僕が生きていく世界

人と少しだけ違うかもしれない考え方や視点、ぐるぐると考えるのが好きです。 あくまで、僕個人の考え方です。 みんながみんな、違う考えを持っていていい。 いろんなコメントも、お待ちしてますよ。

手書き日記をはじめてみた。

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SNSにあげるために手書きで書く、ってなんだかずいぶん無駄なことをしているようだけど、キーボードを叩くときとペンを走らせるときでは、思考のテンポが違う気がする。

僕の場合、なぜか手書きの方が早口というか、後から後から文章がわいてくることが多い。だから書くのが追いつかなくて、ついつい走り書きのようなあまりきれいではない字になってしまうのだけどね。

使っているペンは、PILOTの新製品、Juice upの0.3mmブルーブラック。

後から後から湧き出る思考に合わせて速書きをしても引っかかりにくく、かといって滑りすぎて字がつながってしまったりもしない、絶妙な書き味。

毎日Twitterで140字でつぶやくのになれていると、A5のノート1ページにびっしり書く、というのは意外と長く感じる。その分、思いつきをいつもよりは少し深めに考察することができて、自分自身の思考について、意外な発見があったりする。

もしこれを習慣にできたら、自分を見つめるのにずいぶんと役に立つのではないだろうか。

「毎日必ず日記を書こう」なんて考えるときっと続かないので、ときどき忘れてもいい、くらいのスタンスで、わりと長めに続けていけるといいな。

 

10年後に思いを馳せる。

最近、不安と心配がつきない僕は、しょっちゅう1ヶ月後のことを考えている。
ここ1年間の新しい仕事で任されている冊子の締め切りがそこにあるからだ。
1ヶ月後、仕事が全然間に合わなくて、
この1年間の僕が役立たずだったことが白日の下にさらされてしまうのではないか。
1年間で知り合った人たちすべてに見限られてしまうのではないか。
そんな妄想にもにた不安がよぎることもある。
(おそらくそんなことにはならないと思うのだけど)

その一方で、「たったの1年間」とも思う。
たったの1年前、僕はこの場所で何者でもなかった。
ここで得たものをすべて失ったところで、たったの1年前に戻るだけだ。
いや、得たもの――失わないものは、確かにある。
時間を巻き戻すことはできないけど、立場を失ったとしても、
残るのは1年前にはなかった経験を刻んだ僕だ。

何がその理由なのかは分からないけど、僕は自分を根無し草だと感じている。
どこか特定の土地やコミュニティに、愛着を持ったことがほとんどない。
今僕のいる長野県の田舎では、多くの人が生まれた土地、
育った土地に強い愛着を感じているようで、その様子を僕は、
遠い世界のことのように見ている。
僕にももちろん故郷はあるが、数年に一度そこに帰ったとしても、
そこに僕の居場所など別に見いだせないし、他に無数にある町との差は感じない。

それをさびしく思うこともなくはないのだけど、
土地にこだわらないことは執着がないことでもある。
「いつだって新天地に行けばいい」という気持ちは僕の不安を軽くしてくれる。

僕の「居場所」は物理的な場所ではない。
人とのつながりだ。そのつながりだって、一年もすれば顔ぶれは大きく変わる。
儚いとも言えるかもしれないけど、
流動性こそが心からの自主性を保証していくれている。
心からつながっていたいと思う人とは、ちゃんとつながっていられる。
そもそもの僕のつながりはもはや、土地や育ってきた環境や、
共有してきた思い出の数なんかとはまるで関係ないものなのだから。
だから僕はどこへ行こうとも、僕自身を見失わない。

5年ごとに自分の人生を振り返ろう、と思う。
社会の中で認められようともがいていた22~25歳。
「自分の選択」で「やりたいこと」を必死でやった26~30歳。
知らなかった世界を見てみよう、と踏みだした31歳~今、34歳。

10年後にはどうなっているだろう、と考える。
僕自身がどんな生活をするかどうかだけでなく、10年後には確実に時代が変わっている。
今、社会の中で過ごしてはっきりと思うのは、
30年前につくられた仕組みの残り香がまだ幅をきかせているということと、
それは確実にあと10~15年でほぼ一掃されるであろうこと。
今の社会で想像できる範囲で自分の10年後の姿を思い浮かべたって、
それはたぶん意味がない。

必要なのはしがみつかない気持ちと、環境が変わっても変わらないつながり。
未来は少なくとも僕にとって、より生きやすくなるであろうという希望が、確かにある。
10年後にも笑っていたいから、今の自分を過小評価しないようにしよう。

