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僕が生きていく世界

人と少しだけ違うかもしれない考え方や視点、ぐるぐると考えるのが好きです。 あくまで、僕個人の考え方です。 みんながみんな、違う考えを持っていていい。 いろんなコメントも、お待ちしてますよ。

最近のつぶやきまとめ

ここ10日間くらいのつぶやきを、とりあえずまとめてみた。

結構、面白いこと言っている気がするのでちゃんと整理したいな。

 

ツイートがふぁぼられたりリツイートされるってことは、誰かの心に届いた、ってことなんだなぁ、とふと。自分の言葉を誰かに届けたくてブログやホームページを作ったのが10年前。

社会人になったばかりの頃、仕事から帰ってきて、人生の唯一の楽しみが、物書きだった。夢中で小説を書いてた。今じゃ、楽しみが多すぎて、小説を書く暇もない。驚くべき変化だなぁ。だけど、僕の孤独と劣等感を癒やしてくれた物書きと、それにともなう人々との交流への感謝は、忘れない。

プラスの感情の総量を増やしたいのだ。自分のことだけじゃなくて周囲の、そしてできれば社会の。


人当たりが良すぎて、誰かと会っているときはいつも楽しくニコニコはしゃいでしまう人は、ニコニコしながら不満をためていて、相手は一切知らない間に嫌われていたりするから、びっくりする。

実はそういう人は他人に対して冷たくて、一つ一つ丁寧に不満を相手に伝える人のほうが、嫌がられがちだけど、優しかったりするんだろな。という話を昨日した。

今だと、Twitterの表アカウントですごく仲良くしているように見える相手に対して、裏垢でずっと嫌い嫌いと言ってたりすることもあるんだろうな。

みんなに、優しくなれ、というのはお門違いなのはわかっているけど。誰にでもにこにこしている人は、いつか自分を切り捨てるのではないか、と警戒したりしてしまうな。笑顔で切られるのはとても、つらい。切られる前に、いつの間にか嫌われているのも、とても苦しい。

誰かに対して不満を言う、というのは多分相手に対する期待があるってことで、不満を言わずにさっと離れる人は、他人への期待が低いのかもしれない。でもそのわりに、「何も言わなくても完璧に自分の理想通りの人」を求めていたりもする。


沈黙は金、というのは世渡りとしてはかなり正しいんだろうな。僕はずいぶんと愚かだね。

沈黙には忍耐が要る。僕には忍耐が足りないかもしれない。


誰に好かれようと嫌われようと、かまわない。そんなふうに思えるまで、あと何年くらいかかるかな。

三十にして立つ。四十にして惑わず。
なんてふうになれたらいいけどね。

三十にして立つ、はどうにかできたような気がしてる。つまり、誰のせいにもせずに自分の選択で、自分のために生きる、ということが。

四十にして惑わず。は、たぶん無理(笑)。あと8年。


Twitterというツール、フォロワーという「比較的自分の身方である可能性が高い人たち」に対して発言する場所だから、どうしても、「ねぇねぇ聞いて、僕に共感してよ」という、「自己正当化」の場所になりやすいんだよな。……ってこれは本当に、僕自身が心に刻むべきこと。

鍵アカならもはや完全に自分の取り巻きだけを集めた世界だから、余計にだ。そんな場所で「客観的に」考えていると思い込んじゃいけないなぁと思う。

僕はTwitter世界に入り浸りすぎて、Twitterで自分がつぶやいたことに、自分の思考が影響を受けている、みたいな状況があるからなぁ。気をつけないと。独り善がりになってしまうな。


「手を差し伸べること」と「価値観の押し付け」との境界線。

ただそこにいるだけで、誰かの助けになるような存在になりたいし、そういう場を作りたい。いつも機嫌がいい、仙人みたいな大人。

アドバイスの功罪。アドバイスがときに暴力的で、相手を傷つけるものである、ということは確かだ。でも、確かに「功」の側面もあるんだよな。びびって、誰にも何も言わなくなるのは簡単だけど、それでは勿体無い、と思うこともある。自分が若い頃に、導いてくれる大人がいたらなぁと思ったから。


「手を差し伸べたい」という気持ちと「おせっかいはもうよそう」という気持ちの間で揺れている。正反対な二つの気持ちが、どちらもどんどんと大きくなるばかりで、二律背反がどんどん進む。

「最近の若者は」というような言い方はあまり好きではないのだけど、若い人の中に、声高に助けを求めながら、伸ばされた手を激しく拒絶するような人が多くなっているようにも思う。

人の流動化が進むことで人間関係が交換可能なものになり、「深く人と付き合うコミュニケーションコスト」を支払うことが少なくなった、と、宮台さんは言う。なるほど。

「友人関係のコストパフォーマンス」ということについて、今日も考える。最近「結婚はコスパが悪い」という雑誌の記事が話題になったけど、コストパフォーマンスというのは、資本主義の言葉だ。人間関係が資本主義化してるといえるのかな?

深く付き合わないことが合理的になったのは、人が移動するようになってコミュニティが流動的になったからだ、と宮台氏は言う。ネットコミュニティなら現実の移動は必要なく、自由に出たり入ったりできるから、流動性は無限大だ。

流動性」だけではなくて、重要なのは「自分でつきあう人を選べるようになった」ということだろうな。買うものを選択できることが、資本主義の基本とも言える。だからこそ、「コスパ」という話が出てくるのだ。

「つきあう人を選べるようになった」ということは、インターネットがもたらしたことのなかで、もっともすばらしいことだと、僕は思っている。そのおかげで、今のしあわせな僕がいると言っても過言ではない。だけど、それが「深く踏み込まないフラットな人間関係」を促進していると思うと、複雑だ。

「フラットな人間関係」も、それ自体は素敵なことだと思うんだけどな。「会社の人と家族ぐるみの付き合いをする」みたいな選択できない人間関係の濃密さは、僕はとても苦手だし、僕も職場では「人間関係が淡白だ」と思われているだろうし。

ただ、宮台さんも言うように、フラットなつきあいだけになってしまうと、承認の問題にぶつかるのだろう。「みんな自分をチヤホヤしてくれているけど、本当の自分を知ったら離れていくに違いない。誰にも本心は出せない」というふうに。心を開いていない相手にどれだけ認められても、安心できない。

「心を開く」とか「相手を信頼する」とか「深くつきあう」とか、なんとなく漠然とそれは必要で、大切なものだと思ってしまうのだけど、他人に奨めたり、はっきりと説明したりできるものじゃないからもどかしい。僕だって誰かにすすめられたら、おせっかいだと感じてしまうだろうし。