僕が生きていく世界

人と少しだけ違うかもしれない考え方や視点、ぐるぐると考えるのが好きです。 あくまで、僕個人の考え方です。 みんながみんな、違う考えを持っていていい。 いろんなコメントも、お待ちしてますよ。

「毛虫」 by 小雪 @diamd_ (お題バトル0516参加作品)

【使用したお題】

空、日本語、隕石が堕ちる、低気圧、愛

 

 

 私は毛虫を殺した。最初は気が付かなかった。アスファルトを踏みしめた足に、少し違和感を覚えて、靴裏を見ようと思ったのだ。持ち上げるとき、ニチャァ――と液体が吹き出る音がした。白と緑色のマリアージュ。なるほど、抹茶ラテが靴裏にこびりついていた。良く見ると、細い毛が付着している。――ああ、日本語か、と無意識に感じた。いや違う。これは毛虫だ。春の、桜の花びらがひらひらとこぼれ落ちる春の日に、枝から足を踏み外した毛虫を、私は踏んだのだ。

「うわぁ、きったないな」

 私は家に帰って、靴の裏を洗う自分の姿を想像した。抹茶ラテの毛虫の潰れた死骸がこびりついた靴を、腕いっぱいに伸ばして掴み、風呂場でそれを洗うのだ。シャワーをいっぱいに出して、自分の身体に抹茶ラテが付かないように、それを排水溝に流す。毛虫の部品はバラバラになって、水流に乗った。きっと、部品の一本一本はパイプを通り、下水道に流されて、アメーバやらなんやら、浄化作用のある単細胞生物たちに分解される。そして――川に流され、雄大下流域を通り、海に放出されるのだ。――ふと、海のことを考える。考えた海には、毛が生えていた。

 私は、鞄を探る。歩くたび、靴の裏がニチャニチャと音を立てている――気がする。実際は立っていないに違いないが、私の目の奥では鳴っていた。ニチャ、ニチャ――私は空を見上げる。青空――きれいな青空だ。舞い落ちる桜色と――桜を桜色と表現するのはいささか抵抗があるが――突き抜けるような青空とのコントラストが美しい。

 私は両手を広げた。春の日差しが温かい――向こうに見える山の輪郭に、白く細長い雲がこびりついていた。私はまた毛虫だと思った。気分が悪くなる。アア――気分が悪い。私は視線を前に戻した。横浜の雑踏は、あまりに目に悪い。車から排気ガスがとめどなく流れだしている。私は、すぐに帰ろうと思った。アスファルトを踏みしめる。ニチャァ――再び音が鳴った。

 ニチャ、ニチャ、ニチャ。

 私は立ち止まって、鞄を探る。今日、大学でもらったプリントがざっくばらんに――ところどころ角が潰されて――入っていた。もちろん、私が急いで入れたのだ。恐ろしいほどのプリントを貰った。

 オリエンテーションだったのだ。学部の、色んなゼミの先生が、色んな方法で、わちゃわちゃと自分のやっている研究のことなどを喋っていたのだ。正直よく分かんなかった。考えてみて? 小学校、中学校、高校と、受験受験受験受験と、世間の耳も欠かさず、ひたすら国語数学英語理科社会――あと英語と、ずっとやらされてきた人が、今更、何学のなんだと、これが世間の役に立つって言われて、分かるものですか!

 おまけに、なんか余裕そうな顔をして「私どものゼミに入るには、これこれこういう学生が望ましい」とか言うんだから。知らないよ。大学の募集要項に書いとけや、バカ。しかも、その「これこれこういう」の部分が、全く知らない日本語だったんだから、まあ――ほんとね。なるほど、夢の大学生活に憧れて、いざ入ってみれば、知らない日本語に叩きのめされる。

 私は本当に疲れてしまった。あんなオリエンテーションみたいな話し方をする学者ばっかりだったら、これから四年間どうしようかなって。

 

 ニチャニチャと音を立てながら、私はようやく駅に辿り着いた。この駅は、都心からは遠いが、地方の中でも栄えている部類の――なんといっても駅前にイオンがあったのだ――駅だったので、外回りのサラリーマンやお茶会帰りの主婦、これから遊ぶらしい高校生、そして私のような――オリエンテーション帰りの大学生がホームに犇めいていたのだ。そして――私は、彼らの靴の裏を想像した。彼らも何かを踏んでしまっているのではないか――毛虫や犬の糞、しなびたポテトフライにおばあちゃん。彼らの靴の裏も、きっと持ち上げればニチャァ――と言うに違いない。

 私は、彼ら一人ひとりが、家で靴の裏を洗う姿を想像した。毛虫や犬の糞やしなびたポテトフライやおばあちゃんがパイプを通って、海に放たれることを想像した。

 海は雄大だ。全てを包み込むおおらかさがそこにある。私の町も――決して近くはなかったが――、海にまつわるお菓子をお土産にして売っている。そして、観光客はそれを買う。海など見ていないはずなのに――海という言葉を見て、いいものだと思って買ってしまう。海の器は広かったのだ――だから犬の糞やおばあちゃんが混ざってもあまりに気にならないのかもしれない。

 私は、これからできるであろう友達と、海水浴に行く予定なのだ。しかし――友達は本当にできるのだろうか。ううん――今日、隣に座っていた子を見た感じ、慣れそうになかった。彼女は、目玉をギョロギョロとして、ゼミの教授の顔を見回していた。そして、もらったプリントに、言われたことを一言一句書き留めていたのだ。学者が「私の研究室では今、隕石が堕ちるように忙しいのです、はっは」とギャグにならないギャグを口にしたのを書き留めたのを見たときは、びっくりした。恐ろしい。話しかけるのやめよって思った。きっと彼女の顔はずっと覚えているだろう――彼女のおかっぱ頭と、水色のドットのトレーナー。ダサイ。クソダサイ。私の方がオシャレ。しかし――彼女は毛虫を踏まなかっただろう。私は――靴裏に毛虫をひっつけている。やっぱり、私の方がダサい。私は、ギャグにならないギャグを書き留めるだけの、エキセントリックさを持っていない。私は――学生失格である。

 本当は、この大学に隕石を落とさなければならないのだ。桜の枝の木の上から、隕石を。ここの学生みんなに、隕石を踏ませなければならないのだ。だけど――私にはできなかった。私は、家に帰って、靴裏を掃除したかった。もう、ニチャ、ニチャは嫌なのだ。嫌なのだ!

 


海に放たれた毛虫が、蒸発した。やがて、空気中に毛虫が飽和し、高気圧を生み出す。高気圧は――そのまま低気圧に流れる。低気圧はやがて大きくなり、熱帯低気圧――台風へと進化する。台風は、無事日本を直撃した。毛虫が反逆したのだ。私たちは――あまり毛虫を蔑ろにしたから――愛がなかったから――ギャグにならないギャグを書き留めなかったから――隕石が堕ちなかったから――日本語を――愛せなかったから――台風が、私を直撃するのだ。ニチャァ――ニチャァ――と音を立てる。私は電車に乗った。窓の外には、青空が広がっていた。山には相変わらず、毛虫の雲が乗っかっていた。あの雲が――やがて台風になるのだろう。私は――早く帰りたい。