幾度かの挫折を経て……『星の王子さま』の翻訳と電子書籍出版、ついに実現しました!
みなさん、お久しぶりです。文月煉です。
最近はもっぱらnoteが使いやすくて、ブログの更新をサボっていました。
とはいえ、このブログにもちゃんと読者がいますので、こちらにもちょくちょく記事を更新するようにしたいなぁ。
さて、古くから文月煉(あるいはsagitta)の活動を見てきてくれた方には、「またかよ」という感じかもしれませんが、
何度も「決定版」を出そうとしては挫折していた、僕のLe Petit Prince(星の王子さま)の全訳プロジェクト、最初に翻訳を開始してからなんと15年以上の歳月を経て、ついについに完結しました!
そしてその完結記念にAmazonの電子書籍として販売したので、どうか、みなさん購入してほしいです!
最初に翻訳したころとは、僕自身の考え方も、世の中の「星の王子さま事情」も変わりました。
最初は、あまりにフランス語版の原作とは雰囲気が違う内藤濯氏の訳に対して、「僕が原作の雰囲気をちゃんと伝えてやるんだ!」という気持ちで翻訳していましたが、
僕がグズグズしている間にたくさんの新訳が出て、特に河野万里子さんの翻訳なんかは僕がフランス語版を読んで感じた雰囲気にとても近いものでした。
そうしたら、僕が新しい訳を作る必要もないんじゃない?
いやいや、そうでもないぞ。
河野万里子さんの訳は「原作に忠実」という点ではかなり僕の理想に近い。
でも(これは当たり前かもしれないけど)やっぱり、「翻訳小説らしさ」はかなりある。
「翻訳小説らしさ」は必ずしも悪いことではないのかもしれないけれど、僕は昔から翻訳小説が苦手なので(そしておそらくそういう人って僕以外にもたくさんいそう)、
「はじめから日本語で書かれた物語かと錯覚してしまうくらいの文章で訳したい」という思いが新たに出てきたわけです。
翻訳小説っぽくないようにするためには、かなり元の文章に手を入れる必要があるから、「原作に忠実ではなくなってしまう」という問題があります。
たくさんの批判にさらされるプロの翻訳者や大手出版社にはそれはやりづらい。
だからそれこそ、無名の個人である僕の出番なんじゃないの?と考えたのです。
というわけで、僕が翻訳した『ちっちゃな王子さま』は「原作に一言一句忠実」ではありません。
僕自身が原作を読んで理解したものを、改めて日本語の文章で書いたもの。
そういう意味では二次創作と言えるかもしれません(翻訳は全て二次創作だ、とも言えますが)。
Le Petit Princeは「公共の宝(パブリックドメイン)」になったのだから、そういう使い方があってもいいよね。
一言一句忠実ではないとは言っても、「翻訳」の範囲が逸脱するほどの大幅なカットや挿入があるわけではないですが。
手前味噌の勝手な自負ではありますが、2020年現在「いちばん読みやすい」Le Petit Princeの翻訳であると、僕自身は思っています。
Amazonで、300円でいつでも買える電子書籍ですので(そしてスマートフォンでいつでも、電車の中でもベッドの中でも読める!)、ぜひ、購入してもらえたらうれしいです。
ちなみにちなみに、
「電子書籍はいやだ。どうしても紙の本がいい」
という方のために、「オンデマンド印刷」で本が届くペーパーバック版もご用意しました。
市販されている本に比べると簡易な製本で、しかも1430円と割高ですから積極的にはすすめませんが、紙の本で手元に置きたいと思ってくださる方は、下記からどうぞ。
「地球に隕石落としちゃおう」 by すおう @kamenoko_suou (お題バトル0516参加作品)
【使用したお題】
日本語、隕石が墜ちる、愛、金平糖、空、飴
「儂さー、今日あたり、地球に隕石落としちゃおうと思うんだよねー」
同僚と二人、執務室に入った瞬間、部屋奥からとんでもない言葉が聞こえた。
見ると、最奥の巨大な机の向こうの席に、白い髭面が神々しい、偉大なる上司の姿が見えた。通常頭上にあるはずの光輪を、指に引っ掛けてぐるんぐるんと回し、もう片方の手で何やら紙を持っている。
「君たちは、どっちの大きさの隕石がいいと思うー?」
歩み寄る自分たちに気づいていたのだろう、偉大なる上司は紙を指で弾く動作をし――机上に一枚しかなかったはずの紙は、自分と後ろにいた同僚の眼前に、一枚ずつ空中に浮いて現れた。
紙には、左半分、大きな円の中に「直径200スタディオンでドカンと一発」と書かれ、右半分には、小さな円を細々と並べた横に「直径1ペーキュスで飴みたいに無数にばらまく」とあった。
