『ちっちゃな王子さま』(『星の王子さま』の新訳)をあらためて
ごぶさたしています、sagittaです。
2009年に全編翻訳し終えてホームページにアップしている『ちっちゃな王子さま』、
何回かの挫折を経て、あらためてもう一度きちんと校正をした完全版を作ろうと思っています。
今回は、
という、三段階の目標を立ててみました。
どこまで実現できるかわかりませんが……。
2009年といえば、まだ僕が編集の仕事をはじめる前。
見返してみると用字用語の統一がなされていなかったり、声に出して読むには少し引っかかるところがあったり、
あまり親しみのない単語の選択があったりで、直したいところがちらほらと。
今の能力をつぎ込めば、あのころに比べればだいぶ完成度の高いものがつくれるんじゃないかと思います。
そしてできることならそれを完全版として、未来に残せたらいいな~。なんて。
本のあとがきにするための、僕の物語への思いを込めた文章を書いたので、
以下に全文を載せておきますね。
日本では『星の王子さま』のタイトルで知られるベストセラーの原作、"Le Petit Prince"は、フランスの飛行機乗り、アントワーヌ・ド・サン=テグジュペリによって書かれた。
作者は作家というより「生涯飛行機乗り」とでも言うべき人で、郵便物配達人として、ジャーナリストとして、飛行機レースの選手として、ありとあらゆる理由をつけては飛行機に乗ることにこだわった。まさに「空に魅入られていた」というほかなく、その最期も「飛行機に乗ったまま行方不明になった」というのだから筋金入りの人生だ。
だから彼は、少なくとも童話作家ではなかった。"Le Petit Prince"を書いたころには、すでにすぐれた物書きとして知られてはいたが、それまでに発表していた文章は自分の飛行士としての体験を元にしたノンフィクションや、極めてリアルなフィクションで、主な読者は知的な大人たちだった。
"Le Petit Prince"の最大の特徴は、「過去の物語」であることだ。語り手である飛行士が読者に向けて、思い出の中のできごとを「すべて終わった後で」語っている、という形式。一貫して「ぼく」と名乗り、名前の出てこない語り手は、明らかにサン=テグジュペリ自身を思わせる。物語は、飛行士が飛行機事故でサハラ砂漠に不時着し、そこで「ちっちゃな王子さま」に出会うことではじまるのだが、サン=テグジュペリ自身、飛行機の事故でサハラ砂漠に不時着した後、救助された経験があるのだ。
もしかすると、"Le Petit Prince"を「創作された物語」として読むのは、正しくないかもしれない。あくまでも、語り手が実際に体験した「ほんとうのこと」を読者に打ち明けるという形で、それは書かれているのだから。
作中で、「ぼく」(語り手)は、しばしば「きみ」(読者)に、親しげに語りかける。「きみなら、ぼくの言うことが本当だって、わかってくれるよね?」と。
そう、これは童話作品なんかじゃない。「ぼく」から「きみ」への、手紙なのだ。
先にも述べた通り、"Le Petit Prince"は、日本ではもっぱら「星の王子さま」として知られている。しかし、このタイトルは、最初にこの本を日本語訳した内藤濯氏による、完全な創作だ。
原題のフランス語は、英語に直すと"The Little Prince"だから、とてもシンプルなものだ。
日本では、最初に契約した出版社が「独占翻訳権」をもつという悪しき慣習があり(これについては後で述べる)、1953年に内藤濯氏の訳した『星の王子さま』が岩波書店から発売されて以来、52年ものあいだ、新しい訳の出版が許されなかった。そのあいだにこの作品は『星の王子さま』としてすっかり人気になり、だれもが名前くらいは聞いたことがあるベストセラーになったのだ。
2005年、サン=テグジュペリの日本での著作権が切れると、同時に岩波書店の独占翻訳権も無効になり、各社から無数の新訳が発売された。商業的なことを考えれば、すでにだれもが知っている「星の王子さま」というタイトルを使わない、なんていう選択肢はとりようがなかった。だから、岩波書店が「星の王子さまというタイトルは内藤氏の創作であるから、新訳にはなるべく使わないでほしい」と声明を出したにも関わらず、ごく一部を除いて新訳本のほとんどは『星の王子さま』というタイトルだ。出版側の事情もわかるから仕方ないとはいえ、これは少し悲しい。
