僕が生きていく世界

人と少しだけ違うかもしれない考え方や視点、ぐるぐると考えるのが好きです。 あくまで、僕個人の考え方です。 みんながみんな、違う考えを持っていていい。 いろんなコメントも、お待ちしてますよ。

「家族」を排他的なものにしない――非独占愛の先に

世間では、多くの場合「家族」というのは恋、性、愛と不可分に結びつく、と考えられている。
恋人をつくらないと、結婚をしないと……「将来孤独だよ」などと言われてしまうのは、「家族」の前提に「恋」(そして性)があるとされているからだ。
そして恋と性は「独占的で排他的」なものだとされるので、必然的に「家族」も独占的で排他的になる。
しかも、そうしてつくられた「家族」は、生活、経済、責任の単位であると多くの場合考えられている。日本の場合特に、生活の最小単位は、「個人」ではなくて「家族」だとみなされる。

「独占的で排他的」であり、さらに責任や経済の最小単位ともみなされる「家族」は、家族内の考えが一致していることが前提で、つまり家族の構成員に「同質性」を求めることになる。
「家族だから、考えていることはすぐにわかる」「家族の絆には、他人は太刀打ちできない」みたいなことは、「家族のすばらしさ」として美談にされがちだ。

でも僕は、現代社会の様々な問題の大半は、こういう考え方に起因しているんじゃないかなとさえ思う。
家族が強い結びつきをもち、独占的で排他的であればこそ、「家族の中のことは外から干渉すべきではないこと」とされ、虐待もDVもモラハラも見えなくなる。
いわゆる「毒親」の問題もそうだ。見えている世界が狭ければ狭いほど、その中の構造は絶対的なものになる。「相対化」ができないから。
だから、排他的な傾向が強い家族ほど、子供にとって親が絶対的な存在になってしまい、家庭内の環境がいかに異常でも、それに疑問を持つことができない。

「愛は独占的で排他的なものではない。好きな人が複数いてもいい。」
という僕の「非独占愛」の考え方は、性や恋についてだけではない、と最近では思う。
家族に対して感じる「親愛」の気持ちも、独占的で排他的ではない、と思うのだ。そしてそれには、「血縁」なんて必要じゃない。

最近僕は、「好きなひと」がどんどん増えている。それは必ずしも「恋している相手」ではなくて、「家族のように思いたいひと」がどんどん増えている。
付き合いたいとか一緒にいたいとかデートしたいとかとはちがう、「しあわせでいてほしい」という気持ちだ。

僕は自分自身の恋愛観である「非独占愛」から発展して、こういう感覚にたどり着いた。
「世間」がもっとこういう感覚を許容するようになったら、社会はもっと生きやすくなると思うよ。