地球を危機に陥らせる想像しか出来ない内容に、顔が引きつる。
「あの、主様、先週同じような事で『やっぱやーめた!』って言ってらっしゃいませんでしたか? 何故また思い直しを?」
眉をひそめて溜息をつくと、眼前の紙は息の強さに煽られ、何処かに吹き飛んだ。
「えぇ? そうだっけー?」
「そうです。先週は隕石じゃなくて洪水でしたが」
「あ、そうそう、それそれー。洪水はさ、先々代がやってんだよねー。儂レベルになると、やっぱりオリジナリティを追求したいっていうかー?」
上司の指でフラフープ状態になっている光輪が、ぐるぐると勢いを増す。光輪に照らされた上司の姿はすべからく神々しいが、とはいえ立派な髭を蓄えた口を尖らせるのは、大人げない。
「いや、ええんちゃいます? オレは、やるとしたら、こっち。ドカンと一発派やな」
背後にいた同僚が、紙を持って、上司の机の前に進み出た。大きな円の方を示す指に、上司は神々しい髭を綻ばせる。
「こっちね、派手でいいよねー。でもさでもさ、飴みたくばらまくのもやってみたいんだよねー。空で流星になって、絶対綺麗じゃん?」
「直径1ペーキュスってのやと、飴やなくて金平糖サイズやないですか? 主様がやるには、ちっと派手さが足りんのとちゃいます?」
「えぇ? そう? でも金平糖も可愛いよねー」
ゆるゆるな上司と、最近特殊な言葉使いを覚えた同僚との会話は、放っておけばおくほど脱線する傾向にある。
「主様、本気でなさるおつもりですか? お前も煽るんじゃない!」
「えぇ? 何言うてるん、モチロン主様の冗談やろ? オマエ、前から思っとったけど、ほんまノリ悪いなー」
肩を掴んで振り向かせると、同僚は上司の真似をして口を尖らせた。最近、地球の日本国の伝統文化に傾倒している同僚は、顔一面を白く塗って、所々赤や黒の線を描き入れている。口を尖らせる態度の悪さが、より強調される。
「ノリが良い悪いの問題でも無い!」
「いやほんまノリ悪い、カッチコチ。あれやな、日本の格さんみたいなヤツやなオマエ」
「何だよ、『カクサン』って!」
「オマエも地球上にしょっちゅう出張行ってるやろ? 『水戸黄門』知らんなんて、ありえんへんやろ!」
「いや待って君、そしたら儂、『御老公』の位置付けじゃん? 儂、そんな歳?」
「主様、よぅ知ってはりますね。でも年齢で言えば、圧倒的に主様のほうが上やないですか? ケタ違ですよ」
「儂、支配下の恒星の事なら、何でも知ってるもん。えぇー、でもそっかー、儂、もっと若いつもりだったけどなー」
脱線しかけた話を元に戻すつもりが、さらに脱線しつつある。
「主様が若かろうが『ゴロウコウ』? だろうがどうでもいいんですが! 問題は、本気でなさるおつもりか、って事です!」
唾を飛ばす勢いで声をあげると、上司と同僚は示し合わせたかのように肩をすくめた。
「本気だよー?」
上司は、その神々しい髭面を、こてんと横に傾ける。まったく可愛くない。
横で同僚が「ホンマですか!?」と素っ頓狂な声を上げたが、上司はうんうんと頷くだけだ。
急に静まり返った室内で、鼻息荒く、口を開く。
「何故地球に隕石を落とすんですか? 仮に直径200スタディオンの隕石を落とすと、地球上の生物が死滅します。主様は、地球を滅ぼしたいんですか? あと、直径1ペーキュスだと、空中で爆発して地球に届きません」
言い切ると、横から「おおー」と感嘆の声が聞こえた。
「さすが星博士。オレ、実はいまいち長さの単位分かっとらんかったんよ。尺貫法で言ってもらわんと」
では、何故先程は流れるように上司の話に合わせていたのだ、と睨みつけるが、同僚の適当具合はいつものことだ。特に悪びれない真っ白な顔に、溜息しか出ない。
「おお、そっかー。しっかり計算してなかったー」
上司も、軽い応えを返してくる。上司の力をもってすれば、どのサイズの隕石をどんな速度で落としたら、地球にどの程度の影響を及ぼすかなど、一瞬で計算できそうなものだが、ただ面倒だっただけだろう。「君たちがやってくれると思ってー」と上目遣いで見てくる上司は、やはり神々しいばかりで、可愛げはかけらも無い。
「地球を滅亡させる気はないんだー。でもね、」
途中で言葉を切った上司が、不意に目を細めた。ぞわりと体の奥から総毛立ち、背中に負った翼の羽毛一本一本までもが、張り詰めるように伸びる。
「不要な言語は、滅亡させてもいっかなーって」
手元でくるりくるりと回し続けられる光輪は、清かな光ではない、もはや凍える程に爛々と輝いていた。こういう時、自分は上司の眼を直視できた事がない。
隣に立っている同僚の、ごくりと喉を鳴らす音が、やけに大きく響いた。