もちろん僕は、そういった商業上の制約とは無縁だから、『星の王子さま』のタイトルは使わない。ではどんなタイトルにするのがいいのだろうか。
新訳の中でもわずかに、新タイトルに挑戦したものがある。『星の王子さま』以外のタイトルを並べてみよう。
『小さな王子さま』『小さな王子』『小さな星の王子さま』『ちいさな王子』『小さい王子』『あのときの王子くん』
最後以外はあまり代わり映えがしない。『あのときの王子くん』は、青空文庫で誰でも無料で見られる訳で僕が尊敬する翻訳者でもある大久保ゆうさんが訳したものだ。徹底的に子供向けにふりきったひらがなの多い訳で、僕の翻訳とはまったくスタンスが違うけれど、僕がとても好きな訳でもある。おすすめ。
さて、僕はどんなタイトルにしようか。素直に直訳すれば、『小さい王子』だろう。だけどそれでは物足りない、と僕は思った。原題のLe Petit PrinceのLeは、英語で言うとtheにあたる定冠詞だ。不定冠詞とちがって特定の人を表しているもので、あえて言うなら『あの小さな王子』ということで、僕はそこに、王子さまに対する親愛の情みたいなものが込められているように思う。それをタイトルに表したい。小さいことを表すpetitという形容詞もただ物理的に小さいことを表すだけじゃなくて、もう少し愛嬌のある言葉で、たとえば恋人のことをpetit amiと呼んだりする。
そんなことを考えて、僕が大学生のときに思いついたのが『ちっちゃな王子さま』というタイトルだ。以来、これ以上のタイトルはないと思っている。余計な言葉も加えずに、王子さまへの愛着がシンプルに込められた『ちっちゃな』という形容詞。かしこまったときには使わないくだけた語感がぴったりだと、自画自賛している。
ようやく本題に入る。「僕が『ちっちゃな王子さま』をつくったわけ」について語ろうと思う。
これだけ熱く語っているんだから、もちろん僕は、子供のころから『星の王子さま』が大好きだった――というのは実は嘘で、僕が初めてこの本を読み通したのは大学生になってから、しかも授業の題材になっていたのでしかたなく、だった。子供のころからわりとたくさん本を読む子だったし、もちろんいつの時代もベストセラーだった『星の王子さま』にふれる機会はあったのだが、読み通すことができずに投げ出していたのだ。
その理由はひとつ。語り口、つまり文体が僕の好みに合わなかったからだ。僕が学生のころ、つまりサン=テグジュペリの著作権が切れる前は、日本には内藤氏の訳しか存在しなかった。内藤氏の訳にもすぐれたところがあるのは承知しているが、1950年代に訳された文章はすでにずいぶんと古臭かったし(大きなヘビをあらわす「うわばみ」なんていう言葉は聞いたこともなかった)、何よりも僕が受けつけなかったのは「ですます調」の文体だ。すました大人が子供に話して聞かせるような、退屈な授業の延長のような、いかにも「いいお話ですよ」と言っているような。そんなにおいが漂っているように感じた。(ちなみに、まったく同じ理由で「指輪物語」にも挫折している。手に汗握る戦闘シーンでのですます調ほど萎えるものはない)僕がそのころ好きだった児童文学の作家たち、たつみや章や斉藤洋、蜂屋誠一などは「ですます調」で物語を書いたりはしなかった。
大学時代に改めて『星の王子さま』を読み、授業の中でフランス語で”Le Petit Prince”を読んでみておどろいた。「大人は、子供たちのことなんてなんにもわかっちゃいない」まさしく、そう書かれていた。この物語に「ですます調」の翻訳は、まったくふさわしくない。強く、そう思った。
原語で読んだ”Le Petit Prince”に描かれていた世界に強くひかれていた僕は、ちゃんと本来の空気を残した日本語版が読みたい、それを未来に残してほしい、と思うようになっていた。
大学三年生のころ、サン=テグジュペリの日本での著作権が切れ、新訳の出版ラッシュが起こった。僕は期待に胸をふくらませて、手当たり次第に読んでみた。
