12月前半のおぼえがき。
以下、12月1日~16日までのつぶやきより。
もう12月かぁ。なんだかすごい一年だったなぁ。一年前は、まだ編集者になってないし、二人暮らしもしてないんだもんなぁ。
がむしゃらに走っていると、どこかにたどり着く。それは、描いていた未来とは、少し違うかもしれないけれど。
Twitterは公開されているけど、公共ではない。ここ、大事だと思う。公共は、好むと好まざるとにかかわらず見えてしまうことがあるから配慮する必要はあるけれど、Twitterは原則的に、「配慮」とか「自重」しなくていいメディアなんじゃないだろうか。自分で決められるメディア。
まぁ、メンションとかは、相手のTLに飛び込むからまた別かもしれないけど。これから先の社会、選択の自由が確たるものになってきたら、配慮が必要な「公共」は限られた部分になって行くのかもしれない。弊害もあるだろうけど、気が楽になるひとも、いるんじゃないかな。
僕は、オンラインのコミュニティには、オフでの人間関係をあまり持ち込みすぎないのがいいのではないかと思う。普段気を遣っている関係が、オンラインにも持ち込まれたら、うんざりしちゃう。友達同士で「Twitterはじめようぜ」ってのは、辞めた方がいいのかも。
逆にいうと、僕が小説を通して、なんとか表したいと思っている、「若者の世界のせまさや息苦しさ」の中に差し込む光が、オンラインのコミュニティなんじゃないかとも思う。KAYOはまさしくそこを書いたのだけど、あの頃はまだTwitterを知らなかった。知ったら、より強くそう思った。
そう考えてみると、僕自身の問題意識は意外と一貫しているんだな。そして、僕はTwitterの中に、かなり期待を見い出しているのかも。……次は、Twitterの小説を書こうか。
「カタリバ」でいう「ナナメの関係」というのに僕は激しく共感するのだけど、それに近い何かが、Twitterの中にある気がする。でももちろん、Twitterはただの道具だから、使いこなさなくては意味をなさないのだけど。
「関わりのない他者について怒ること」に関して、まだ考えている。それは、他者に対する、ひいては社会に対する期待のあらわれなのだろうか。みんながもっと努力すれば、社会は良くなるのに!という思い。
配慮とか、遠慮とか、そういうもの。それを「すべき」と主張することについても、何か近い物を感じるな。そこにあるのは、理想の社会への期待?
こないだは男女の違いについて考えたけど、それはむしろ、「主観」「客観」の問題として捉えられるのかもしれない。
大学のサークルで、「世界をどう捉えるか」という議論をしたことを思い出すなぁ。僕は、「はじめに僕があって、僕の知覚できる範囲が世界だ」と言って、友人は「先に世界があって、その一部として自分がいる」と言った。そういう考えもあるのだと知った時の驚きといったら!
だから僕は、ある意味では、客観懐疑論者なのかもしれないなぁ。客観という物自体の存在を、どこかで疑っている。「常識」も「暗黙の了解」も、限定的であれ、客観を想定している物だと思うから、苦手なのかも。
やっぱり僕の考え方が特殊なのかなー。僕の中では辻褄があっている気がするんだけど。でも子供ができたら変わるのかもしれないとも思う。
自己中心的、という言葉がある。普通は批判的な言葉だ。でも僕にはその対義語がわからない。自己周縁的?他者中心的?そんなものがどうやって存在できるのだろう。
「世界とは僕が認識したもののことだ」という僕の感覚に、「一人称的世界」という名前をつけてみる。そうすると、本が一冊書けそうなくらい、語るべきことがあるような気がしてくる。僕のものの見方の表明。……需要あるかな?(笑)
ネット上の傾向をさらっとみると、「一人称的世界観」は、まぁ、一般的には「じこちゅうしんてきだ!」という批判の対象であることが多いみたいだね。でも一人称的に世界をみている人がそれを悪いことだとして矯正すると、何かがゆがむ気がするな。あるいは、矯正できずに思い悩んだり。
そういう意味では、僕の厚顔無恥さをもって一人称的世界を肯定し、その上でちゃんと社会とつながる生き方を示す、というのは、ある種の需要があるのかもしれない。いや、そこまでしようとするのは傲慢かな。
なにやら面白いなー>Togetter - 「「自己卑下のような自己賛美に終始するオンナノコ」を模倣する」 http://t.co/zxt9IHY
自慢くらい、堂々としてもいいじゃないか、と思うんだけど。やっぱり自慢するのは良くない、っていう倫理観とでも本当は自慢したいという心が混じって、あんなおかしな事になっているのかな。