「……『不要な言語』とは、地球上の人間が使う、7千弱のすべての言語のことでしょうか?」
同僚は、カラカラに干上がった声で、確かめるように問う。いつもの特殊な言葉遣いを忘れているぞ、と横から毒を吐く余裕もこちらには無い。
「すべてではないよー。統一したいんだ」
それは、一言語以外は皆不要ということだ。
「バベルの昔、先々代が、元々一つだったのを分かれさせたよね。それは不要な傲慢さを戒めるためだったじゃない? でも、それからどうなった? 人間は、言語が分かれたからこその論理で、狭量になり、傲慢に至り、争いを増やしている」
上司ほど永い期間、人間たちを見てきた訳ではない。しかし、思い浮かぶ事例の枚挙には、いとまが無かった。
「言語を分けたのは失敗だった。傲慢さは、人間の性質だ。先々代は、人間に期待し過ぎたんだろねー。それならさ、言語を統一したほうが、まだマシな状況になると思わない?」
だから、言語を統一する。
そのように言うのは簡単だが。もしやるとなると。
「ある言語を使う人々以外を対象に、隕石を落とす、ということでしょうか……」
先程の同僚の干上がった声を笑えない。自分のものと思えないほど嗄れた声が出た。
「地球上の言語を一括で変更できたらいいんだけどねー? 儂ってば、最初を与えるのと最後を締めるのは得意だけど、途中で一つ一つ直したり育てたりするの苦手じゃん?」
先週、「洪水起こしたい」なんて事を言い出した時には、本人がすぐに諦めたから、その目的も聞かなかったが。まさか、こんな事を考えていたとは。
隣に視線をやると、同僚と目が合った。目を囲む黒い縁取りは、本来表情の力強さを表現するものなのだろうが、同僚の視線は細かく揺れてしまっている。自分の表情は見えないが、おそらく自分も同じようなものだろう。
地球以外にも無数の恒星を管轄下に置く上司は、「至上の愛」と宣いながら、すぐに天地創造と破壊を繰り返そうとする。地球は数千年間、その難を逃れてきたが、ついに白羽の矢が立ってしまった訳だ。
「参考までに聞くけど、君さー、今、地球の、何て言ったっけ、『日本』って国、贔屓にしてるじゃん?」
同僚は、上司の軽い調子の声に、びくりと大きく体を震わせた。
「は、ハイ!」
「日本の言語って、『日本語』だっけ? えぇ? どうする? 残すの、日本語にしちゃうー?」
上司は、鼻歌混じりに問うてくる。
「え、えぇ!? いや、えっと、ここ数日は推してます、が……その前はそうでも無く……」
同僚は、先週は「ソンブレロ・デ・チャロ」というメキシコ伝統のつばの広い帽子を被り、鼻髭を生やし、スペイン語で上司の洪水話を笑い飛ばしていた。その前週は、熊皮の黒い巨大帽子を頭に乗せ、タータンチェックのウールを体に巻き付け、所構わずバグパイプを吹き鳴らしていた。
という事実はともあれ、この上司を前に、言うべきでもない。しどろもどろになった同僚は、こちらに縋るような目線を向けてきた。日本語で言えば、子犬のような。
「いや、あの、残す言語を、こいつの贔屓にするというように、そんな簡単に決めるのも如何なものかと……」
助けを乞われても、まともな言葉が出て来ない。隕石そのものを止めなければならないのに、だ。
「んー、そう? でもさでもさ! 日本って、他の国と陸続きじゃないって話じゃん? 君たちの力で壁を作っておけばさ! 隕石パパっと落として解決ー! 他の言語より楽そうじゃない?」
「あ、イヤ! 日本語を話す人間は、日本以外にも世界中にいーっぱい! いーっぱい、います! それこそ無数に! アッチコッチ散らばってます!」
同僚は大げさなまでに両腕を振り回して、「いーっぱい」と「アッチコッチ」を体中で表現する。
「えぇ? そんなに日本語残したくないのー? なら良いけどさ、滅亡させれば」
「あ、イヤ! そういうワケでは無くてですね」
「えぇ? どっちー?」
「イヤ、そもそも隕石落とすのがですね……」
同僚が、上司相手に非力な空回りをしているのを横目に、必死に頭を巡らせる。
言語を統一しても、逆に、伝わるべきでない陰口が耳に入って争いが増えるのでは、という路線で説得するか? 駄目だ、「そんな奴等、リセットさせたほうが良くないー?」と言われるのが目に見えている。
7千弱の言語の特徴すべてを事細かに説明して、メリット・デメリットを示して、時間を稼ぐか? 駄目だ、「君たちで3つぐらいに絞ってから、説明してくれたら良くないー? 上司の時間無限だと勘違いしてないー?」と、至極当然のことを言われそうだ。
もっと別の――それこそ、隕石そのものを止められる、手法が無ければ!
