僕が生きていく世界

人と少しだけ違うかもしれない考え方や視点、ぐるぐると考えるのが好きです。 あくまで、僕個人の考え方です。 みんながみんな、違う考えを持っていていい。 いろんなコメントも、お待ちしてますよ。

楽しむことと楽しまされること。

ツイッターで、
「最近は、子どもたちが公園で集まって無言で携帯ゲームをしている」
という話が出たのをきっかけに、少し考えてみた。

僕より上の世代の人なんかは、この話を聞いて、あるいは実際にそういうのを見て、
眉をひそめる人が多いだろう。

教員経験もある、乙武洋匡さんはツイッターで、
「大人の不甲斐なさを突き付けられているようで、猛省。」
とコメントした。
僕も個人的には乙武さんの意見に近い。

一方で、
「それは時代の流れなのだから、批判することではない」という意見もある。
これもまたその通りだ。
僕らも、「第一次コンピューターゲーム世代」として、
大人たちに「ゲームなんてやるのはやめなさい」といわれて、
「ふん、昔のことしか知らない年寄りにはわかんねぇよ」なんて、
反発したりもした。
だから、頭ごなしにゲームを否定するような言葉には、今でもかちんと来たりする。
親たちの世代だって、「テレビっ子」などとよばれてその親の世代からはあきれられたもんだ。
人間ははるか古代から「最近の若いやつらは……」と言い続けてきたんだから、
子どもの遊びを批判するようになったらもう若くない証拠なのかもしれない。

でも、とはいいながらも、やっぱり僕が子供にはゲームばかりして欲しくない、と思ってしまうのは、
コンピューターゲームというものが、結局のところ、
すごく受動的なものにしかなり得ないからだと思う。
自由に好きなところにいける、と思わせて、実は決まり切った道筋を追いかけている。
自分で楽しむのではなく、楽しまされている。

別に、それが悪いというわけではない。そういうエンターテインメントなんだから。
それを理解している大人が、「ちょっくらたのしまされてやるか」
と思ってやる分にはすごく素敵なものだと思う。
だけど、まだ色々な楽しさを知らずにいる子供が、そんなすごいものに直面してしまうと、
「楽しまされる」事が当たり前になってしまうのではないだろうか。
「楽しみ」というのは、お金を払って、新しいゲームを買うことで得られるものだ。
そんなふうに思ってしまっても、なんの不思議もないと思う。

つまり、ゲームの「与えられた楽しさ」っていうのは、
「一見、何もないところに、楽しみを見つける」という機会を、
ものすごく暴力的に奪っているような気がする。
僕は、子供の頃ゲームを買ってもらえなくて、
だから友達を半ば強引に遊びに誘って、それはもう色んな遊びを考えた。
アウトドアなタイプではなかったから、外で走り回るものばかりではなかったけど、
探検ごっこ風に、近所の山を登って石やらなんやらを掘り返してみたり、
マンガや小説もどきを書いて回したり、
キャラクターを作ってサイコロをふってできるゲームを考え出したり。
そして最終的にはTRPGというものに辿り着いた。
同じゲームでも、コンピューターゲームと違って、
想像の余地がものすごくある、極めて能動的な、遊び。
僕がものを書くようになったきっかけと言っても、過言じゃない。
もしもあの時、自由にいくらでもゲームが手に入る状況にいたら、
僕は今、きっとこんな風にはなっていないだろうな、と思う。

「楽しまされること」と「楽しむこと」はイコールじゃない、ということに気付いたことは、
僕の人生にとってはとても大切なことだったんだ。

ゲームばかりする子どもが悪いんじゃない。
この場合、子どもはむしろ被害者に近いんじゃないだろうか。
「ゲームばかりする子ども」というのは、大人にとっては都合がいいのだ。
走り回らないし、静かだし、危ないことをしないし、手がかからない。
ゲームを買い与えることで、子どもに対する責任を果たした気になってしまう大人は、
少なくないと思う。
大人と子どもの利害が一致すれば、
そういう子供が爆発的に増えるのはそりゃあもう当たり前だ。

こんな風に考えてみたところで、子どももいない今の僕では、
単なる理想論というか、空想の話にしかならない。
けど、いつか子どもができた日に、こんなことを考えたことを
少しだけ思い出せたらいいかもしれない。
そんなふうにも思う。
子どものためというのではなく、自分が生きる未来のために、
未来の子どもたちへの思いはつきない。