huenicaと「フォークロア」
以前、大好きなギタリスト、榎本聖貴さんと三井律郎さんのギターを聴きに行って出会った、huenicaというバンド。
そのライブを見に、昨日、仕事帰りに新代田のライブハウスに行ってきた。
榎本さんと、ソロボーカリストでもある伊藤サチコさんの、二人のユニット。
前回は、サポートギターとして三井さんも参加していたけれど、今回は純粋に、二人だけでのライブ。
huenicaの音楽は「フォークロア」なのだと、榎本さんは言う。
フォークロア。民間伝承。民族音楽。昔から人々の間で語り継がれ受け継がれてきた習慣やお伽話、そして音楽。
前回はじめてライブを見たとき、僕にはその意味が、よくわからなかった。
バリバリのロックギターを弾いていた榎本さんのイメージのままで行ったライブで、
榎本さんの優しい声と、伊藤サチコさんの透き通った声、
そして素朴なギターの音と、ピアニカや鉄琴の、かわいらしい音。
どこか童謡のような雰囲気を漂わせる、まったく予想外の音楽に、ただただ驚いていた。
前回のライブで音源を手に入れて、曲数が少なかったこともあって、かなり繰り返し聴いた。
いつの間にか、フレーズが体の中に沁みこむくらいに。
何度も聴いてhuenicaの音楽に感じたのは、とにかく優しい音楽だ、ということだった。
疲れきってへろへろのときに、huenicaの音楽を聴くと、ただ、体の中に沁みこんでくる。
聴く者に何も要求せず、ストレスを感じさせない。そんなイメージ。
そして昨日、2回めのライブ。
「フォークロアとは何か。」
ライブがはじまるまでその考えが、僕の頭をぐるぐると回っていた。
そんな中で不意に僕が、その意味をはっきりと理解したような、そんな気持ちになった瞬間が合った。
弾むような鍵盤の単音とともに、
伊藤サチコさんが、まるで冬の夜空のような澄んだ声で歌い上げたのは
あかいめだまの さそり
ひろげた鷲の つばさ
あをいめだまの 小いぬ、
ひかりのへびの とぐろ。
オリオンは高く うたひ
つゆとしもとを おとす、
アンドロメダの くもは
さかなのくちの かたち。
僕の聞き慣れた旋律。大好きな言葉。
宮沢賢治の「星めぐりの歌」。
それをhuenicaが歌い、そしてそのまま僕が一番好きなhuenicaの曲、
「wataridori」へとつながっていく。
「ああ、これか。これがフォークロアだ。」
僕はその時、自然にそう思った。
それはたまたま、僕にとっての「フォークロア」が、宮沢賢治だった、ってことなのだけど。
宮沢賢治とサン=テグジュペリは、僕にとって特別な存在だ。
フォークロアといっても、幼い頃から親しんでいた、とかではないので、純粋な意味での原風景ではないし、
民間伝承、という感じではないかもしれない。
でも僕は、「銀河鉄道の夜」と「Le Petit Prince(星の王子さま)」に出会ったときに、
まるで僕のふるさとのようだ、と、感じたんだ。
僕がいちばん大切にしているもの、表面がどんなに変わっても決して変わらない、僕の芯の部分に関わるもの。
それが「フォークロア」。
huenicaの目指すものも、紡いでいる音楽も、たぶんきっと同じなんだ。
みんなにとっての「ふるさと」。
それは、大いなる肯定。
どんなに挫折しても、どんなに絶望しても、決して見捨てない、母の愛みたいな無条件の肯定。
それは、魂の根本の部分。
どんなに装っても、どんなに離れても、決して捨てられない、本当に大切にしたいむき出しの気持ち。
そんな「ふるさと」を、新しく創る、そういう試み。
それがhuenica。
「huenicaをやって、ほんの少しだけ宮沢賢治に近づけた気がして、この曲をやってもいいかな、って思えた」
星めぐりの歌を披露したあと、榎本さんはそう言った。
そのとおりだよ。
確かにhuenicaの音楽は、賢治と同じように僕の中で、フォークロアになった。
これから先、僕はさまざまな音楽に出会うだろう。
ポップな曲は、僕をわくわくさせてくれるし、ロックは僕を奮い立たせてくれる。
でも、原点に帰りたくなったとき、積み上げてきた色々な殻を、脱ぎ捨てたくなったとき、
僕はきっと、huenicaを聴くだろう。
「銀河鉄道の夜」を、「Le Petit Prince」を手に取りたくなるのとおなじように。