「……あ」
不意に、脳内に思い浮かぶものがあった。眼前でわたわたと手を振り回していた同僚を押し止め、つまらないものを見るような目をしていた上司との間に、回り込む。
「あのですね、主様」
「んー? 何?」
「隕石案、良くないと思います」
「えぇ? 何で?」
怪訝そうに鼻を鳴らした上司の前に、身を乗り出すようにして言う。
「隕石は、オリジナリティに欠けるからです!」
上司の目が見開かれた。その爛々とした輝きに押されないように心を励ましながら、さらに上司との間を一歩詰める。
「少なくとも2万代前の主様が、すでにその手法を使われています! 隕石は、使い古された、独自性がなく、二番煎じで猿真似で、言わば丸パクリの手法なんです!」
持てる語彙力から絞り出し、隕石案を下げるだけ下げた。上司は、髭に覆われた顎に手をやり、眉をひそめる。
「2万代前……隕石……あれか、もしかして、恐竜ほとんど滅亡させちゃったやつ?」
「それです!!」
約2万代前の主が、6600万年前の地球に巨大な隕石を落とし、空を飛べない恐竜を一掃させたのは、よく知られた話だ。
「うーーーーーーーん」
上司は、神々しく輝く顔を悩ましげに顰め、深く長く、唸った。
「主様にふさわしい、独創的な、新機軸で先進的な手法を取られたほうが、宜しいのでは?」
駄目押しに畳み掛ける。
上司はしばらく宙を見上げて目線を彷徨わせていたが、不意に正面に向き直ると、カッと眼光鋭く、言い放った。
「やるからには、儂にふさわしくあるべきよな! よし、やっぱやーめた!」
「はい!!」
返答する元気な声が、同僚と重なる。
こうして、一旦危機は脱した訳だが――
「でもやっぱさー、地球、このままじゃ駄目だと思うんだよねー。だから、君たち、来週も相談に乗ってねー?」
地球の完全無欠な安全は、まだ約束されていない。
「ウィークエンド・エンド」 by まくのうちヴェント @akazunoma 「お題バトル0516参加作品」
【使用したお題】
日本語、隕石が堕ちる、峠道、愛、空、飴、雨
ここ数日、何も口にしていなかった。
腹はずっと螺貝を吹き続けていたが、そのうち何も入ってこないことを悟ったのか、空虚な主張をやめた。布団と背中がぴったりとくっついて、手足を動かすたびにギギギと錆びた鉄のような動きをするので、そのうち動くのもやめた。その代わりにやたらと喉が渇いて、肺で息をするたびに行き来する渇いた空気に、気道がささくれだっては苛ついて、何も吐くものがないのに戻しそうになるのだった。
外から子供の声すら聞こえなくなって、半年は経っただろうか。趣味で購読していた新聞も、もう2ヶ月以上届いていない。最後の記事の一面は「謎の物体、東京の地図を変える」だったか、「内閣総理大臣、自決」だったか「医師会ストライキ」だったか。もはや新聞を開くたびに、自分の内側がゴリゴリと削れていくので、そのうち読むのをやめた。
その裏に載っていたどっかの水族館でイルカの赤ちゃんが産まれたなんて記事の方が、よっぽど心が欲していたので、スクラップしてまで壁に貼ってあるのに、なんだかすでに古い絵画にすら思えてならない。
何度も峠は越しました!皆さんの努力が実っています!と言っていたアナウンサーの顔もしばらく見なくなった。最初に止まったのはテレビだった。再放送。再放送。再放送。誰かが死んだ。特集。そして再放送。そのうち四六時中、ポーという音に無意味なカラーバーしか見れなくなったので、つけるのをやめた。
元々狂っていたインターネットは、よりおかしくなって、最近は人類は救済されるのだとかハルマゲドンの再来だとか、我先に預言しようとする承認欲求に嫌気が差していたのだが、とあるプロパイダが障害連絡を起こしたっきり、ゆっくりと発言するアカウントが減っていった。今は限られた人が天気の報告をするだけだ。自分の端末は既に文鎮と化し、限られた電気を効率的に使うために、充電すらしていない。
そのうち冬から静かに春が来て、夏が来て、クーラーが止まり、冷蔵庫が壊れ、自分も色々を諦めたところだ。電気が止まってから水が出なくなるまでは早かった。ある朝、顔を洗おうと蛇口を捻ると、キュ、キュと虚しい音が鼓膜に響き、目の前が真っ暗になった。その日以来、ベッドから動くことが出来ていない。
部屋に放置したパレットは、カチカチに絵の具が渇いて独特の化学臭を放っていて、寝て、起きて、その匂いを認識できるかどうかが、自分が生きているか死んでいるかの判断の要だ。
最後に人間らしい活動をしたのはいつだったか。あけおめー、また遊ぼうね!そう言って飲み会でビールを交わした友人にしばらく会ってない。ビール。ああ、ビール、呑みたいな。こんな夏、ビールだろう。去年の夏はこんなことなかったのに。去年の夏は、川沿いでBBQして、夏祭りに彼女と浴衣で行ってー…