僕の文章を読んでくれるようなあなたも、きっとそうじゃないかな。
今、生きづらさを感じている人たちのための未来が、
少しずつ、少しずつ、足音を立て始めたのが、僕には聞こえる。

ちなみに、
今からやっておくといいものは何かなぁ。
やっぱり、英語かな。
より多くの世界とアクセスできるツールは、とても大事だな。
なんて考えてみたり。

依存気味のTwitterを、ちょっとおやすみ。

昨日、Twitterでこう宣言して、スマホからTwitterのアプリのショートカットを削除した。
ふと気がつくとすぐにタイムラインを眺めてしまって、
一日のつぶやきを全部追いかけようとしてしまって、
それがかなりの時間を浪費してしまっているように感じていたし、
最近僕自身がストレスを感じているので、刺激はなるべく減らしたいと考えたのだ。

そして今日、まだ一日も経たないというのに、
たびたびTwitterを開こうとしてしまう僕がいる。
普通に生活していても「あ、これTwitterに書こう」と思ってしまったり、
ごはんを食べ終わってぼーっとしているとき、
Twitterのタイムラインを眺める、ということをしないでいると、
手持ち無沙汰でやることがないと感じてしまったりしていた。

なんという依存!
せっかくいい機会なので、どうして僕がこんなにTwitterに依存してしまっているのか、
自分なりに考えてみよう。

ひとつはやはり、「つながりを欲している」からだろうな。
僕は4月に長野県という、縁もゆかりもない土地にやってきて、
慣れない仕事をやっている。
職場の人たちはとてもいい人だけど、
僕はここまでの人生で築いてきた「自分なりの世界」がわりと強固にあるので、
それを出会って間もない人たちと共有することは難しい。
僕が腹を割って心から話せる人といえば、奥さんの他はみな、離れたところにいる。
となると、「話したいけど話せないこと」が毎日おなかの奥にたまっていって、
ちょっと苦しくなる。そういうときにTwitterで吐き出せば、
タイムラインの向こうには、気心の知れたフォロワーさんがいて、
すぐに反応してくれる。
これがよいことなのかどうか難しいところだけど、
僕ははじめからネット上の「文月煉」という人格を、
「言いたいことを何でも言ってしまう存在」として作り上げているから、
何も気にかけずにすべてを書き込めるTwitterは、とても心地がよい。

つぶやく方だけじゃなくて、タイムラインを眺めることも、僕には魅力的だ。
そもそも活字中毒気味の僕は、いつでも「言語」を、
そしてその奥にある「思考」を求めている。
いろんな思考に触れるという知的好奇心が、
僕のアイデンティティを形成しているといってもいい。

しかしそんな偉そうなことを言いながら、日々の忙しさにかまけて
「めんどくさいことはしたくない」という怠け心も僕の中にははっきりとある。
というかむしろ、僕は類い希なる怠け者といっていい。
いつも楽することばかり考えて、面倒なことは逃げ出したいと思っている。
楽をして満足したり、楽をして欲求を満たせたら万々歳。
そんな僕にとってタイムラインにあふれる「言葉」たちは、
ファストフードのようなものだ。
長い本を読み通すのはめんどくさい。
そんなことせずにお手軽に「思考」に触れて、とりあえず知的好奇心を慰めたい。
そんな欲求に応えてくれるTwitter

とはいっても、僕はこれまで自分がTwitterに、
依存してきたことを後悔しているわけではない。
憂鬱気味で、腹の中に黒いものをためていたとき、
狭い世界でがむしゃらになっていることにむなしさを感じていたとき。
Twitterは僕を確かに助けてくれていた。
だからこれからも使い続けたいと思う。

ただ、あまり依存していると、知らず知らずのうちに疲れはててしまうので、
ときどき距離を置いて、ほどほどにね。

安全圏から他人を断罪するという快楽に抗え

Twitterでこうつぶやいたところ、かなり多くの反応を得た。
こういうことに共感する人は日に日に増えているのだろう。
にも関わらず、こういう馬鹿げた報道は減らないし、
テレビのワイドショーは相変わらずこの手の映像垂れ流し、
コメンテーターは「介護を言い訳にした不倫はよくないですよね」と知った口を叩く。

メディアが悪いのは間違いないが、確かにそれを求めている人がいる、
というのはよく分かる。
他人を安全圏から断罪するのは、「気持ちいい」のだ。

かつて、江戸時代や中世のヨーロッパで、あるいは現代の中東などの一部の国で、
公開処刑」が最大の娯楽として通用しているのと同じ原理だ。

資本主義経済では、お金を稼ぐことは善とされる。
原則として、
「たくさんお金をもらえるということは、
それを求めている人に応えているということだから、
より多くの人をしあわせにしている。
だからそういう人は多くの見返りを受ける権利がある」
という考え方。
だからタレントのスキャンダルや暴露報道なんかも、
「知りたいという人がいるからそれに応えて何が悪い」と言いがちだ。
でもこの理屈では、覚醒剤を密売して大儲けする人を非難できなくなってしまう。

