「ウィークエンド・エンド」 by まくのうちヴェント @akazunoma 「お題バトル0516参加作品」
【使用したお題】
日本語、隕石が堕ちる、峠道、愛、空、飴、雨
ここ数日、何も口にしていなかった。
腹はずっと螺貝を吹き続けていたが、そのうち何も入ってこないことを悟ったのか、空虚な主張をやめた。布団と背中がぴったりとくっついて、手足を動かすたびにギギギと錆びた鉄のような動きをするので、そのうち動くのもやめた。その代わりにやたらと喉が渇いて、肺で息をするたびに行き来する渇いた空気に、気道がささくれだっては苛ついて、何も吐くものがないのに戻しそうになるのだった。
外から子供の声すら聞こえなくなって、半年は経っただろうか。趣味で購読していた新聞も、もう2ヶ月以上届いていない。最後の記事の一面は「謎の物体、東京の地図を変える」だったか、「内閣総理大臣、自決」だったか「医師会ストライキ」だったか。もはや新聞を開くたびに、自分の内側がゴリゴリと削れていくので、そのうち読むのをやめた。
その裏に載っていたどっかの水族館でイルカの赤ちゃんが産まれたなんて記事の方が、よっぽど心が欲していたので、スクラップしてまで壁に貼ってあるのに、なんだかすでに古い絵画にすら思えてならない。
何度も峠は越しました!皆さんの努力が実っています!と言っていたアナウンサーの顔もしばらく見なくなった。最初に止まったのはテレビだった。再放送。再放送。再放送。誰かが死んだ。特集。そして再放送。そのうち四六時中、ポーという音に無意味なカラーバーしか見れなくなったので、つけるのをやめた。
元々狂っていたインターネットは、よりおかしくなって、最近は人類は救済されるのだとかハルマゲドンの再来だとか、我先に預言しようとする承認欲求に嫌気が差していたのだが、とあるプロパイダが障害連絡を起こしたっきり、ゆっくりと発言するアカウントが減っていった。今は限られた人が天気の報告をするだけだ。自分の端末は既に文鎮と化し、限られた電気を効率的に使うために、充電すらしていない。
そのうち冬から静かに春が来て、夏が来て、クーラーが止まり、冷蔵庫が壊れ、自分も色々を諦めたところだ。電気が止まってから水が出なくなるまでは早かった。ある朝、顔を洗おうと蛇口を捻ると、キュ、キュと虚しい音が鼓膜に響き、目の前が真っ暗になった。その日以来、ベッドから動くことが出来ていない。
部屋に放置したパレットは、カチカチに絵の具が渇いて独特の化学臭を放っていて、寝て、起きて、その匂いを認識できるかどうかが、自分が生きているか死んでいるかの判断の要だ。
最後に人間らしい活動をしたのはいつだったか。あけおめー、また遊ぼうね!そう言って飲み会でビールを交わした友人にしばらく会ってない。ビール。ああ、ビール、呑みたいな。こんな夏、ビールだろう。去年の夏はこんなことなかったのに。去年の夏は、川沿いでBBQして、夏祭りに彼女と浴衣で行ってー…
ピンポーン
聴き慣れていたはずの無機質な音に朦朧としていた意識が開く。幻聴だろうか。この一帯の人間は既に生きだえた、俺はボートで逃げるから。そういって挨拶に訪れた大学の友人は、その後連絡がない。
ピンポーンピンポーン…
「…………」
一瞬、歓喜と恐怖が同時に身体を走り抜ける。汗で乾いた布団のシーツを蹴飛ばし、玄関に走った。人間に会いたい、言葉を発したい。会話したい。水が飲みたい。
「ー…………」
「……」
久しぶりに開けるドアは、バリを剥がすようだ。何日も開けていないドアの先には、自分の目線より幾らも低い女の子がいた。なんだ、子供か。まだ子供が生き残っていたのか。肌が日焼けして、髪の毛は伸び放題、腹は飢餓状態なのかふっくらして、それでいて瞳だけはらんらんと輝いている。子供だ。
「……なに?」
久しぶりに人間と会った喜びとは裏腹に、どこから来たんだ、お前の両親は、意地悪く残った自分の人間性が言葉を発する。あ、こんなにぶっきらぼうだったっけ。何十日も人と話していないから、正確なコミュニケーションを忘れてしまった。
「ウォーター!」
少女はそう言って手を伸ばした。指先は黒ずんで、最近叫ばれていた手洗いなんてしばらくしていないようだ。ウォーター!もう一度少女は叫ぶと頭を下げた。かろうじて止まっていたリボンのピン留めが、落ちる。
「アッ………」
「これね、」
自分の足の間に落ちたソレを拾おうとするので、拾い上げて、そのまま少女の手のひらを握った。たかがその辺の大学生が幼い児童の手を握るなんて、平時だったら通報されたかもしれない。身体は久しぶりに感じる同じ生物の気配に喜んで、触れたがった。砂っぽいが、柔らかく、生暖かい少女の手は、緊張していた筋肉が緩んで泣き出しそうだった。
