僕が生きていく世界

人と少しだけ違うかもしれない考え方や視点、ぐるぐると考えるのが好きです。 あくまで、僕個人の考え方です。 みんながみんな、違う考えを持っていていい。 いろんなコメントも、お待ちしてますよ。

期待と呪い

恋愛にはよく、「責任」とか「覚悟」とかいう言葉がつきまとう。
とくに、「複数の人と恋愛関係をもつ」、ポリアモリー(複数恋愛)という恋愛のあり方では、
責任や覚悟、契約といった言葉を聞くことは多い。
当事者から、「複数の関係を円滑に維持するためには、責任と覚悟が不可欠」などと聞くこともある。

僕はといえば、自分と、周りの人が心地よい関係であるためのあり方を、
たまたま自分が心地よいと感じた「恋愛のあり方」を、
「覚悟」や「責任」をもって選び取るものだと感じなくてはいけないのは、
いきぐるしく思えてしまう。

僕は人間が大好きだけど、自分も含めた人間のことを、たぶん、基本的に信じていないんだ。
それは、「信頼してない」って意味じゃなく、「そんなに強くあれるものじゃない」と思っているという意味でだ。
誰かに「覚悟」や「責任」を求めて、それを果たせなかったときに
失望したり非難したりするのは、なんだかちがうなぁ、と思うんだ。

「信じる」ってことはなんだろうか?
それは美しいことのようにいわれるけど、実際には、
「君を信じているよ」という言葉は、わりと暴力的だ。
「信じているから、期待を裏切ったら許さない」という呪いの言葉が、織り込まれているように思う。

僕は結婚しているけれど、「一生君を幸愛している」とか、そういうプロポーズをした記憶はない。
一年後に愛しているかどうかすら、断言することはできないんだ。
ただ、「今この瞬間僕は、おじいちゃんおばあちゃんになっても、
あなたと一緒にいられたらいいなと思っている」
僕に言えるのはそれだけなんだ。

つまり僕は、駆け引きと期待を放棄しているのだ。
100点のものを期待して、目の前に出てきたものが50点だったら、
人はそれを「マイナス50点」として考えてしまう。
いわば「減点法」的なものの見方だ。
一方で、はじめから期待を放棄していると、目に映るものはすべて加点に見える。
50点なら、「プラス50点」だ。
だから、自分が裏切られたなんて、感じることはない。

僕が人付き合いにおいて譲れない部分としてあるものは、
「僕は駆け引きをしないから、あなたも駆け引きしなくていいよ」
「僕は期待をしないから、あなたも期待をしないでくれるとうれしいな」
というふたつだと思う。
ただ、「期待するな!」というと、言葉が強すぎるかもしれない。
僕だって期待したいしされたい。
ちっちゃな期待はいっぱいするし、相手からの期待にも、だいたいは、応えたいとも思う。
けれどそこに、期待という名の強制力が働かないといいな、と思う。

「せっかく期待したのに、裏切られた」ではなくて、「期待してるけど、叶うかどうかはわからないけど、叶えられたらいいなぁ」という程度に思っていれば、
叶ったときに心から喜べるし、叶わなかったときに相手を責めずにすむ。

期待を呪いにしないように、気をつけようと思う。

愛する人を呪うな。