というか、ああいうのを自慢だと感じていらっとする、ってことは、逆にいうとそういう人をうらやむ気持ちがある、ってことなのかな。
でもこういう女の子が実際にいたとして、その背景にはそういう話し方が通用するコミュニティや社会があるってことだよね。こういう風に話すと、羨ましがってくれて、優越感を満たせる様な居場所が。
でも、そうやって羨ましがって見せている相手も実は表面だけで、内心では「なによこいつ」と思ってて、あとで愚痴のネタにしたりしているんだとしたら、なんて壮絶なコミュニケーションだろう。
女の人が人付き合いにつかれる、とか言うの、少しだけわかったような気がするなー。そんなに無理しなくていいよ、なんなら僕が代わりに話し相手になるよ、とか言いたくなるね。お節介だけど(笑)。
ただし、僕との会話は最初はきついかもしれない。本当のこと、本当に思ったことしか言わないから。全然優しくないかもしれない。
LOST IN TIMEのライブから帰ってきました。やっぱり少し前の曲が好きなのは、きっと僕がその時困難の中にいたからで、今は壁を越えたので、最近の曲に対しては「応援したい」っていう気持ちにシフトしつつあるから。いまはLOSTに対して、「恩返しをしたい」と思ってる。
「恩返ししたい」という気持ちを具体的に考えると、「今、困難の中にいる若者に、LOSTの曲を届けたい」っていうことになるのかな。ちょっと難しいかもしれないけど。
とにかく、なんかうまくいえないけど、LOSTありがとう、って思った。あなたたちの残した足跡は、僕の過去を、救ってくれたよ。そして、まだ踊り続けることにしてくれて、どうもありがとう。
僕は、40歳までに何を成しているかな、なんてことをふと考える。
たぶん、僕10代の時、かっこいい40歳なんていないと思ってた。もう何もかもが「終わっちゃってる」老人だと思ってた。……アホだったなぁ。
っていうか、大人がこんなに楽しいものだとは思ってなかったよ。自己実現の喜びっていうのかな。できないことばっかり増えると思ってたけど、実際はできることがどんどん増えてる。
もう12月かぁ。なんだかすごい一年だったなぁ。一年前は、まだ編集者になってないし、二人暮らしもしてないんだもんなぁ。
がむしゃらに走っていると、どこかにたどり着く。それは、描いていた未来とは、少し違うかもしれないけれど。
Twitterは公開されているけど、公共ではない。ここ、大事だと思う。公共は、好むと好まざるとにかかわらず見えてしまうことがあるから配慮する必要はあるけれど、Twitterは原則的に、「配慮」とか「自重」しなくていいメディアなんじゃないだろうか。自分で決められるメディア。
まぁ、メンションとかは、相手のTLに飛び込むからまた別かもしれないけど。これから先の社会、選択の自由が確たるものになってきたら、配慮が必要な「公共」は限られた部分になって行くのかもしれない。弊害もあるだろうけど、気が楽になるひとも、いるんじゃないかな。
僕は、オンラインのコミュニティには、オフでの人間関係をあまり持ち込みすぎないのがいいのではないかと思う。普段気を遣っている関係が、オンラインにも持ち込まれたら、うんざりしちゃう。友達同士で「Twitterはじめようぜ」ってのは、辞めた方がいいのかも。
逆にいうと、僕が小説を通して、なんとか表したいと思っている、「若者の世界のせまさや息苦しさ」の中に差し込む光が、オンラインのコミュニティなんじゃないかとも思う。KAYOはまさしくそこを書いたのだけど、あの頃はまだTwitterを知らなかった。知ったら、より強くそう思った。
そう考えてみると、僕自身の問題意識は意外と一貫しているんだな。そして、僕はTwitterの中に、かなり期待を見い出しているのかも。……次は、Twitterの小説を書こうか。
「カタリバ」でいう「ナナメの関係」というのに僕は激しく共感するのだけど、それに近い何かが、Twitterの中にある気がする。でももちろん、Twitterはただの道具だから、使いこなさなくては意味をなさないのだけど。
「関わりのない他者について怒ること」に関して、まだ考えている。それは、他者に対する、ひいては社会に対する期待のあらわれなのだろうか。みんながもっと努力すれば、社会は良くなるのに!という思い。
配慮とか、遠慮とか、そういうもの。それを「すべき」と主張することについても、何か近い物を感じるな。そこにあるのは、理想の社会への期待?
