僕が「ポリアモリー」を発信するわけ
ヤフーニュースのコメント欄やTwitterの反応を見て心を痛めている、ポリアモリーに親和的ななかまたちへ。
— 文月 煉 (@fuduki_ren) 2016年11月1日
脊髄反射的な批判は3日ももたないから大丈夫。
1週間経てば、ちゃんと興味を持ってくれる人だけが残る。そういう人達の心に届けばいいのだ。
僕がツイートで予想したとおりに、
脊髄反射的なポリアモリー批判はもうほとんどなくなったみたい。
こんなタイミングで、それでもまだこの言葉が心に残っているあなたへ、
僕が「ポリアモリー」を発信するわけを伝えたいと思う。
ポリアモリーを批判する言葉の中に数多くあったのが、
「黙ってやっていればいい、表舞台に出てこようとするから叩かれるんだ」
というもの。
まぁ、そうかもしれない。
僕はもうすでに、見ず知らずのだれかに認めてもらったりしなくても、
僕の手のとどく範囲の親しいなかまたちとともに、しあわせにくらしている。
このままの生活を続けようとするのならば、口を閉ざしてしまってもいいのかもしれない。
だけど。
今僕の周りにいる大切な人たちとつながることができたのは、
僕が声を上げたからだ。
同時に複数の人を愛してしまうことはいけないことなのだろうか?
好きな人たちみんなで、しあわせになれる方法はどこにもないのだろうか?
そんなふうに思ったどこかのだれかが、
インターネットの海を泳いで、僕のところにたどり着いた。
そのために必要だったのが「ポリアモリー」という言葉の「目印」だ。
僕自身はもうしあわせで、これ以上周りに望むことはないのだけれど、
日本中にはまだまだ、一人で悩んでいる人が大勢いるんだろう。
僕自身は教祖でもなければカウンセラーでもないから、
流れ着いた人を救うことができるわけじゃない。
だけどもしかしたら、僕自身がしあわせに生きていることそのものが、
だれかを少しだけ勇気づけるかもしれない。
世界の意識を変えられるのはまだまだ先だろう。
今はまだそこまで望んでいるわけじゃない。
ただ、孤独にふるえている、あなたのところに届いたらいいな。