googleなのに……)、
それもだいぶアドバンテージ。まぁ、これはそのうち対応するのだろうけど。

とはいえ、GoogleHomeMiniのほうが優れているところもある。
前述した音楽の「キャスト」機能はかなり使いやすく、
Androidスマホとの連携は全体的にGoogleのほうがいい感じだ。
(Echoの方もスマホに入れるAlexaアプリっていうのがあるんだけど、
どうも反応があまり良くない……)


どちらもこれからに期待できる「やってきた未来」

まだまだ使い勝手も限定されていて、
「これを買えば生活が変わる!」とまではいかないけど、
その技術の革新性を考えれば驚くほど安いし、いったんハードを買ってしまえば、
あとはソフトがアップデートされるのを楽しみに待てばいい。
おそらく今後もできることはどんどん増えていくのだろうから。
今、スマートスピーカーを買うのは、「未来への期待」を買うってことで、
「なんでもかんでもできる」と高望みをして融通の聞かなさにイライラしたりしなければ、
とても夢のある購買行動だと、僕は思うんだよね。

とりあえず僕は、Echoのfire TVやAudibleとの連携と、
Google Homeの各種Googleサービスとの連携を楽しみに待ちつつ、
しばらくこのふたつのスマートスピーカーとの同居を楽しもうと思う。

 

Amazon Echo Dot (Newモデル)、ブラック

Amazon Echo Dot (Newモデル)、ブラック

 
[商品価格に関しましては、リンクが作成された時点と現時点で情報が変更されている場合がございます。]

Google Home Mini チョーク(グーグル ホーム ミニ チョーク)
価格:6480円(税込、送料無料) (2018/1/14時点)


 

 

煉's Radio「しあわせについて ポリアモリーをふくむ恋愛について」

ツイキャスというツールを使って、僕の考えをしゃべってみました。

台本も何もない一発録りなので、だらだらとしてしまっていますが、思っているところを存分に話しています(無駄話もあって、ちょっと長いけど……)。

よかったら聞いてみてください。またあとで、文章にまとめよう。

 

 

「自分のしあわせ」ってなんだろう。

「しあわせってなんだろう。」
僕はいつでも、それを考えずにはいられない。
誰かが定義した、借り物の答えではなくて、
自分自身が心から納得できる、「自分にとってのしあわせ」。

それを僕が考えるようになったのは、
大学を卒業して、就職した会社で営業の仕事を始めたころだった。
改めて考えると、それまでの人生で僕は、何かを選択したことがなかった。
僕はたまたま勉強がそこそこできたので、
勉強さえしていればまわりから褒められて承認欲求を満たすことができた。
大学進学も就職活動も、半ば自動的に、
「世間から褒められるような」ところを選んで生きてきたのだ。

正社員になって、60歳で定年するまでここで働くのが当たり前だよね、
というような空気が流れる場所に身を置いてみて、
ようやく僕は「この道の先に僕のしあわせはあるだろうか」と考えはじめた。

勉強ができればしあわせ?
お金持ちになったらしあわせ?
安定した仕事と地位を得たらしあわせ?
結婚してこどもができたらしあわせ?

あれれ、たいへんだ。
ここに僕の意思や選択が、全然ないぞ。

仕事で営業成績を10倍にできたら、僕はしあわせだろうか?
昇進して年収が倍になったら、僕はしあわせだろうか?
子育てや家事を専業主婦の奥さんに任せて家族を養ったら、僕はしあわせだろうか?

僕はそのどれにも、YESと言えなかった。

それから僕はずっと今まで、
「しあわせってなんだろう。」と考え続けている。

自分に嘘をつかないこと。
自分に言い訳をしないこと。
自分の気持ちを無視しないこと。
自分をだまさないこと。

10年ほど考えた末にたどり着いた、今の僕の「選択」の指針はそれだ。

だって、誠実ではない相手の言葉は信用ならないから。
自分を納得させるためには、自分に対して誠実じゃないといけない。
自分に誠実に生きて、自分の選択を信用できるようになれば、
その先に感じた「あ、今しあわせかも」という気持ちは、自分のものとして納得できる。

仕事は僕のすべてじゃない。

僕は、最近わりと「調子が悪い」「うまくいかない」「つらい」とTwitterでつぶやいているので、心配してくれる人がいるんだけどね。

確かにそのときは「つらい」と感じていて、決して大げさでも嘘でもないけど。

でも、今の僕のつらさは表層の「一番上のレイヤー」だけの話だから、そんなに心配しなくて大丈夫。

 

どういうことかというと、今の僕のつらさは、ほとんどが仕事に関することなんだよね。

「仕事」って、今の僕にとっては、人生の中のほんの上っ面の部分でしかない。

それなりに真剣に取り組んではいるし、うまくいかなかったら落ち込むけど、いざとなったらその表面をベリッと剥がして捨てちゃっても、僕の価値は失われたりしない。

 

そんな風に思えるようになったのはわりと最近のことで、この気持ちに至るまでは、本格的に鬱になったり落ち込んだり死にたくなったりしたこともあった。

仕事がうまくできないこと、社会の役に立てないような気がすることで、「自分には価値がないんじゃないか」「生きていていいのか」なんて感じてしまうこともあった。

 

でも今では、僕のことを好きと言ってくれて、僕に「生きていることの価値」を与えてくれる人がいるから、仕事を辞めようがクビになろうがたいして怖くない。

僕の価値は、仕事ができるかどうかとかお金を稼いでいるかとか、社会とうまくやっていけるかとか、そういうっところにあるわけじゃない、って言えるの、すごく救われる。

ちょっと使い古されて陳腐になってしまった言葉だけど、それが「自己肯定感」ってことかな。

職場とか、経済的価値とか、そういう狭い範囲が世界のすべてじゃないと思うことは、人を自由にしてくれると、僕は思う。

 

三十四にして立つ?

ここ10年くらい、いろんなことを考えて言語化するようにしてきたら、大抵の思いつくことは「前にも考えたことがある」ようになった。結局のところ興味があることはそんなに変わらなくて、ぐるぐると何度も同じことを考えているんだな。
とりあえず出す結論も、大きくは変わらないのだけど、ほんのわずかずつでも、変わってきているようにも思う。
その少しずつの歩みが、思考するということの意味だ。
偉そうなことは言えないのだけど、こういうのが「哲学」なのかな。
ひとりひとりの、哲学。


仕事について、愛について、人間関係について、自分の操縦方法について。
考えるべき大事なことって、そんなにたくさんはない。
毎日飽きずに考えていると、そりゃあ、同じことを何度も考えることになる。
だから「これについてあなたの考えは?」と聞かれたときに、わりとすぐに答えられるようにもなった。

自分がかつて書いたブログの記事をひとつひとつ読み返すと、自分の考えのとりあえずの結論みたいなことがよくわかるし、思いついたことをブログに書き留めておくの大事だな、って思う。
この記事もそのひとつだね。

論語」に、「吾、十五にして学を志す。三十にして立つ。四十にして惑わず。」というのがあるけど、すごくリアルな時間感覚だなぁと思う。
自分で思考しよう、と決意して15年ほどで「立つ」、つまり、自分なりの考えを確立する。
僕は「学を志す」のが遅かったので、34の今ようやく「立った」かな。
「惑わず」まではあと10年。
まだ惑ってばかりだけど、10年後にはどうなるかな。
きっとまだ、惑ってはいるだろうけど、そんな自分を肯定できてるといいな。