こないだは男女の違いについて考えたけど、それはむしろ、「主観」「客観」の問題として捉えられるのかもしれない。
大学のサークルで、「世界をどう捉えるか」という議論をしたことを思い出すなぁ。僕は、「はじめに僕があって、僕の知覚できる範囲が世界だ」と言って、友人は「先に世界があって、その一部として自分がいる」と言った。そういう考えもあるのだと知った時の驚きといったら!
だから僕は、ある意味では、客観懐疑論者なのかもしれないなぁ。客観という物自体の存在を、どこかで疑っている。「常識」も「暗黙の了解」も、限定的であれ、客観を想定している物だと思うから、苦手なのかも。
やっぱり僕の考え方が特殊なのかなー。僕の中では辻褄があっている気がするんだけど。でも子供ができたら変わるのかもしれないとも思う。
自己中心的、という言葉がある。普通は批判的な言葉だ。でも僕にはその対義語がわからない。自己周縁的?他者中心的?そんなものがどうやって存在できるのだろう。
「世界とは僕が認識したもののことだ」という僕の感覚に、「一人称的世界」という名前をつけてみる。そうすると、本が一冊書けそうなくらい、語るべきことがあるような気がしてくる。僕のものの見方の表明。……需要あるかな?(笑)
ネット上の傾向をさらっとみると、「一人称的世界観」は、まぁ、一般的には「じこちゅうしんてきだ!」という批判の対象であることが多いみたいだね。でも一人称的に世界をみている人がそれを悪いことだとして矯正すると、何かがゆがむ気がするな。あるいは、矯正できずに思い悩んだり。
そういう意味では、僕の厚顔無恥さをもって一人称的世界を肯定し、その上でちゃんと社会とつながる生き方を示す、というのは、ある種の需要があるのかもしれない。いや、そこまでしようとするのは傲慢かな。
なにやら面白いなー>Togetter - 「「自己卑下のような自己賛美に終始するオンナノコ」を模倣する」 http://t.co/zxt9IHY
自慢くらい、堂々としてもいいじゃないか、と思うんだけど。やっぱり自慢するのは良くない、っていう倫理観とでも本当は自慢したいという心が混じって、あんなおかしな事になっているのかな。
というか、ああいうのを自慢だと感じていらっとする、ってことは、逆にいうとそういう人をうらやむ気持ちがある、ってことなのかな。
でもこういう女の子が実際にいたとして、その背景にはそういう話し方が通用するコミュニティや社会があるってことだよね。こういう風に話すと、羨ましがってくれて、優越感を満たせる様な居場所が。
でも、そうやって羨ましがって見せている相手も実は表面だけで、内心では「なによこいつ」と思ってて、あとで愚痴のネタにしたりしているんだとしたら、なんて壮絶なコミュニケーションだろう。
女の人が人付き合いにつかれる、とか言うの、少しだけわかったような気がするなー。そんなに無理しなくていいよ、なんなら僕が代わりに話し相手になるよ、とか言いたくなるね。お節介だけど(笑)。
ただし、僕との会話は最初はきついかもしれない。本当のこと、本当に思ったことしか言わないから。全然優しくないかもしれない。
LOST IN TIMEのライブから帰ってきました。やっぱり少し前の曲が好きなのは、きっと僕がその時困難の中にいたからで、今は壁を越えたので、最近の曲に対しては「応援したい」っていう気持ちにシフトしつつあるから。いまはLOSTに対して、「恩返しをしたい」と思ってる。
「恩返ししたい」という気持ちを具体的に考えると、「今、困難の中にいる若者に、LOSTの曲を届けたい」っていうことになるのかな。ちょっと難しいかもしれないけど。
とにかく、なんかうまくいえないけど、LOSTありがとう、って思った。あなたたちの残した足跡は、僕の過去を、救ってくれたよ。そして、まだ踊り続けることにしてくれて、どうもありがとう。
僕は、40歳までに何を成しているかな、なんてことをふと考える。
たぶん、僕10代の時、かっこいい40歳なんていないと思ってた。もう何もかもが「終わっちゃってる」老人だと思ってた。……アホだったなぁ。
っていうか、大人がこんなに楽しいものだとは思ってなかったよ。自己実現の喜びっていうのかな。できないことばっかり増えると思ってたけど、実際はできることがどんどん増えてる。