三人称における視点の問題
三人称視点で小説を書くとき、人物の心情を書くにはどうしたらいいのだろうか。いくつかの手法を上げて検討してみる。
◆まったくキャラクターの心情を書かない(神の視点)
いきなり最初に提起した問題に矛盾するが、視点を純粋な「神の視点」、すなわち登場人物と関わりのない第三者の視点にして、地の文では、キャラクターの外面的な様子のみを書く。つまり、「彼は恐怖していた」と書く代わりに、「彼はその顔を恐怖にゆがめた」などと書くのである。
「心情を書かない」とは言っても、表情や仕草などを描写することで、間接的に心情を書くのだ。
映画やドラマなどの映像作品は基本的にこの立場だ。これにより、特定の登場人物の心情に偏ることのない平等な描写が出来る。
一方、複雑な心情は描写しにくくなる。「彼は迷っているようであった」くらいなら書けるが、「彼は、この仕事を請けるべきかどうか、迷っていた」などとは書けなくなる。どうしても書きたい場合は、心の中のセリフとして、()を使う場合もある。「(なんだこれは?)彼は、心の中で呟いた」というようにするのだ。
◆特定のキャラクターの心情のみ書く(キャラ寄り三人称)
三人称と一人称の中間的なもの。特定のキャラクターの心理描写は、地の文で積極的に行う。三人称の利点と一人称の利点を両立させることが出来る。
例)「このままでは彼の計画が崩れてしまう。彼は迷っていた。どうすればより利益を得ることが出来るだろうか」
◆「特定のキャラクターのみ」という問題
ここで問題になるのは、「特定のキャラクターのみ」というものである。これは、ひとりのキャラクターに限定しなくても良いが、同じシーンで複数のキャラクターの心情を描写することは好ましくない。
僕が良く参考にしている「モノ書き一里塚」(http://www.asahi-net.or.jp/~mi9t-mttn/)というサイトでは、キャラ寄り三人称(ここでは「一人称に近い三人称」と呼んでいる)での心理描写について、次のように書いている。
> この手法では、同じ章で何人もの心理描写をしてはならない。 たとえば、
>
> 彼は女に危険な何かを感じていた。
> 女は彼に怪しまれていることに気が付いていた。
>
> と書くと、じつに不自然である。女の心理描写をしたければ、別の章に移ってからすべきだ。
> もちろん、そのときは男の心理描写をしてはならないが。
何故これがいけないのだろうか。「モノ書き一里塚」ではそれ以上の説明はされていないが、僕は「同時に二人以上の心が読めたら面白くないから」だと思っている。
人は、他人の心を読むことはできない。二人で討論しているときに、二人の思惑が両方分かってしまったら、駆け引きも探りあいもなくて、読者にとっては、感情移入するべき相手がいなくなってしまう。
例を挙げてみよう。AとBの戦いのシーンだとする。
例1)Aの視点
Aは勝利を確信して、Bに銃を突きつけた。見たところ、Bは銃はおろかナイフすら持っていない。そしてAの腕ならこの距離で的を外すわけがないことを、Bも知っているはずだった。それなのにBは、怖れた様子もなく、相変わらず不敵な笑みを浮かべている。AはそんなBの様子に一抹の不安を覚えながらも、静かに引き金に指を掛けた。
例2)Bの視点
Bの眼前で、勝ち誇った表情を浮かべたAが、ゆっくりと拳銃を持ち上げた。彼の銃の腕はBもよく知っている。これだけの至近距離で的を外すことなど、万に一つもありえないだろう。まさに絶体絶命の状態だった。だがBは、怖れることもなく不敵な笑みをその顔に浮かべて見せた。Aに気付かれないように右手を腰の後ろに回し、そこに隠してあるリモコンに触れる。Aの足元に仕掛けた爆弾の、起爆用のリモコンだ。Aが拳銃の引き金に指を掛けると見るや、Bはリモコンのボタンを押し込んだ。
例3)混ざった視点
Aは勝利を確信して、Bに銃を突きつけた。Aの銃の腕はBもよく知っている。これだけの至近距離で的を外すことなど、万に一つもありえないだろう。だがBは、怖れることもなく不敵な笑みをその顔に浮かべて見せた。Aに気付かれないように右手を腰の後ろに回し、そこに隠してあるリモコンに触れる。Aの足元に仕掛けた爆弾の、起爆用のリモコンだ。Aは不敵に笑うBの様子に一抹の不安を覚えながらも、静かに引き金に指を掛けた。それと同時に、Bはリモコンのボタンを押し込んだ。
