音楽小説 『milk』
aiko「milk」より
始まりは夢の中だった。
――雪?
思わず口にしたつぶやきは、音にならずに白い世界に溶けていく。
それは何もかもが真っ白な世界だったんだ。音もなくて、時間が止まったように思えた。
――だれ?
夢の中で、あたしは身構える。こんな静かな世界に、あたし以外の誰かがいる。
少し長めのえりあし、さらさらとしたやわらかそうな髪の毛。小さく荒い息。長い睫毛。
夢の中らしく、遠近感がおかしくて、すごく近づいたパーツばかりが見えて、あたしは思わずどきどきする。彼を、そんな近くからみたことなんて、一度もないのに。
そう、それがだれかは、いつの間にかわかってた。あたしの知ってる人。でも、親しい訳じゃない。むこうはあたしの名前も覚えてないかもしれない。言葉を交わしたことも、ほとんどない。なのに、どうしてあなたが夢に出てくるの?
その人は、あたしに気がつかないみたいだった。当たり前だ。彼の頭の中に、まだ、あたしはいないもの。
荒い息をついているのは、彼が走っているからだった。音もない白い世界で、引き伸ばされたようにゆっくりになった時間の中で、まるでスローモーションみたいにゆっくりと、彼は走る。
気がつけば彼が着ているのはユニフォームだ。青い、サッカー部のユニフォーム。
彼はボールを追いかけて、走る。ピンと伸びた体が、きれいな線を引くみたいに動き、すらりと足が伸びる。シュート。
ボールはゴールネットを揺らし、彼はわずかに顔を上げた。ほほえむ彼の顔は、まぶしく輝いて、白い世界の中に溶けていく。
視界が白く、白くなってく――。
目を開けると、目の前が真っ白だった。白はどんどんと広がって、テーブルを染めていく。
「ちょっと、なにやってるのよ」
お母さんの、あきれた声。あたしはようやく我に返る。
「朝ご飯食べながら居眠りしないでよ。どうせ昨日も夜更かししてたんでしょ。ほら、ミルク、ふきなさいよ」
あたしはあわててふきんをうけとって、テーブルにこぼれたミルクをふき取る。白が、不満そうに布に消えていった。
ふと時計をみると、家を出なくちゃいけない時間を5分過ぎていた。
「やば!」
あたしはトーストをくわえて、あわてて家を飛び出した。
「なんであんな夢見たんだろ?」
放課後。ストーブのついた教室の中から、曇った窓の外をながめながら、あたしは誰にも聞かれないように小さくつぶやいた。
窓の外、昨日の夜に降った雪に覆われた校庭。白の中で、彼がボールを追いかけていた。あたしと同い年で、サッカー部のキャプテン。クラスは違う。今だけじゃなくて、去年も、その前も。
一学年3クラスしかない学校だから、そういうのって結構めずらしかったりする。実は小学校で同じクラスだったことがあるんだけど、そんなこと、彼は覚えてないだろう。
別に、あたし、彼のことがずっと気になってたとか、そんなんじゃないよ。むこうは人気者だし、あたしとは接点なんてないし。
ただ、一度だけ見た彼のシュートシーンが、雪の中――白い世界に、きれいな線を描いた彼の体が、そしてほほえんだ彼のまぶしい顔が、頭の中に残ってしまったんだ。
ふと我に返ると曇り空の外は、もうかなり暗くなっていた。サッカー部の練習はもう終わってる。
――なにやってるんだろ、あたし。
むなしくなってきて、あたしはカバンをつかんだ。誰もいない教室のストーブを消して、立ち上がる。
教室を出るとき、何かにぶつかりそうになってあわてて立ち止まる。
顔を上げて、時が止まった。
彼が、目を丸くして立っていた。練習が終わって、荷物か何かを取りに教室に戻ってきたのだろうか。あたしの、隣の教室に。
一瞬、目が合った。
何か言わなくちゃ。そう思うけど、声が出ない。
彼も何も言わない。ちょっと困ったような顔をして、小さく首をかしげている。
この子、誰だっけ? 見たことあるけど、名前を思い出せないや。――そんな顔だ。
小さく、あいまいなお辞儀だけして、あたしは逃げるように走り去った。
彼の中にはまだ、あたしはいない。
わかっていたことだけど、すごく理不尽で悔しい気がして、あたしは唇を噛んだ。
電車の窓に映るあたしの顔を、じっと見てみる。彼の姿はあたしの中にこんなにも大きく映っているのに、彼の中にはあたしの姿は映っていない。
窓に映る自分に向かって、にっこりと笑ってみた。彼のまぶしい笑顔を思い出しながら。あたしは彼みたいに、あんなにきれいに笑えない。窓に映るのは、ぎこちなくゆがんだ顔だ。
笑顔の練習をしよう。いつか、彼に見せられるように。そうしたら、あたしを、この目を、唇を、あなたは見てくれるの?