ところが。全然、満足できる翻訳がない。さすがに言葉は新しくなっているものの、依然として内藤訳に引きずられたですます調のものも少なくなかったし、逆に「今までのような子供向けではない翻訳」みたいなことを意識しすぎた極端なもの、作者の思い入れが入りすぎているものなど、とにかくどれもこれもしっくりこない。
ないならば、自分で訳すしかない。こうして僕の翻訳作業ははじまった。僕のフランス語の能力は「かろうじて大学の単位はとることができた」という程度のお粗末なものだったけど。
翻訳にあたって僕がこだわったのは、語り手である飛行士と、読者との間の「親密で対等な関係」だ。最初にも述べたとおり、この物語は、「ぼく(語り手)からきみ(読者)への手紙」だと言える。
語り手の飛行士がこの物語をどういうふうに語りたかったのか、ということは、一章から四章くらいまでを読めばわかる。飛行士はもちろん、年齢からすれば大人だが、「ゾウをのみこんだボアの絵を、『ぼうしだ』と言ってしまうような」大人たちとはちがう、と思っている。そして彼のまわりには「ほんとうのことを話せる相手」がいない。だからこそ彼は僕たち読者によびかける。「生きてることのほんとうのところをわかっているぼくたちには、」と。彼は僕ら(読者)を、大人か子供かに関係なく、自分と同じ「物わかりのいい人間」だと認めたうえで、だいじなだいじな、彼のともだち(=王子さま)の話をうちあけているのだ。
だから、飛行士と読者が対等であることは、とてもたいせつだ。語り手は、教壇に立つ教師であってはならないし、読者も生徒であってはならない。
それがわかれば、世の中で議論されているような、「この物語は大人向けか子供向けか」などということはどうでもいいということがわかってもらえると思う。飛行士も、そしてもちろんちっちゃな王子さまも、相手の見かけが大人か子供か、なんてことでともだちを選んだりはしない。
2009年に全編翻訳し終えてホームページにアップしている『ちっちゃな王子さま』、
何回かの挫折を経て、あらためてもう一度きちんと校正をした完全版を作ろうと思っています。
今回は、
- Kindle版を作成して販売すること。
- 朗読を録音して公開すること。
- きちんと印刷・製本したものを作り、販売すること。
という、三段階の目標を立ててみました。
どこまで実現できるかわかりませんが……。
2009年といえば、まだ僕が編集の仕事をはじめる前。
見返してみると用字用語の統一がなされていなかったり、声に出して読むには少し引っかかるところがあったり、
あまり親しみのない単語の選択があったりで、直したいところがちらほらと。
今の能力をつぎ込めば、あのころに比べればだいぶ完成度の高いものがつくれるんじゃないかと思います。
そしてできることならそれを完全版として、未来に残せたらいいな~。なんて。
本のあとがきにするための、僕の物語への思いを込めた文章を書いたので、
以下に全文を載せておきますね。
僕が『ちっちゃな王子さま』をつくったわけ
"Le Petit Prince"について
日本では『星の王子さま』のタイトルで知られるベストセラーの原作、"Le Petit Prince"は、フランスの飛行機乗り、アントワーヌ・ド・サン=テグジュペリによって書かれた。
作者は作家というより「生涯飛行機乗り」とでも言うべき人で、郵便物配達人として、ジャーナリストとして、飛行機レースの選手として、ありとあらゆる理由をつけては飛行機に乗ることにこだわった。まさに「空に魅入られていた」というほかなく、その最期も「飛行機に乗ったまま行方不明になった」というのだから筋金入りの人生だ。
だから彼は、少なくとも童話作家ではなかった。"Le Petit Prince"を書いたころには、すでにすぐれた物書きとして知られてはいたが、それまでに発表していた文章は自分の飛行士としての体験を元にしたノンフィクションや、極めてリアルなフィクションで、主な読者は知的な大人たちだった。