「ウォーター…」
少女はそう言って自分の瞳を覗き込む。黒々とした大きな瞳。よく見ると、日焼けしていると思っていた肌は元々浅黒く、ハーフかどこぞの国の人であるらしい。なるほど、そういえば近くにインターナショナルスクールがあったかもしれないな、とふと思い出す。
「ごめんね、水、ないんだよ」
少女は、首を傾げる。
「水どころか、何にもないんだ」
この部屋から食料らしい食料が尽きたのはもう何日も前のこと。それからはマヨネーズやバターを舐めて、油を舐めて、台所を這いずる虫のように生きてきた。だから、この女児が求める物はここには何もない。
「!」
「あっおい」
少女の黒い虹彩が輝いたかと思えば、何かを見つけて駆け出した。裸足でうっすら埃の積もった床に跡をつけて。
「water!」
少女が指差したそこに飾られていたのは、思い出せないほど前に残り少ない絵の具で書き殴ったキャンバスだった。枕の横に乱雑に置かれた、絵ですらない、筆で絵具を投げつけただけ。青、青、青。セルビアブルー、アジュールブルー、スカイブルー。筆で思いつく青を投げつけただけ。ところどころ厚く盛られた絵の具は剥がれ落ちて、キャンパスの白い部分がのぞいている。
「water!」
少女はそれを指差して、もう一度叫んだ。その姿が、国が荒んだ時期に人々が追い求めたエンターテインメントの何よりも、ずっと輝いて見えた。
「それ……」
自分が怒りで殴りつけた青、そのときは分からなかった青。自分ですら知らなかった青。
無心に描いたその先に、求めるものがあったのか。
「I like it」
少女は混じりあった青を指差して、ニコリと笑う。言葉通じずとも、心に触れられたような、ゆるやかな気持ちで自分の中が満たされた。
「そうだ、水はないかもだけど…」
隣接されたワンルームの洗面所に向かうと、止まった水の独特の腐臭が鼻をつく。暗い中、洗濯機の下を覗くと、陽の光の中うっすらと固体が目についたので、このところすっかり筋肉の落ちてしまった腕を差し入れた。
固体がコツン、と指先に当たり、引き出す。渇いた汚水に塗れたそれは、随分前に横着して洗濯するときに落とした、いつぞやの焼肉屋でもらった飴だった。袋は汚いが、中は甘そうなイエローが煌めいている。
「汚いけど、中身は食べられると思う」
後ろについてきた少女にそれを差し出すと、少女は不思議そうに手に取った。指先でつまんで、指先で日にかざして、ようやくそれが飴だと理解すると、キャンディ!と喜ぶ。
その様子を見て、どこだか安心する自分がいた。
「ねえ、僕はもうじき死ぬと思う」
すぐさま飴を開けて口に放り込む少女に、話かける。もう、洗面所から動けない。座り込んだ尾骶骨が床に擦れて、横にならないと痛くて死にそうだ。
「そうしたら、この絵を持っていってくれるかい?しがない美大生の絵だけれど、サインを入れておくからさ」
うろ覚えの英語で、少女にあれを持ってきて、と声を掛けた。少女は飴をコロコロ、ときどきガリガリと噛みながらも、彼女の手のひらには大きすぎる10号のキャンバスをよたよたと持ってきた。
その辺に転がっていたサインペンを手に取ると、改めてその絵をしっかりと見る。
青、青、色んな青。
筆先が上から下へ、下から上へ、ガサガサとした質感を残して、キャンバスに軌跡を描いている。ところどころ、絵の具が飛沫をあげて、ぽつぽつとキャンパスの端に玉を飛ばしている。
「いいかい?僕の名前は…」
「!」
「えっちょっと!!」
自分のペン先をじ、っと見つめていた少女が、何かを見つけたらしくいきなり外に駆け出した。それを追おうとするも、怠さで身体が動かない。四肢に力が入らず、起き上がることすらできない。ただ、開け放たれたドアから、何が起こったのかすぐに察することができた。
なつかしい、匂い。
少し新鮮にも感じるアスファルトの匂い。
パタパタという、普段だったら特別気にならないような何気ない音。
「、雨だ………」
何十日かぶりの雨だ。雨の音がする。
草木の匂い。少し冷たい土の匂い。
泥臭い洗面所で、少女の開け放っていったドアから入ってきた、ひんやりとして少し生暖かいような、美しい空気で、肺を包む。そのままふわりと眠気がして、気持ちよく横になると、どこかで「water!」という少女の声が聞こえた。
ゆっくりと目を閉じると、そこからあれほど焦がれたぬるい水が流れた。
願う。この雨が降り注いで、少女と自分を包み込むことを願う。
「美しい日だなあ、」
願わくばこの愛で、地球を包んで。