僕が生きていく世界

人と少しだけ違うかもしれない考え方や視点、ぐるぐると考えるのが好きです。 あくまで、僕個人の考え方です。 みんながみんな、違う考えを持っていていい。 いろんなコメントも、お待ちしてますよ。

「ふつう」に、あらがう

おそらく、このブログの読者も少し増えたりしていると思うし、
僕自身も自分のことを考えることが増えたので、
このあたりで少し自分の立ち位置を整理してみようかなと思う。
 
広く公開している方の名前ではあまり語らず、
あえて交流を限定した「文月煉」の方で
語ってきたことは主に、ポリアモリーに関すること、
それから、セクシャルマイノリティ全般に関することだ。
ポリアモリーというのは聞き慣れないと思う。
僕自身もちゃんとわかっているとは言い難くて、
ここですっきりと説明できないのだけど、
簡単に言うと、複数の人を同時に好きになることで、
僕自身の感じていることについては、
この記事を読んでもらえたらと思う。
 
でも本当は、自分がどの概念に当たるか、
とかそういったことは比較的どうでもよくて、
僕が文月煉の名前でたびたび考えてきたことは、
「世の中で、ふつう、とされていることを疑い、ときにはあらがう」
ということだ。
 
自らをマイノリティ(少数派)だと自認している人は、
「普通とされている人」を「マジョリティ」とよび、
「普通であるべき、普通でなくてはならない」とする考え方を、
「マジョリティ規範」と呼んだりする。
僕の思考は、このマジョリティ規範への反発、
というところに源があることが多いと思う。
 
マジョリティ規範は、世界を狭くする。
自分たちをふくめた「まともな人」と、
自分たちとは関係ない「おかしな人」に世界を大きく分けて、
まともな世界から決して出ないように生きていく。
そういった意味で、僕は間違いなくマジョリティ規範の中で育ってきて、
少なくとも25歳まではまぎれもないマジョリティだった。
 
狭い狭い世界。
レールを外れてはいけない。
人並みでなくてはならない。
ちゃんとしなくちゃ、落ちこぼれる。
周りの人に、それが正しいよ、と言ってもらいたい。
そういう中での生き方。
僕は優等生だった。
 
学校を卒業し、
最初につとめた大きな会社を辞めて、
「与えられた場所」ではないところで出会った人たちとふれあって、
僕はようやく、レールの外にも道があることを知った。
自分が世界だと思っていたところはただの金魚鉢で、
そこから出ても死んだりしないことがわかった。
僕はそのとき、たぶん、やっと生まれたのだと思う。
二度目の誕生。
 
知らない世界を知れば知るほど、
自分の中にだって、本当はもっといろんな、
感情や思いや考えがあることを知っていった。
それは、見ない振りをしていたものだったんだ。
自分の心に素直に生きたい。
心地よい場を探していきたい。
なかったらつくればいい。
 
だから、僕は、ふつうを疑いたい。
必要ならば、あらがいたい。
僕のように、ふつうに苦しめられている人がいたら、
そっと手を伸ばしたい。
できることはそんなにないけど。
僕は臆病だし、戦うのは苦手だから、
かわし方や逃げ出し方を考えるよ。
僕や、僕の好きな人が、楽になれるように。
 
最後にこれだけ、ちゃんと言っておきたい。
僕は、マジョリティを批判したいんじゃない。
というか、世の中に「マジョリティ」と「マイノリティ」がいるだなんて思ってない。
ほとんどの人がきっと、
何かに関してはは多数派で、何かに関しては少数派だ。
だからこそ、「マジョリティでなければならない」という息苦しい規範には、
あらがいたい。