"Le Petit Prince"の最大の特徴は、「過去の物語」であることだ。語り手である飛行士が読者に向けて、思い出の中のできごとを「すべて終わった後で」語っている、という形式。一貫して「ぼく」と名乗り、名前の出てこない語り手は、明らかにサン=テグジュペリ自身を思わせる。物語は、飛行士が飛行機事故でサハラ砂漠に不時着し、そこで「ちっちゃな王子さま」に出会うことではじまるのだが、サン=テグジュペリ自身、飛行機の事故でサハラ砂漠に不時着した後、救助された経験があるのだ。
もしかすると、"Le Petit Prince"を「創作された物語」として読むのは、正しくないかもしれない。あくまでも、語り手が実際に体験した「ほんとうのこと」を読者に打ち明けるという形で、それは書かれているのだから。
作中で、「ぼく」(語り手)は、しばしば「きみ」(読者)に、親しげに語りかける。「きみなら、ぼくの言うことが本当だって、わかってくれるよね?」と。
そう、これは童話作品なんかじゃない。「ぼく」から「きみ」への、手紙なのだ。
タイトルについて
先にも述べた通り、"Le Petit Prince"は、日本ではもっぱら「星の王子さま」として知られている。しかし、このタイトルは、最初にこの本を日本語訳した内藤濯氏による、完全な創作だ。
原題のフランス語は、英語に直すと"The Little Prince"だから、とてもシンプルなものだ。
日本では、最初に契約した出版社が「独占翻訳権」をもつという悪しき慣習があり(これについては後で述べる)、1953年に内藤濯氏の訳した『星の王子さま』が岩波書店から発売されて以来、52年ものあいだ、新しい訳の出版が許されなかった。そのあいだにこの作品は『星の王子さま』としてすっかり人気になり、だれもが名前くらいは聞いたことがあるベストセラーになったのだ。
2005年、サン=テグジュペリの日本での著作権が切れると、同時に岩波書店の独占翻訳権も無効になり、各社から無数の新訳が発売された。商業的なことを考えれば、すでにだれもが知っている「星の王子さま」というタイトルを使わない、なんていう選択肢はとりようがなかった。だから、岩波書店が「星の王子さまというタイトルは内藤氏の創作であるから、新訳にはなるべく使わないでほしい」と声明を出したにも関わらず、ごく一部を除いて新訳本のほとんどは『星の王子さま』というタイトルだ。出版側の事情もわかるから仕方ないとはいえ、これは少し悲しい。
もちろん僕は、そういった商業上の制約とは無縁だから、『星の王子さま』のタイトルは使わない。ではどんなタイトルにするのがいいのだろうか。
新訳の中でもわずかに、新タイトルに挑戦したものがある。『星の王子さま』以外のタイトルを並べてみよう。
『小さな王子さま』『小さな王子』『小さな星の王子さま』『ちいさな王子』『小さい王子』『あのときの王子くん』
最後以外はあまり代わり映えがしない。『あのときの王子くん』は、青空文庫で誰でも無料で見られる訳で僕が尊敬する翻訳者でもある大久保ゆうさんが訳したものだ。徹底的に子供向けにふりきったひらがなの多い訳で、僕の翻訳とはまったくスタンスが違うけれど、僕がとても好きな訳でもある。おすすめ。
さて、僕はどんなタイトルにしようか。素直に直訳すれば、『小さい王子』だろう。だけどそれでは物足りない、と僕は思った。原題のLe Petit PrinceのLeは、英語で言うとtheにあたる定冠詞だ。不定冠詞とちがって特定の人を表しているもので、あえて言うなら『あの小さな王子』ということで、僕はそこに、王子さまに対する親愛の情みたいなものが込められているように思う。それをタイトルに表したい。小さいことを表すpetitという形容詞もただ物理的に小さいことを表すだけじゃなくて、もう少し愛嬌のある言葉で、たとえば恋人のことをpetit amiと呼んだりする。
そんなことを考えて、僕が大学生のときに思いついたのが『ちっちゃな王子さま』というタイトルだ。以来、これ以上のタイトルはないと思っている。余計な言葉も加えずに、王子さまへの愛着がシンプルに込められた『ちっちゃな』という形容詞。かしこまったときには使わないくだけた語感がぴったりだと、自画自賛している。