そんなことを、ふと思った。
未来は誰にも、わからないけれど。
そのライブを見に、昨日、仕事帰りに新代田のライブハウスに行ってきた。
榎本さんと、ソロボーカリストでもある伊藤サチコさんの、二人のユニット。
前回は、サポートギターとして三井さんも参加していたけれど、今回は純粋に、二人だけでのライブ。
huenicaの音楽は「フォークロア」なのだと、榎本さんは言う。
フォークロア。民間伝承。民族音楽。昔から人々の間で語り継がれ受け継がれてきた習慣やお伽話、そして音楽。
前回はじめてライブを見たとき、僕にはその意味が、よくわからなかった。
バリバリのロックギターを弾いていた榎本さんのイメージのままで行ったライブで、
榎本さんの優しい声と、伊藤サチコさんの透き通った声、
そして素朴なギターの音と、ピアニカや鉄琴の、かわいらしい音。
どこか童謡のような雰囲気を漂わせる、まったく予想外の音楽に、ただただ驚いていた。
前回のライブで音源を手に入れて、曲数が少なかったこともあって、かなり繰り返し聴いた。
いつの間にか、フレーズが体の中に沁みこむくらいに。
何度も聴いてhuenicaの音楽に感じたのは、とにかく優しい音楽だ、ということだった。
疲れきってへろへろのときに、huenicaの音楽を聴くと、ただ、体の中に沁みこんでくる。
聴く者に何も要求せず、ストレスを感じさせない。そんなイメージ。
そして昨日、2回めのライブ。
「フォークロアとは何か。」
ライブがはじまるまでその考えが、僕の頭をぐるぐると回っていた。
そんな中で不意に僕が、その意味をはっきりと理解したような、そんな気持ちになった瞬間が合った。
弾むような鍵盤の単音とともに、
伊藤サチコさんが、まるで冬の夜空のような澄んだ声で歌い上げたのは
あかいめだまの さそり
ひろげた鷲の つばさ
あをいめだまの 小いぬ、
ひかりのへびの とぐろ。
オリオンは高く うたひ
つゆとしもとを おとす、
アンドロメダの くもは
さかなのくちの かたち。
僕の聞き慣れた旋律。大好きな言葉。
宮沢賢治の「星めぐりの歌」。
それをhuenicaが歌い、そしてそのまま僕が一番好きなhuenicaの曲、
「wataridori」へとつながっていく。
「ああ、これか。これがフォークロアだ。」
僕はその時、自然にそう思った。
それはたまたま、僕にとっての「フォークロア」が、宮沢賢治だった、ってことなのだけど。
宮沢賢治とサン=テグジュペリは、僕にとって特別な存在だ。
フォークロアといっても、幼い頃から親しんでいた、とかではないので、純粋な意味での原風景ではないし、
民間伝承、という感じではないかもしれない。
でも僕は、「銀河鉄道の夜」と「Le Petit Prince(星の王子さま)」に出会ったときに、
まるで僕のふるさとのようだ、と、感じたんだ。
僕がいちばん大切にしているもの、表面がどんなに変わっても決して変わらない、僕の芯の部分に関わるもの。
それが「フォークロア」。
huenicaの目指すものも、紡いでいる音楽も、たぶんきっと同じなんだ。
みんなにとっての「ふるさと」。
それは、大いなる肯定。
どんなに挫折しても、どんなに絶望しても、決して見捨てない、母の愛みたいな無条件の肯定。
それは、魂の根本の部分。
どんなに装っても、どんなに離れても、決して捨てられない、本当に大切にしたいむき出しの気持ち。
そんな「ふるさと」を、新しく創る、そういう試み。
それがhuenica。
「huenicaをやって、ほんの少しだけ宮沢賢治に近づけた気がして、この曲をやってもいいかな、って思えた」
星めぐりの歌を披露したあと、榎本さんはそう言った。
そのとおりだよ。
確かにhuenicaの音楽は、賢治と同じように僕の中で、フォークロアになった。
これから先、僕はさまざまな音楽に出会うだろう。
ポップな曲は、僕をわくわくさせてくれるし、ロックは僕を奮い立たせてくれる。
でも、原点に帰りたくなったとき、積み上げてきた色々な殻を、脱ぎ捨てたくなったとき、
僕はきっと、huenicaを聴くだろう。
「銀河鉄道の夜」を、「Le Petit Prince」を手に取りたくなるのとおなじように。
そんなことを、ふと思った。
未来は誰にも、わからないけれど。