僕が生きていく世界

人と少しだけ違うかもしれない考え方や視点、ぐるぐると考えるのが好きです。 あくまで、僕個人の考え方です。 みんながみんな、違う考えを持っていていい。 いろんなコメントも、お待ちしてますよ。

「何かを残したい」という欲望。

いつの間にやら32歳で、すっかり「オトナ」とよばれる歳になった。
僕の場合は幸いにも周囲の人に恵まれたお陰もあって、
20代後半くらいから、世間の圧力に負けることもなく、
本当に好き勝手な人生を生きてきた。
それなりに苦労はしたけれど、今では、
自分の欲するままに生きる方法を自分なりに知ることができて、
大きな苦悩もなくあるがままに生きている。
今、僕はしあわせだと思う。

そうなってくると、それで満足していればいいのに、
今までとは別の、新しい欲が出てくる。
「僕みたいな人が生きやすいように、
世界を少しでもいいから変えていきたい」とか、
もっと直接的に、
「今、(昔の自分みたいに)若い人を、救ってあげたい」とか。

 
それを「利他的な心」とか、「奉仕精神」とか呼べればよいのだけど、
そんなきれいなものじゃなくて、
何か、自分の生きた証をこの世に残したい、とかいう切実な欲望なのかもしれない。
 
「生物には自分の遺伝子を残したい、という本能がある」などと言われるけれど、
現在のところ子どもがいない僕は、遺伝子の代わりに
ミーム(人から人へと伝わる文化的な情報因子)」を残したい、
と希求しているのかもしれない。
 
僕が20代のころに書いた小説を読み返せば、
「味方のいない狭い世界で、周囲になじめず苦しむ中高生」と、
「押しつけがましくなく、いつもおだやかに味方でいてくれる大人」がよく出てくる。
かつて前者だった僕は、今、後者になりたがっている。
それはとりもなおさず、僕が、かつて切実に欲していた存在だ。
 
「自分が欲していたもの」が、他人にとっても欲しいものとは限らない。
「僕のしあわせな生き方」は、だれにでも適用すべきものではない。
「こうした方がいいよ」という年長者からの言葉は、
多くの割合で「おせっかい」だ。
若い人の存在を、自分の欲望を満たすための道具にしてはいけない、とも思う。
 
悩んでいる人を前にして、手を伸ばすべきか、伸ばさざるべきか。
迷うことが多くなった。
中途半端に手をさしのべて、後悔したり、相手を傷つけてしまったこともある。
だからといって、決して手を出さないと心に決めて、
我が道を行くことも、僕にはできそうにもない。
 
三十にして立つ、四十にして惑わず、と孔子は言った。
40歳くらいまでに、僕も、自分自身の覚悟を決めることが、できるだろうか。
論語 (角川ソフィア文庫―ビギナーズ・クラシックス 中国の古典)

論語 (角川ソフィア文庫―ビギナーズ・クラシックス 中国の古典)