翻訳について
ようやく本題に入る。「僕が『ちっちゃな王子さま』をつくったわけ」について語ろうと思う。
これだけ熱く語っているんだから、もちろん僕は、子供のころから『星の王子さま』が大好きだった――というのは実は嘘で、僕が初めてこの本を読み通したのは大学生になってから、しかも授業の題材になっていたのでしかたなく、だった。子供のころからわりとたくさん本を読む子だったし、もちろんいつの時代もベストセラーだった『星の王子さま』にふれる機会はあったのだが、読み通すことができずに投げ出していたのだ。
その理由はひとつ。語り口、つまり文体が僕の好みに合わなかったからだ。僕が学生のころ、つまりサン=テグジュペリの著作権が切れる前は、日本には内藤氏の訳しか存在しなかった。内藤氏の訳にもすぐれたところがあるのは承知しているが、1950年代に訳された文章はすでにずいぶんと古臭かったし(大きなヘビをあらわす「うわばみ」なんていう言葉は聞いたこともなかった)、何よりも僕が受けつけなかったのは「ですます調」の文体だ。すました大人が子供に話して聞かせるような、退屈な授業の延長のような、いかにも「いいお話ですよ」と言っているような。そんなにおいが漂っているように感じた。(ちなみに、まったく同じ理由で「指輪物語」にも挫折している。手に汗握る戦闘シーンでのですます調ほど萎えるものはない)僕がそのころ好きだった児童文学の作家たち、たつみや章や斉藤洋、蜂屋誠一などは「ですます調」で物語を書いたりはしなかった。
大学時代に改めて『星の王子さま』を読み、授業の中でフランス語で”Le Petit Prince”を読んでみておどろいた。「大人は、子供たちのことなんてなんにもわかっちゃいない」まさしく、そう書かれていた。この物語に「ですます調」の翻訳は、まったくふさわしくない。強く、そう思った。
原語で読んだ”Le Petit Prince”に描かれていた世界に強くひかれていた僕は、ちゃんと本来の空気を残した日本語版が読みたい、それを未来に残してほしい、と思うようになっていた。
大学三年生のころ、サン=テグジュペリの日本での著作権が切れ、新訳の出版ラッシュが起こった。僕は期待に胸をふくらませて、手当たり次第に読んでみた。
ところが。全然、満足できる翻訳がない。さすがに言葉は新しくなっているものの、依然として内藤訳に引きずられたですます調のものも少なくなかったし、逆に「今までのような子供向けではない翻訳」みたいなことを意識しすぎた極端なもの、作者の思い入れが入りすぎているものなど、とにかくどれもこれもしっくりこない。
ないならば、自分で訳すしかない。こうして僕の翻訳作業ははじまった。僕のフランス語の能力は「かろうじて大学の単位はとることができた」という程度のお粗末なものだったけど。
翻訳にあたって僕がこだわったのは、語り手である飛行士と、読者との間の「親密で対等な関係」だ。最初にも述べたとおり、この物語は、「ぼく(語り手)からきみ(読者)への手紙」だと言える。
語り手の飛行士がこの物語をどういうふうに語りたかったのか、ということは、一章から四章くらいまでを読めばわかる。飛行士はもちろん、年齢からすれば大人だが、「ゾウをのみこんだボアの絵を、『ぼうしだ』と言ってしまうような」大人たちとはちがう、と思っている。そして彼のまわりには「ほんとうのことを話せる相手」がいない。だからこそ彼は僕たち読者によびかける。「生きてることのほんとうのところをわかっているぼくたちには、」と。彼は僕ら(読者)を、大人か子供かに関係なく、自分と同じ「物わかりのいい人間」だと認めたうえで、だいじなだいじな、彼のともだち(=王子さま)の話をうちあけているのだ。
だから、飛行士と読者が対等であることは、とてもたいせつだ。語り手は、教壇に立つ教師であってはならないし、読者も生徒であってはならない。
それがわかれば、世の中で議論されているような、「この物語は大人向けか子供向けか」などということはどうでもいいということがわかってもらえると思う。飛行士も、そしてもちろんちっちゃな王子さまも、相手の見かけが大人か子供か、なんてことでともだちを選んだりはしない。