罵倒は正当化されない ~「Don't Be Evi.(邪悪になるな)」ということ~
しばらく前に、こんな文章を書いた。
僕がDon't Be Evil.を座右の銘的に掲げるのは、
Twitterをふくむネット言論で支配的な「悪いやつには何を言っても(しても)いい」という空気に流されないようにするためだ。
この間Twitterで見かけた、
「黒人が全員いなくなれば差別問題は解決するという考え方もあると思います」という意見と、それに対する「あるワケねえだろ地獄に落ちろレイシストめ」という意見があったとき、どうやらTwitterには前者が穏当な主張で後者が攻撃的で排除的な主張に見える人が一定量いるらしいと知った。
— あおじる (@t2o_yama) 2017年8月21日
という意見は、「本当は前者が悪で後者が善なのに逆に思われてしまう」と言いたかったんだと思うけど、僕は後者に対してもひどく違和感がある。
現実には「前者が絶対悪なのだから、後者は攻撃的でも排除的でもない」とする考え方はある程度市民権を得ていて、だからこそ後者のような人が人気者になっているということも多いように思う。
Twitter上の議論がよくかみ合わないのは、このあたりの認識の違いなのかな。
後者を批判すると「前者の味方」扱いをされてしまったり……。
でも、「批判」と「罵倒」は同じではない。
僕の感覚では「罵倒」はEvilなので、どんな理由でも正当化はされない。
先ほどの例で言えば、「地獄に落ちろ」は明確に罵倒だから、たとえ相手が悪だとしても、その行為自体が正当化されることはないと僕は考える。
後者の人だって十分に「攻撃的で排除的」だと思うのだ。
まあそうは言っても、「正当化はされない」ということと「絶対にやってはいけない」ということはイコールではないとは思うけどね。
よくはないけどやってしまうことはあるさ。人間だもの。
僕だって、Don't Be Evil.は目標にすぎず、僕自身が今、胸を張ってI'm not Evil.と言えるわけではない。
それでも、「正義だと思ってやる」ということと、「よくはないけれどやってしまうことがある」ということは、少しだけ違うのではないかと、僕は思うのだ。