僕が生きていく世界

人と少しだけ違うかもしれない考え方や視点、ぐるぐると考えるのが好きです。 あくまで、僕個人の考え方です。 みんながみんな、違う考えを持っていていい。 いろんなコメントも、お待ちしてますよ。

Twitterと自己承認

僕はふだん、かなりの頻度でTwitterを使っている。

いや、正直に認めてしまうと、わりと「依存している」と言えるかもしれない。

 

実際、Twitterというのは、なかなか怖い装置だ。
誰しもがもっている「自己承認欲求」を、リスクなしに、お手軽に満たしてくれる。
Twitterなんて、かまわれたい人だらけだから、
「手当たり次第、マメにかまう」だけで、相手が自分に気を許して、
「相手を承認することと引き換えに自分を承認してくれる」ことは割とある。

 

例えば、「おはよう」とつぶやいたら、たくさんの人に「おはよう」と返してもらえたり、
「体調が悪い」と言えば、みんなに心配してもらえたり。
自撮りをあげればたくさんふぁぼがついたり。
そういうことで承認欲求は満たされる。
自分は誰かに気にかけられている、という気持ちになれる。

このこと自体は、悪いことじゃないと思う。
「誰も自分のことを見てくれない。
自分のことを気にかけてくれる人なんて、この世にいるはずがない。」
そんなふうに思って闇の中にいる人にとっては、希望ですらあると思う。

 

ただ、Twitter上での「承認のしあい」は、
あなたが相手にとって大切な存在だから承認されているのとは違う。
承認されたい者同士が、「お互いに承認しあうことにする」、
いわば「裏取引」のようなことが多いから、実は脆い。
ちょっとしたことがきっかけで、手のひらを返したように憎しみ合ったり、
相手の現実の環境の変化などであっという間に切れてしまうことも多いだろう。
そうしたときに、本人の努力や配慮の結果ではない「偽りの承認」は、
何一つ残さないまま、綺麗さっぱり消え去ってしまう。

 

経済が右肩上がりだった時代は、働くことによって自己承認欲求を満たしやすかった。
会社での肩書や、収入が、そのまま自己承認してくれた。
それが極めて困難になった現代、
お手軽自己承認装置としてのSNSやネットが、滑り込んできたといえるのだろう。

 

これは自戒も含めてだけど、
Twitterでの「承認」に依存しているような人を見かけると、不安を覚えることがある。
もちろん、Twitterがなければ出会えなかった人など、Twitterのメリットは山ほどある。
ツールをいかに上手く使うか、それは人間次第なのだということを、改めて考える。