どうだろうか。1と2ではそれぞれの心情は分かっても、相手の心は読めない。となると無意識のうちに視点保持者に感情移入してしまうだろう。つまり、1の場合ならAと同様に「Bはなぜ笑っていられるのだろう?」という疑問を持ち、2の場合なら、Bに感情移入して「よし、これなら負けないな」と思うわけだ。しかし3だとそうはいかない。すごく客観的に、「ああ、これはBの勝ちだな」と思うだけで、どちらにも感情移入ができないのだ。
◆視点の切り替え
とは言っても、主人公以外のキャラクターの心情が描写したくなることもある。心情を描写した方が、キャラクターが魅力的になるからだ。ただ淡々とその外面だけを描写するより、内面の葛藤や意図を書いた方がそのキャラクターに感情移入できるようになるのは言うまでもない。
というわけで、別のキャラクターの心情を描写するにはどうするのかというと、空行をあけて、段落を変えるのである。新たな段落では映画やドラマで、カメラワークを切り替えるように、視点保持者を切り替える。
最近読んだ、志村一矢『月と貴女に花束を』(電撃文庫)で、その手法がうまく使われていた。一つの段落が、短いときだと1ページに満たないくらいで、どんどん視点が切り替わる。
一番うまいと思ったのは、あるキャラクター(Aとする)が、敵と戦っていて、負けそうになったときに別のキャラクター(B)が助けに来る、というくだりだ。前の段落は、「息を切らして走り寄るBの姿が見えたのは、その時だった」で終わり、次の段落になると「Bの目の前で、Aが血まみれの姿で敵と対峙していた」と視点が切り替わっていた。
こういう視点の切り替えをうまく使うと、複数のキャラクターの心情描写が違和感なくできる。「キャラクター小説」と呼ばれるライトノベル風の作品の描写には非常に優れた手法だと言えるだろう。
◆応用:実際の作品では?
では、僕の「エクエス=デイ」ではどうだろうか。この作品の視点は、回想シーンなどを除いて、基本的には主人公である光輝の視点である。
と言いつつ、始めの方には地の文による心情描写はあまりなく「神の視点」に近いともいえる。正直に言えば、書き始めた頃は視点などあまり意識せずに書いていたために、両方の視点が混じっているのだ。最初のうちは「神の視点」で書いていたが、主人公があまり喋らず、キャラクターの印象が薄くなってしまっているので、いつのまにか「キャラクター寄り」に移行してしまった。
機会を見つけて改訂し、全体を「キャラ寄り」に書き換え、さらには、視点の切り替えなどもうまく使って、他のキャラクターも魅力的にしたいと思う。
◆まったくキャラクターの心情を書かない(神の視点)
いきなり最初に提起した問題に矛盾するが、視点を純粋な「神の視点」、すなわち登場人物と関わりのない第三者の視点にして、地の文では、キャラクターの外面的な様子のみを書く。つまり、「彼は恐怖していた」と書く代わりに、「彼はその顔を恐怖にゆがめた」などと書くのである。
「心情を書かない」とは言っても、表情や仕草などを描写することで、間接的に心情を書くのだ。
映画やドラマなどの映像作品は基本的にこの立場だ。これにより、特定の登場人物の心情に偏ることのない平等な描写が出来る。
一方、複雑な心情は描写しにくくなる。「彼は迷っているようであった」くらいなら書けるが、「彼は、この仕事を請けるべきかどうか、迷っていた」などとは書けなくなる。どうしても書きたい場合は、心の中のセリフとして、()を使う場合もある。「(なんだこれは?)彼は、心の中で呟いた」というようにするのだ。
◆特定のキャラクターの心情のみ書く(キャラ寄り三人称)
三人称と一人称の中間的なもの。特定のキャラクターの心理描写は、地の文で積極的に行う。三人称の利点と一人称の利点を両立させることが出来る。
例)「このままでは彼の計画が崩れてしまう。彼は迷っていた。どうすればより利益を得ることが出来るだろうか」
◆「特定のキャラクターのみ」という問題
ここで問題になるのは、「特定のキャラクターのみ」というものである。これは、ひとりのキャラクターに限定しなくても良いが、同じシーンで複数のキャラクターの心情を描写することは好ましくない。
僕が良く参考にしている「モノ書き一里塚」(http://www.asahi-net.or.jp/~mi9t-mttn/)というサイトでは、キャラ寄り三人称(ここでは「一人称に近い三人称」と呼んでいる)での心理描写について、次のように書いている。
> この手法では、同じ章で何人もの心理描写をしてはならない。 たとえば、
>
> 彼は女に危険な何かを感じていた。
> 女は彼に怪しまれていることに気が付いていた。
>
> と書くと、じつに不自然である。女の心理描写をしたければ、別の章に移ってからすべきだ。
