ポリアモリーを自認する動機
昨日、ポリアモリーの友人と話していて、
自分たちの「ポリアモリー」という概念を主張することの動機について、
とてもおもしろい考察にたどり着いたのでメモ。
僕らが「ポリアモリー」という言葉を見つけ出して、
それを自認することには、僕らの中の「倫理観」や「正義感」が深く関わっている、
ということだ。
つまり、僕は、自分自身が倫理的でありたいと強く思って生きてきた。
「規範的」ではない。「倫理的」だ。
自分で作り上げた正義に、外れない存在でありたいという意思。
一度に複数の人を愛するということは、
「社会的な正義」からすれば「不道徳」だ。
誰よりも倫理的でありたいなと願う僕にとって、
自分がそういう存在であるという事実は、
引き裂かれるような苦痛を伴う。
だからこその理論武装なのだ。
社会的な正義がどうであれ、
僕は僕自身の正義には反していない。
そう思えるための材料を探し続けて、
「ポリアモリー」という概念にたどり着いたのだ。
「浮気者」「ビッチ」「人でなし」ではなく、「ポリアモリー」。
そして、できることならば、かつての僕のように引き裂かれている人たちに、
それを伝えてあげたい。
そういう気持ちだ。
先に「ポリアモリー」という生き方があって、
それを選択するということではなく、
もともとの性質があって、それにより引き裂かれている心を鎮めるための名づけ。
「ポリアモリーはセクシャリティか、それともライフスタイルか」という、
未だ決着のつかない問題があるのだけれど、
このように考えると、もしかしたらセクシャリティに近いのかもしれないなぁ。