ピンポーン
聴き慣れていたはずの無機質な音に朦朧としていた意識が開く。幻聴だろうか。この一帯の人間は既に生きだえた、俺はボートで逃げるから。そういって挨拶に訪れた大学の友人は、その後連絡がない。
ピンポーンピンポーン…
「…………」
一瞬、歓喜と恐怖が同時に身体を走り抜ける。汗で乾いた布団のシーツを蹴飛ばし、玄関に走った。人間に会いたい、言葉を発したい。会話したい。水が飲みたい。
「ー…………」
「……」
久しぶりに開けるドアは、バリを剥がすようだ。何日も開けていないドアの先には、自分の目線より幾らも低い女の子がいた。なんだ、子供か。まだ子供が生き残っていたのか。肌が日焼けして、髪の毛は伸び放題、腹は飢餓状態なのかふっくらして、それでいて瞳だけはらんらんと輝いている。子供だ。
「……なに?」
久しぶりに人間と会った喜びとは裏腹に、どこから来たんだ、お前の両親は、意地悪く残った自分の人間性が言葉を発する。あ、こんなにぶっきらぼうだったっけ。何十日も人と話していないから、正確なコミュニケーションを忘れてしまった。
「ウォーター!」
少女はそう言って手を伸ばした。指先は黒ずんで、最近叫ばれていた手洗いなんてしばらくしていないようだ。ウォーター!もう一度少女は叫ぶと頭を下げた。かろうじて止まっていたリボンのピン留めが、落ちる。
「アッ………」
「これね、」
自分の足の間に落ちたソレを拾おうとするので、拾い上げて、そのまま少女の手のひらを握った。たかがその辺の大学生が幼い児童の手を握るなんて、平時だったら通報されたかもしれない。身体は久しぶりに感じる同じ生物の気配に喜んで、触れたがった。砂っぽいが、柔らかく、生暖かい少女の手は、緊張していた筋肉が緩んで泣き出しそうだった。
「ウォーター…」
少女はそう言って自分の瞳を覗き込む。黒々とした大きな瞳。よく見ると、日焼けしていると思っていた肌は元々浅黒く、ハーフかどこぞの国の人であるらしい。なるほど、そういえば近くにインターナショナルスクールがあったかもしれないな、とふと思い出す。
「ごめんね、水、ないんだよ」
少女は、首を傾げる。
「水どころか、何にもないんだ」
この部屋から食料らしい食料が尽きたのはもう何日も前のこと。それからはマヨネーズやバターを舐めて、油を舐めて、台所を這いずる虫のように生きてきた。だから、この女児が求める物はここには何もない。
「!」
「あっおい」
少女の黒い虹彩が輝いたかと思えば、何かを見つけて駆け出した。裸足でうっすら埃の積もった床に跡をつけて。
「water!」
少女が指差したそこに飾られていたのは、思い出せないほど前に残り少ない絵の具で書き殴ったキャンバスだった。枕の横に乱雑に置かれた、絵ですらない、筆で絵具を投げつけただけ。青、青、青。セルビアブルー、アジュールブルー、スカイブルー。筆で思いつく青を投げつけただけ。ところどころ厚く盛られた絵の具は剥がれ落ちて、キャンパスの白い部分がのぞいている。
「water!」
少女はそれを指差して、もう一度叫んだ。その姿が、国が荒んだ時期に人々が追い求めたエンターテインメントの何よりも、ずっと輝いて見えた。
「それ……」
自分が怒りで殴りつけた青、そのときは分からなかった青。自分ですら知らなかった青。
無心に描いたその先に、求めるものがあったのか。
「I like it」
少女は混じりあった青を指差して、ニコリと笑う。言葉通じずとも、心に触れられたような、ゆるやかな気持ちで自分の中が満たされた。
「そうだ、水はないかもだけど…」
隣接されたワンルームの洗面所に向かうと、止まった水の独特の腐臭が鼻をつく。暗い中、洗濯機の下を覗くと、陽の光の中うっすらと固体が目についたので、このところすっかり筋肉の落ちてしまった腕を差し入れた。
固体がコツン、と指先に当たり、引き出す。渇いた汚水に塗れたそれは、随分前に横着して洗濯するときに落とした、いつぞやの焼肉屋でもらった飴だった。袋は汚いが、中は甘そうなイエローが煌めいている。
「汚いけど、中身は食べられると思う」
後ろについてきた少女にそれを差し出すと、少女は不思議そうに手に取った。指先でつまんで、指先で日にかざして、ようやくそれが飴だと理解すると、キャンディ!と喜ぶ。
その様子を見て、どこだか安心する自分がいた。
「ねえ、僕はもうじき死ぬと思う」
すぐさま飴を開けて口に放り込む少女に、話かける。もう、洗面所から動けない。座り込んだ尾骶骨が床に擦れて、横にならないと痛くて死にそうだ。
「そうしたら、この絵を持っていってくれるかい?しがない美大生の絵だけれど、サインを入れておくからさ」
うろ覚えの英語で、少女にあれを持ってきて、と声を掛けた。少女は飴をコロコロ、ときどきガリガリと噛みながらも、彼女の手のひらには大きすぎる10号のキャンバスをよたよたと持ってきた。
