僕が生きていく世界

人と少しだけ違うかもしれない考え方や視点、ぐるぐると考えるのが好きです。 あくまで、僕個人の考え方です。 みんながみんな、違う考えを持っていていい。 いろんなコメントも、お待ちしてますよ。

「責任感」がきらい。

「責任感」という言葉がきらいだ。
「もっと責任感をもて」「お前は責任感がない」どれも人を追い詰める言葉だと思う。

そもそも「責任」の有無という極めて重要な問題に対して、「感」ってなんだよ。フィーリングかよ。
「感」という言葉には、責任があるかないかははっきりさせず、自分ではどうしようもないことについてもなんとなく罪悪感を覚えておきなさい、と呪いをかけるようなニュアンスがある。

僕はかつて「優等生」で、「責任感の強い子」だったと思う。
自分にはどうにもならないことも自分のせいなのではないか(もしくは、自分のせいだと思われるのではないか)と思って、失敗を極度におそれた。
ずっと失敗しない人生を選んできた。
いちばん失敗せずに住む方法は、「チャレンジしないこと」だ。
新しいことはやらない、誰かが困っていても見なかったふり。
そうすれば、とりあえず責任を取らずに済んだ。
「責任感が強い」からこそ、ほんの少しでも自分の責任になりそうなことは、そもそもやらずに済ませようと考えるような人間だった。

働きはじめると、「責任感が強い」ことが自分も周りも苦しめる。
責任感で「本来責任がないこと」まで無理してやろうとしてしまうと、当然、体や心は壊れる。
しかも、「自分がやっているんだから他人もやるべき」と思ってしまう。
さらに、会社や上司にも「やれるんだからそれを基準に」と思われてしまい、職場の環境は改善されずに放置される。そのしわ寄せは、同僚や後輩、部下に向かう。

僕はしあわせなことに、心から「死にたい」と思うことはほとんどないけれど、ときどき、「逃げたい」と思う。
何から逃げたいかといえば、それは「責任から」だろう。
日本人の「死にたい」の多くは「ハワイに行きたい」という意味だとだれかが言ってたけど、それも多くは「責任から逃げたい」というきもちなのだろう。

僕の感覚では、日本において「責任から逃げたい」と表明することは、「死にたい」ということ以上にタブーであるように思う。
日本社会の規範ではあらゆる人間は、責任感がなくちゃいけない、ということになっているようだ。
「あいつは責任感がない」と思われることは、とてもとてもおそろしい。それだけで死にたくなってしまうほどに。

おそらく日本で自死が多いのは、責任感が強い人が多いからだろう。好奇心は猫を殺すと言うが、責任感は容易に人を殺す。

「無責任」になれ、とは言わない。本当に誰もが無責任だったら世の中はうまく回らない。
だけど、責任というのは、どんなときも常に有限だ。
これを忘れてはいけない。
そして、責任が大切な社会であるからこそ、巧妙にあなたに責任を押し付けようとする人がいるということも、忘れてはならない。

「責任『感』をもて」という言葉を、そのまま受け取ってはならない。
それはあなたに無限の責任を押しつけようとする、呪いの言葉だ。