> もちろん、そのときは男の心理描写をしてはならないが。
何故これがいけないのだろうか。「モノ書き一里塚」ではそれ以上の説明はされていないが、僕は「同時に二人以上の心が読めたら面白くないから」だと思っている。
人は、他人の心を読むことはできない。二人で討論しているときに、二人の思惑が両方分かってしまったら、駆け引きも探りあいもなくて、読者にとっては、感情移入するべき相手がいなくなってしまう。
例を挙げてみよう。AとBの戦いのシーンだとする。
例1)Aの視点
Aは勝利を確信して、Bに銃を突きつけた。見たところ、Bは銃はおろかナイフすら持っていない。そしてAの腕ならこの距離で的を外すわけがないことを、Bも知っているはずだった。それなのにBは、怖れた様子もなく、相変わらず不敵な笑みを浮かべている。AはそんなBの様子に一抹の不安を覚えながらも、静かに引き金に指を掛けた。
例2)Bの視点
Bの眼前で、勝ち誇った表情を浮かべたAが、ゆっくりと拳銃を持ち上げた。彼の銃の腕はBもよく知っている。これだけの至近距離で的を外すことなど、万に一つもありえないだろう。まさに絶体絶命の状態だった。だがBは、怖れることもなく不敵な笑みをその顔に浮かべて見せた。Aに気付かれないように右手を腰の後ろに回し、そこに隠してあるリモコンに触れる。Aの足元に仕掛けた爆弾の、起爆用のリモコンだ。Aが拳銃の引き金に指を掛けると見るや、Bはリモコンのボタンを押し込んだ。
例3)混ざった視点
Aは勝利を確信して、Bに銃を突きつけた。Aの銃の腕はBもよく知っている。これだけの至近距離で的を外すことなど、万に一つもありえないだろう。だがBは、怖れることもなく不敵な笑みをその顔に浮かべて見せた。Aに気付かれないように右手を腰の後ろに回し、そこに隠してあるリモコンに触れる。Aの足元に仕掛けた爆弾の、起爆用のリモコンだ。Aは不敵に笑うBの様子に一抹の不安を覚えながらも、静かに引き金に指を掛けた。それと同時に、Bはリモコンのボタンを押し込んだ。
どうだろうか。1と2ではそれぞれの心情は分かっても、相手の心は読めない。となると無意識のうちに視点保持者に感情移入してしまうだろう。つまり、1の場合ならAと同様に「Bはなぜ笑っていられるのだろう?」という疑問を持ち、2の場合なら、Bに感情移入して「よし、これなら負けないな」と思うわけだ。しかし3だとそうはいかない。すごく客観的に、「ああ、これはBの勝ちだな」と思うだけで、どちらにも感情移入ができないのだ。
◆視点の切り替え
とは言っても、主人公以外のキャラクターの心情が描写したくなることもある。心情を描写した方が、キャラクターが魅力的になるからだ。ただ淡々とその外面だけを描写するより、内面の葛藤や意図を書いた方がそのキャラクターに感情移入できるようになるのは言うまでもない。
というわけで、別のキャラクターの心情を描写するにはどうするのかというと、空行をあけて、段落を変えるのである。新たな段落では映画やドラマで、カメラワークを切り替えるように、視点保持者を切り替える。
最近読んだ、志村一矢『月と貴女に花束を』(電撃文庫)で、その手法がうまく使われていた。一つの段落が、短いときだと1ページに満たないくらいで、どんどん視点が切り替わる。
一番うまいと思ったのは、あるキャラクター(Aとする)が、敵と戦っていて、負けそうになったときに別のキャラクター(B)が助けに来る、というくだりだ。前の段落は、「息を切らして走り寄るBの姿が見えたのは、その時だった」で終わり、次の段落になると「Bの目の前で、Aが血まみれの姿で敵と対峙していた」と視点が切り替わっていた。
こういう視点の切り替えをうまく使うと、複数のキャラクターの心情描写が違和感なくできる。「キャラクター小説」と呼ばれるライトノベル風の作品の描写には非常に優れた手法だと言えるだろう。
◆応用:実際の作品では?
では、僕の「エクエス=デイ」ではどうだろうか。この作品の視点は、回想シーンなどを除いて、基本的には主人公である光輝の視点である。
と言いつつ、始めの方には地の文による心情描写はあまりなく「神の視点」に近いともいえる。正直に言えば、書き始めた頃は視点などあまり意識せずに書いていたために、両方の視点が混じっているのだ。最初のうちは「神の視点」で書いていたが、主人公があまり喋らず、キャラクターの印象が薄くなってしまっているので、いつのまにか「キャラクター寄り」に移行してしまった。
機会を見つけて改訂し、全体を「キャラ寄り」に書き換え、さらには、視点の切り替えなどもうまく使って、他のキャラクターも魅力的にしたいと思う。