その辺に転がっていたサインペンを手に取ると、改めてその絵をしっかりと見る。
青、青、色んな青。
筆先が上から下へ、下から上へ、ガサガサとした質感を残して、キャンバスに軌跡を描いている。ところどころ、絵の具が飛沫をあげて、ぽつぽつとキャンパスの端に玉を飛ばしている。
「いいかい?僕の名前は…」
「!」
「えっちょっと!!」
自分のペン先をじ、っと見つめていた少女が、何かを見つけたらしくいきなり外に駆け出した。それを追おうとするも、怠さで身体が動かない。四肢に力が入らず、起き上がることすらできない。ただ、開け放たれたドアから、何が起こったのかすぐに察することができた。
なつかしい、匂い。
少し新鮮にも感じるアスファルトの匂い。
パタパタという、普段だったら特別気にならないような何気ない音。
「、雨だ………」
何十日かぶりの雨だ。雨の音がする。
草木の匂い。少し冷たい土の匂い。
泥臭い洗面所で、少女の開け放っていったドアから入ってきた、ひんやりとして少し生暖かいような、美しい空気で、肺を包む。そのままふわりと眠気がして、気持ちよく横になると、どこかで「water!」という少女の声が聞こえた。
ゆっくりと目を閉じると、そこからあれほど焦がれたぬるい水が流れた。
願う。この雨が降り注いで、少女と自分を包み込むことを願う。
「美しい日だなあ、」
願わくばこの愛で、地球を包んで。
「こんぺいとうのあまさ」 by 文月煉 @fuduki_ren (お題バトル0516参加作品)
【使用したお題】
日本語、隕石が墜ちる、低気圧、峠道、愛、金平糖、ワイパー、空、飴、雨
「100年後に地球を壊滅的に破壊する規模の巨大な隕石が墜ちる」
それを告げたのが雑誌『ムー』ではなくて、世界各国の主要メディアのほぼ全てであり、予言でも予知でもない「95%以上確実な科学的な予測」であることを人々が理解したとき、文明というのはいとも簡単に崩壊した。
最初の50年間は、世界はかろうじてそれまでの体制を維持したままで、この未曾有のカタストロフに対処する手段がないか、侃々諤々と議論し合った。やがて、隕石に対処するにはもう数百年ほどの研究が必要であり、とても間に合わないことがわかってしまった。予測が発表されてからちょうど50年後のある日、業を煮やした超大国が、周囲の国の制止を振り切ってメガトン級の核弾頭を積み込んだミサイルを隕石に向けてぶっ放し――未解明の宇宙線の影響によって軌道を狂わされたミサイルが大量の放射線とともに地球に降り注いだ。それからの崩壊は早かった。自分自身では決して対処できない危機に見舞われたとき、人間が取る行動は限られている。逃避か、自暴自棄か、開き直り。
既存の「社会」は失われ、新たな「社会」が誕生した。こんな状態になっても人は最後の瞬間まで社会を求めるのだろう。国は失われたが、各地にたくさんのコロニーができた。あるコロニーでは街全体を巨大なドームで覆い、空を見えなくした。見えなければ、地球を破壊しに来るという悪魔の姿を忘れることができる。またあるコロニーでは人間大のネズミの人形を新たな「神」とし、神が支配する夢の国で、最後の日まで夢を見て暮らすことを選んだ。そのようにして人々は、期限付きの新たな日常を手に入れていった。
サクラは、峠道を旧式の四駆で駆け抜けていた。折しも爆弾低気圧が襲いかかり、激しい雨でフロントガラスは盲目状態だ。サクラと同じくらいの歳月を重ねた四駆のワイパーは、とうに壊れて久しい。
「畜生ッ」
おもわず口から吐いて出る言葉は、いまや世界の共通語となりかけているブロークン・イングリッシュではなく、とうに失われたサクラの祖国の言葉、日本語だった。正確に言えば、サクラの両親の祖国だ。サクラは祖国が崩壊したあとに生まれたから、どこの国籍も得たことはなかった。
サクラは旅人だった。両親は、祖国崩壊後にできた「自給自足のコロニー」で暮らしている――今も健在なら。枯れた土地でも育つイモを主食として、すべてのものは共有され、個人の財産を持たないコロニー。貧しいが穏やかなコロニーだ。両親はそこでサクラを生み、「わたしたちは静かに最後の訪れを待つんだよ」と自分に言い聞かせるように毎日唱えていた。終わりの日まではあと10年に迫っていた。
そんな両親の言葉を聞いて、サクラは「冗談じゃない」と思った。両親にとっては、もう十分なのかもしれないが、サクラはまだ生まれてから15年しか経っていない。両親たちの寂しさを紛らわすために勝手につくられ、何も見ず何も知らないままに両親とともに終わりを待つのなんてまっぴらだ。