今日も、あの白い夢に、あなたは出てくるのかな。
始まりは夢の中だった。
――雪?
思わず口にしたつぶやきは、音にならずに白い世界に溶けていく。
それは何もかもが真っ白な世界だったんだ。音もなくて、時間が止まったように思えた。
――だれ?
夢の中で、あたしは身構える。こんな静かな世界に、あたし以外の誰かがいる。
少し長めのえりあし、さらさらとしたやわらかそうな髪の毛。小さく荒い息。長い睫毛。
夢の中らしく、遠近感がおかしくて、すごく近づいたパーツばかりが見えて、あたしは思わずどきどきする。彼を、そんな近くからみたことなんて、一度もないのに。
そう、それがだれかは、いつの間にかわかってた。あたしの知ってる人。でも、親しい訳じゃない。むこうはあたしの名前も覚えてないかもしれない。言葉を交わしたことも、ほとんどない。なのに、どうしてあなたが夢に出てくるの?
その人は、あたしに気がつかないみたいだった。当たり前だ。彼の頭の中に、まだ、あたしはいないもの。
荒い息をついているのは、彼が走っているからだった。音もない白い世界で、引き伸ばされたようにゆっくりになった時間の中で、まるでスローモーションみたいにゆっくりと、彼は走る。
気がつけば彼が着ているのはユニフォームだ。青い、サッカー部のユニフォーム。
彼はボールを追いかけて、走る。ピンと伸びた体が、きれいな線を引くみたいに動き、すらりと足が伸びる。シュート。
ボールはゴールネットを揺らし、彼はわずかに顔を上げた。ほほえむ彼の顔は、まぶしく輝いて、白い世界の中に溶けていく。
視界が白く、白くなってく――。
目を開けると、目の前が真っ白だった。白はどんどんと広がって、テーブルを染めていく。
「ちょっと、なにやってるのよ」
お母さんの、あきれた声。あたしはようやく我に返る。
「朝ご飯食べながら居眠りしないでよ。どうせ昨日も夜更かししてたんでしょ。ほら、ミルク、ふきなさいよ」
あたしはあわててふきんをうけとって、テーブルにこぼれたミルクをふき取る。白が、不満そうに布に消えていった。
ふと時計をみると、家を出なくちゃいけない時間を5分過ぎていた。
「やば!」
あたしはトーストをくわえて、あわてて家を飛び出した。
「なんであんな夢見たんだろ?」
放課後。ストーブのついた教室の中から、曇った窓の外をながめながら、あたしは誰にも聞かれないように小さくつぶやいた。
窓の外、昨日の夜に降った雪に覆われた校庭。白の中で、彼がボールを追いかけていた。あたしと同い年で、サッカー部のキャプテン。クラスは違う。今だけじゃなくて、去年も、その前も。
一学年3クラスしかない学校だから、そういうのって結構めずらしかったりする。実は小学校で同じクラスだったことがあるんだけど、そんなこと、彼は覚えてないだろう。
別に、あたし、彼のことがずっと気になってたとか、そんなんじゃないよ。むこうは人気者だし、あたしとは接点なんてないし。
ただ、一度だけ見た彼のシュートシーンが、雪の中――白い世界に、きれいな線を描いた彼の体が、そしてほほえんだ彼のまぶしい顔が、頭の中に残ってしまったんだ。
ふと我に返ると曇り空の外は、もうかなり暗くなっていた。サッカー部の練習はもう終わってる。
――なにやってるんだろ、あたし。
むなしくなってきて、あたしはカバンをつかんだ。誰もいない教室のストーブを消して、立ち上がる。
教室を出るとき、何かにぶつかりそうになってあわてて立ち止まる。
顔を上げて、時が止まった。
彼が、目を丸くして立っていた。練習が終わって、荷物か何かを取りに教室に戻ってきたのだろうか。あたしの、隣の教室に。
一瞬、目が合った。
何か言わなくちゃ。そう思うけど、声が出ない。
彼も何も言わない。ちょっと困ったような顔をして、小さく首をかしげている。
この子、誰だっけ? 見たことあるけど、名前を思い出せないや。――そんな顔だ。
小さく、あいまいなお辞儀だけして、あたしは逃げるように走り去った。
彼の中にはまだ、あたしはいない。
わかっていたことだけど、すごく理不尽で悔しい気がして、あたしは唇を噛んだ。
電車の窓に映るあたしの顔を、じっと見てみる。彼の姿はあたしの中にこんなにも大きく映っているのに、彼の中にはあたしの姿は映っていない。
窓に映る自分に向かって、にっこりと笑ってみた。彼のまぶしい笑顔を思い出しながら。あたしは彼みたいに、あんなにきれいに笑えない。窓に映るのは、ぎこちなくゆがんだ顔だ。
笑顔の練習をしよう。いつか、彼に見せられるように。そうしたら、あたしを、この目を、唇を、あなたは見てくれるの?
今日も、あの白い夢に、あなたは出てくるのかな。