「職業に貴賎なし」と言うけれど、それは嘘だ。
がんばって仕事をすればするほど、人を傷つけ、社会を悪くするような仕事もある。
倫理を持たずにする仕事は、尊くない。それは奴隷の仕事だ。

僕自身の譲れないわがままとして、
生きるために倫理を捨てて、社会を悪くするような仕事に従事することがないように、
誇りをもって生きたいと思う。

 

globe

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殺して忘れる社会---ゼロ年代「高度情報化」のジレンマ

殺して忘れる社会---ゼロ年代「高度情報化」のジレンマ

 

 

レビュー LOST IN TIME「時計」

 10年前に書いたレビューを掘り出してみる。

時計

時計

 

 何度聴いても新しい感動がある、僕が持っているアルバムの中で間違いなく1,2を争う、大切な大切な一枚。

アーティストはLOST IN TIME
このアルバムの頃はベースヴォーカル、ギター、ドラムのスリーピースバンド。

LOST IN TIMEを語るとき、まず取り沙汰されるのはヴォーカル海北大輔の類い希なるソングライティング、特に剥き出しの言葉を連ねた、その歌詞だ。
他のアルバムでは、絶望や悔しさ、寂しさを叫ぶ、ネガティヴともいえる楽曲の多いLOSTだが、このアルバムは全体に肯定と優しさで満ちており、彼らの作品の中では異色を放っている。
それに併せて普段は血を吐くような、喉もちぎれんばかりといった風が目立つ歌い方も、このアルバムではむしろ「音一つ一つを丁寧に」紡いでいる。
かといって、このアルバムが他のアルバムに比べてエネルギーに欠ける、耳障りのいい売れ筋に走っているというわけでは決してない。
彼らの肯定は、前二作で絶望を知り、自らの矮小さ、孤独の恐ろしさを痛いほど知った彼らだからこそ作れる、「到達点」としての肯定だ。
そこには弱さや醜さを否定するのではなく、それを抱えたまま、痛みを伴った肯定がある。
そうでなければ決して「頑張ってるふりなんて しなくてもいいんだよ」などという歌詞は書けないだろう。

しかしながらこのアルバムの魅力は、海北大輔の歌だけにあるのではない。
圧倒的な、楽器の音色。
歌、ギター、ベース、ドラムの4つの音が創り出す完璧な世界。
これほどまでに完成度の高い音楽世界は類を見ない。
普通、スリーピースバンドと言えば、ドラムとベースがリズムを刻み、ギターがメロディを助ける伴奏となり、歌がメロディラインを刻む、といったイメージではないだろうか。
時折、間奏や前奏で、ギターソロが目立つ他は基本的に歌が刻むメロディーをいかに見せるか、が重要なはずだ。
ところが、LOSTはちょっと違う(と僕は思う)。

大岡源一郎のドラムがリズムの要だ。
強弱も緩急も、音色の違いも完璧に使いこなす彼のドラムは、まさしく感情あるドラムだ。
ベースの共演に頼らずとも、ドラム一本で喜びも悲しみも、強さも弱さも、すべてのリズムを鮮やかに表現する。

では海北大輔の奏でるベースは何をするのかと言えば、メロディを奏でるのである。「リズムを刻む」どころか、その演奏はどこまでもメロディアスだ。
「目立たずにメロディを下から支える」というより、ばっちり前衛で目立ってしまう。
正直に言って、歌の伴奏はドラムとベースだけで十分にこなしている。

となれば、残る榎本聖貴のギターの役目は?
言ってみれば「やんちゃな遊撃兵」だと、僕は思っている。
彼の奔放なギターは、歌の伴奏をするつもりなど毛頭ない。
右かと思えば左、上かと思えば下、という具合に、メロディの隙間を縦横無尽に駆け抜けては、予想もしなかったフレーズで僕らを翻弄する。
曲の裏方としての地位などには決して満足せず、時には飛び込むように颯爽と現れ、主役の座をほしいままにする。
それでいて決して曲の均衡を崩すことはなく、ヴォーカルを邪魔することもないのだから、見事という他にない。
このアルバムを聴き終えたとき、あなたはギターの持つ信じられないほど多彩な表現力を目の当たりにして呆然とするだろう。

ギター榎本聖貴のLOST IN TIMEからの脱退により、この組み合わせの作品がもはや見られないのは残念だが、一度リリースされた以上、このアルバムはいつまでも完成された作品として残り続ける。