だからサクラはコロニーを捨てて旅人になった。地球の壊滅を止める手段か、隕石が落ちたあとも生き残る手段を、見つけ出してやる。もしそれが叶わなくても、ただコロニーで終わりを待つくらいなら、最後まであがいて旅先で野垂れ死ぬほうがずっといい。
道端に捨てられている旧式の四駆を見つけられたのは僥倖だった。この山を歩いて超えるのは骨が折れる。食料も水も心もとない。
この峠を越えれば何かがある。そんな気がしていた。ただの願望だったのかもしれないが。
数日かけて峠を越えたとき、サクラは、あっと声を上げた。いつの間にか雨は上がっていた。黒い雲は山に遮られ、峠の此方側には届かなかったらしい。空に、七色の光が見えた。
「こん、ぺいとう……」
サクラはつぶやいた。幼い頃、サクラの誕生日に、「みんなには内緒だよ」といいながら父が手渡してくれた小さなお菓子。おそらくは祖国でつくられて、両親が大切に保管していたものだったのだろう。水色や、白や、黄色や、桃色のすきとおったつぶ。空に浮かぶ七色を見て、サクラはそれを思い出した。
サクラはめまいを覚えた。幼い頃のことを思い出すのは、久しくないことだった。頭に靄がかかったようで、そのころの両親の顔もはっきりと思い出せない。サクラの胸の奥の奥に染み込んだままだったこんぺいとうのあまさが、静かによみがえった。それは、コロニーでつくられ、支給される飴なんかとはまったくちがうものだった。
あのころの両親には、おそらく。
サクラは、空に浮かぶこんぺいとうのような光を、目を細めて見つめながら思った。
まだ、希望があったんだ。まだ、あきらめていなかった。
「わたしたちは静かに最後の訪れを待つんだよ」と、両親が唱え始めたのは、いつからだっただろう。
たぶんあのときに、失われてしまったのだ。こんぺいとうのあまさは。
「それを、探しに行く」
サクラはつぶやいて、ゆっくりアクセルを踏んだ。 あのあまさが、愛、とよぶのだとは、サクラは知らなかったけれど。
「あめの音」 by 永月いつか @itzka_nagatzki (お題バトル0516参加作品)
【使用したお題】
雨、飴、ワイパー、峠道、愛
中学の同窓会が渋谷であった。中三のクラスと、となりの組の合同で企画されたらしい。土曜の夜、安っぽすぎないチェーンの居酒屋だ。
「10年ぶりか」大学に行って新卒で働いている人は、今年で3年目になる年だ。同級生の半数ほどはこのコースを辿っている。
中学卒業以来、家庭も家族の場も東京に移ることになった亜以子には、なんだか居場所がなく感じられた。
「あれ、亜以子じゃない?」馬鹿騒ぎする男性陣を机の向こう側に見やりながら一人でビールを飲んでいたら、後ろから声をかけられた。
「おお、泉っちゃん」
泉はカシスオレンジのグラスを手に微笑んだ。彼女とは音楽委員で一緒で、泉は委員長だった。
「今何してるの?」
「今学生だよ。音大の」
ええ、すごいねと通り一遍のリアクションをされた。……泉にそのリアクションをされたことにちょっとイラついて、ジョッキを飲み干しながら、泉は何をしているのかとふつうの会話をした。
「でも泉のほうがピアノうまかったじゃないね。いろいろ賞とったりさ」
「結局親が受験にうるさくてね」
あっそう、と新しく来た徳利からおちょこに日本酒を注いだ。
「ふくいーんちょは?」
あそこにいるよ、と泉が指したほうは、座敷の出入り口だった。
ふくいーんちょの、ちいさい身体から生まれる躍動感のある指揮は素晴らしかったなあ、と思いを馳せつつ、今は大きくなった大輝に声をかけた。
おお久しぶり、とあいさつし合って、今は何をしているのかとい聞いたら、「学校の先生だよー」だそう。
「なんの教科?」亜以子は靴箱に寄りかかって、煙草に火をつけた。
「英語なんだ」
「部活とかは?」
「それが陸上部なんだよね」
「ええ、君運動嫌いだったのに」
「そうなんだよね。俺も興味がなさ過ぎて、教えるのか苦痛だし、そのことが生徒たちにも申し訳なくてさ」
「音楽系の部活はないの?」
「いや、あるんだけど。新人だからあんましわがまま言えなくてさ」
……そっか、と亜以子は煙を吐いた。
「残念だなあ」
大輝は亜以子から一本煙草をもらいながら、そんなの子供のころの話でしょう、と苦笑した。
「馬鹿、私は本気で君たちの音楽に憧れてたんだ」
ぎゅっと灰皿に煙草を押し付けて、鞄ととりに座席に戻ると、泉がどうしの?と目を丸くした。
「帰る」
靴箱を通りかかると、大輝が灰を落としていた。追いかけてきた泉と何か話している。
靴を履いて外にずかずかと出ると、雨が降っていた。
もういいか、と思い、歩き始めると、2、3歩も歩かないうちにびしょ濡れになった。自分の憧れのひとたちが、今はもうその才能や情熱に関係のないことをしているんだと思ったら、馬鹿なのは自分だけみたいで、悔しくて泣きそうになったが、涙も雨に紛れていった。
