10年後に思いを馳せる。
最近、不安と心配がつきない僕は、しょっちゅう1ヶ月後のことを考えている。
ここ1年間の新しい仕事で任されている冊子の締め切りがそこにあるからだ。
1ヶ月後、仕事が全然間に合わなくて、
この1年間の僕が役立たずだったことが白日の下にさらされてしまうのではないか。
1年間で知り合った人たちすべてに見限られてしまうのではないか。
そんな妄想にもにた不安がよぎることもある。
(おそらくそんなことにはならないと思うのだけど)
その一方で、「たったの1年間」とも思う。
たったの1年前、僕はこの場所で何者でもなかった。
ここで得たものをすべて失ったところで、たったの1年前に戻るだけだ。
いや、得たもの――失わないものは、確かにある。
時間を巻き戻すことはできないけど、立場を失ったとしても、
残るのは1年前にはなかった経験を刻んだ僕だ。
何がその理由なのかは分からないけど、僕は自分を根無し草だと感じている。
どこか特定の土地やコミュニティに、愛着を持ったことがほとんどない。
今僕のいる長野県の田舎では、多くの人が生まれた土地、
育った土地に強い愛着を感じているようで、その様子を僕は、
遠い世界のことのように見ている。
僕にももちろん故郷はあるが、数年に一度そこに帰ったとしても、
そこに僕の居場所など別に見いだせないし、他に無数にある町との差は感じない。
それをさびしく思うこともなくはないのだけど、
土地にこだわらないことは執着がないことでもある。
「いつだって新天地に行けばいい」という気持ちは僕の不安を軽くしてくれる。
僕の「居場所」は物理的な場所ではない。
人とのつながりだ。そのつながりだって、一年もすれば顔ぶれは大きく変わる。
儚いとも言えるかもしれないけど、
流動性こそが心からの自主性を保証していくれている。
心からつながっていたいと思う人とは、ちゃんとつながっていられる。
そもそもの僕のつながりはもはや、土地や育ってきた環境や、
共有してきた思い出の数なんかとはまるで関係ないものなのだから。
だから僕はどこへ行こうとも、僕自身を見失わない。
5年ごとに自分の人生を振り返ろう、と思う。
社会の中で認められようともがいていた22~25歳。
「自分の選択」で「やりたいこと」を必死でやった26~30歳。
知らなかった世界を見てみよう、と踏みだした31歳~今、34歳。
10年後にはどうなっているだろう、と考える。
僕自身がどんな生活をするかどうかだけでなく、10年後には確実に時代が変わっている。
今、社会の中で過ごしてはっきりと思うのは、
30年前につくられた仕組みの残り香がまだ幅をきかせているということと、
それは確実にあと10~15年でほぼ一掃されるであろうこと。
今の社会で想像できる範囲で自分の10年後の姿を思い浮かべたって、
それはたぶん意味がない。
必要なのはしがみつかない気持ちと、環境が変わっても変わらないつながり。
未来は少なくとも僕にとって、より生きやすくなるであろうという希望が、確かにある。
10年後にも笑っていたいから、今の自分を過小評価しないようにしよう。
僕の文章を読んでくれるようなあなたも、きっとそうじゃないかな。
今、生きづらさを感じている人たちのための未来が、
少しずつ、少しずつ、足音を立て始めたのが、僕には聞こえる。
ちなみに、
今からやっておくといいものは何かなぁ。
やっぱり、英語かな。
より多くの世界とアクセスできるツールは、とても大事だな。
なんて考えてみたり。