スリーピースという最小単位が創造する音楽世界の極限が、ここにある。

レビュー 大野更紗『困ってるひと』

本の帯にある、「難病女子による、エンタメ闘病記!」というのがすべてを表している。
主人公は難病女子で、闘病記なのにエンタメなのだ。信じられないかもしれないが、これ本当。

著者にして主人公の大野更紗は、1984年生まれ。僕のいっこ下だ。
彼女の印象を一言で言うなら、「猪突猛進型学者見習い女子」。
行動力と熱意があり、頭の回転がものすごく早いながらも、
論理に偏ることなく、感情や直感をないがしろにしない。
そんな彼女が、「ビルマの難民を研究しよう!」と前のめりで突っ込んで、
タイとビルマの国境に足繁く通っていたある日。

ビルマ女子は突然の病に倒れた――。
病名もなかなかつかないほどめずらしく、
何度も生死の境をさまよったり、激痛で指一本動かせなくなるほどの難病。
だけど、ここでバッドエンドになったりしないのが、
大野更紗のすごいところだ。

病には倒れたが、物書きとしては立ち上がった――!
ビルマの難民の難民を研究するために危険な国境地帯にまで行ってしまう、
「フィールドワーカー」としての本領を発揮して、
彼女は、「難病女子」という「難民」、すなわち自分を研究対象にして、
ほんとうにほんとうに面白いノンフィクションを、書き上げてしまったのだ。

この本を読んだ直後、僕は「読書メーター」の感想に、こう書いた。

この本の、この著者のすごいところは、
「変わった体験をしていること」ではないと思う。
こんなにすごい生活をしながら、それでも「この日々を文字にしよう」と思えること。
それも信じられないくらいに巧みな筆で。
「僕はこんなに大変だ。だからなんにも生み出せないよ、しょうがないだろ」と、
何かにむかって吠えている僕とは、えらい違いだ。
著者を心から、尊敬する。


本当に衝撃的だった。

この本がこんなにも面白い理由のひとつは、
とにかくなにを描写するにしても、著者の「目の付け所」が的確かつ独創的なことにあるだろう。
なにものにも興味と疑問をもち、納得できるまで考えぬく。
現状を「当たり前」などと思うことはなく、
ひとつひとつを、理解できるまでじっくり解きほぐしていく。
かといって決して冷たく分析するというわけじゃない。
ときに誰よりも熱く、誰よりも感情的なのに、
必ず一本、論理の筋が通っているのだから、共感せずにはいられない。

病気の話だけじゃない。
何を見て、何を考えて今を生きるか。
本当は、「当たり前」なことなんて何ひとつないのに、
もしかして自分は、思考停止しているのではないか。
そんなことを改めて考えるため、すべての人に読んでほしい、名著。

文庫化もされてるし、いっぱい買って配りたいくらい。

レビュー 牛窪恵『恋愛しない若者たち』

 

  
 「若者たちが恋愛しない理由は、社会そのものにある。本人を批判するのはおかしい」

と指摘していて説得力がある。

 

一方で、あくまでもバブル世代の大人たちに向けた本という感じで、

著者がいわゆる「バブル世代の成功者」なので、

「自分達の時代は恋愛はとても楽しいものだった。それを知らない若者は可哀想」

という視点なのはなんともモヤモヤする。

僕からするとバブル期の希望に裏打ちされた生き方って、覚醒剤でハイになっていた状態みたいにも見えるなぁ。

 

「多大な恋愛リスクや不良債権が露呈したいま、もし彼らに「怖がるな」「思い切って恋愛してみろ」と言うなら、失ったものを取り戻せる社会、底辺からでも這い上がれる社会を、大人たちが中心となって創り上げていく必要があるはずだ」(本文より引用)

ここには深くうなずいた。 

 

特に「おわりに」がよかった。

「いまの若者は、ていのいい自己責任論を振りかざし、何もしてくれない大人たちにうんざりし、「せめてリスクだけは減らそう」と恋愛にまで背を向け始めた。一方で、不安な時代だからこそ、誰かと連帯する経済的・心理的メリットを痛感している」

 

この本で取り上げられている、

フランスの「パックス」とスウェーデンの「サムボ」の制度はすごくいいな、と思う。

日本では「まともな人間ではない」と扱われるような人たちを、公的に承認する制度。

正直言って社会の成熟度の格が違うんだなぁと感じた。

未来を見据えているか、目をふさいでいるか。

 

読んでよかった。なかなか考えさせられる本。

しかし、未来は実感的にかなりきびしいなぁ。ちょっとどんよりする。