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僕が生きていく世界

人と少しだけ違うかもしれない考え方や視点、ぐるぐると考えるのが好きです。 あくまで、僕個人の考え方です。 みんながみんな、違う考えを持っていていい。 いろんなコメントも、お待ちしてますよ。

「しあわせを語るな」という呪いについて

しゃかいについて。 ぼくの倫理。

Twitterを見ていると「Facebookが嫌い」という発言をよく目にする。
なぜかというと、「リア充のしあわせ自慢に見えるから」。
特に独身の人は、Facebookで同級生などが家族や子どもの話題でしあわせそうにしていると、自分と比較してしまい、家族も子どももいない自分が惨めに思えてしまう、というのだ。
だから、「自分がしあわせであることを自慢するな、自重しろ」と、本気で主張する人もいる。

実際、日本社会は(Facebookで多少変わってきたとはいえ)しあわせを語ることを嫌う傾向が強い。
逆に「自分は不幸だ」「自分はこんなにダメだ」と嘆くことには寛容に思える。
そういう人を見ると、「自分はまだマシ」と安心できるからだろうか。

SNSでそれぞれが「自分のしあわせ」を語ることが、「みんな同じことをしなければならない雰囲気」だと感じるのは錯覚だし、それを「しあわせの押し売り」と考えるのは被害妄想だ。
劣等感を覚えるのは他の誰でもなく自分自身が「独身は負け」だと思いこんでいるからであって、問題は、「しあわせを語る人」にあるんじゃなくて、「他人のしあわせを許せないと思う自分」の方にある。

共感が得られてお金になるからだろうけど、現代の広告社会は、そういう被害妄想的劣等感を刺激して、「みんなを見返すために○○しましょう」とか「負けたままでいいの?」みたいなことを言いすぎだと思う。
被害妄想からくる動機で行動してたらどこかで崩壊する。

他人との比較や相対評価なんぞ取るに足らないよ。それぞれの感じるしあわせのかたちは違うんだよ。ということを自分で納得できていないと、他者からの圧力がなくなっても、無限に被害妄想を生み出してしまって、生きづらさは決してなくならない。
「しあわせを語るな」という言葉は、巡り巡って自分を呪う言葉になる。

他人と自分を比べる「相対評価」には大きな問題がある。
自分の相対評価を上げるもっとも簡単な方法は、自分を高めることではなくて、「他人を失脚させる」ことだからだ。
人々が「社会や集団の中での相対評価を高めることこそしあわせ」だと錯覚していたら、おたがいに足を引っ張り合う社会・集団になるのはごく自然なことだ。

だから、たとえそれが多数派の意見だったとしても、他人を妬み、足を引っ張ろうとする声には耳を傾けてはいけない。
それに従ったら行き着く先は、「みんなで不幸になる」しかないのだから。
しあわせは、相対評価ではない。周りの人が不幸になったらあなたがしあわせになる、なんてことはありえないのだ。