泉が後ろから傘を差してきた。
「もう私はいいよ、泉が濡れるでしょう」
「……私車だから、送っていくよ」
と言うので、私たちは泉の車に乗り込んだ。
「車買ったんだ?」どう見ても新車だった。
泉は、「そう~、満員電車嫌だからね」と嬉しそうに言った。
あ、飴食べる?と、続けて泉は居酒屋の会計にあるミントの強い雨をくれた。
峠道に差し掛かってワイパーが一層激しく、窓についた水滴を散らす。
強い雨音のなかで、泉の声がやけに響いた。「私たち、泉の音楽づくり大好きだったよ。きっといっぱい勉強して、今はもっと素晴らしいんだろうな。」
いつか聴きに行くから、と泉の微笑む横顔を見ていた。私は傘と服も顔も雨でびしょびしょだった。
「毛虫」 by 小雪 @diamd_ (お題バトル0516参加作品)
【使用したお題】
空、日本語、隕石が堕ちる、低気圧、愛
私は毛虫を殺した。最初は気が付かなかった。アスファルトを踏みしめた足に、少し違和感を覚えて、靴裏を見ようと思ったのだ。持ち上げるとき、ニチャァ――と液体が吹き出る音がした。白と緑色のマリアージュ。なるほど、抹茶ラテが靴裏にこびりついていた。良く見ると、細い毛が付着している。――ああ、日本語か、と無意識に感じた。いや違う。これは毛虫だ。春の、桜の花びらがひらひらとこぼれ落ちる春の日に、枝から足を踏み外した毛虫を、私は踏んだのだ。
「うわぁ、きったないな」
私は家に帰って、靴の裏を洗う自分の姿を想像した。抹茶ラテの毛虫の潰れた死骸がこびりついた靴を、腕いっぱいに伸ばして掴み、風呂場でそれを洗うのだ。シャワーをいっぱいに出して、自分の身体に抹茶ラテが付かないように、それを排水溝に流す。毛虫の部品はバラバラになって、水流に乗った。きっと、部品の一本一本はパイプを通り、下水道に流されて、アメーバやらなんやら、浄化作用のある単細胞生物たちに分解される。そして――川に流され、雄大な下流域を通り、海に放出されるのだ。――ふと、海のことを考える。考えた海には、毛が生えていた。
私は、鞄を探る。歩くたび、靴の裏がニチャニチャと音を立てている――気がする。実際は立っていないに違いないが、私の目の奥では鳴っていた。ニチャ、ニチャ――私は空を見上げる。青空――きれいな青空だ。舞い落ちる桜色と――桜を桜色と表現するのはいささか抵抗があるが――突き抜けるような青空とのコントラストが美しい。
私は両手を広げた。春の日差しが温かい――向こうに見える山の輪郭に、白く細長い雲がこびりついていた。私はまた毛虫だと思った。気分が悪くなる。アア――気分が悪い。私は視線を前に戻した。横浜の雑踏は、あまりに目に悪い。車から排気ガスがとめどなく流れだしている。私は、すぐに帰ろうと思った。アスファルトを踏みしめる。ニチャァ――再び音が鳴った。
ニチャ、ニチャ、ニチャ。
私は立ち止まって、鞄を探る。今日、大学でもらったプリントがざっくばらんに――ところどころ角が潰されて――入っていた。もちろん、私が急いで入れたのだ。恐ろしいほどのプリントを貰った。
オリエンテーションだったのだ。学部の、色んなゼミの先生が、色んな方法で、わちゃわちゃと自分のやっている研究のことなどを喋っていたのだ。正直よく分かんなかった。考えてみて? 小学校、中学校、高校と、受験受験受験受験と、世間の耳も欠かさず、ひたすら国語数学英語理科社会――あと英語と、ずっとやらされてきた人が、今更、何学のなんだと、これが世間の役に立つって言われて、分かるものですか!
おまけに、なんか余裕そうな顔をして「私どものゼミに入るには、これこれこういう学生が望ましい」とか言うんだから。知らないよ。大学の募集要項に書いとけや、バカ。しかも、その「これこれこういう」の部分が、全く知らない日本語だったんだから、まあ――ほんとね。なるほど、夢の大学生活に憧れて、いざ入ってみれば、知らない日本語に叩きのめされる。
私は本当に疲れてしまった。あんなオリエンテーションみたいな話し方をする学者ばっかりだったら、これから四年間どうしようかなって。
ニチャニチャと音を立てながら、私はようやく駅に辿り着いた。この駅は、都心からは遠いが、地方の中でも栄えている部類の――なんといっても駅前にイオンがあったのだ――駅だったので、外回りのサラリーマンやお茶会帰りの主婦、これから遊ぶらしい高校生、そして私のような――オリエンテーション帰りの大学生がホームに犇めいていたのだ。そして――私は、彼らの靴の裏を想像した。彼らも何かを踏んでしまっているのではないか――毛虫や犬の糞、しなびたポテトフライにおばあちゃん。彼らの靴の裏も、きっと持ち上げればニチャァ――と言うに違いない。
私は、彼ら一人ひとりが、家で靴の裏を洗う姿を想像した。毛虫や犬の糞やしなびたポテトフライやおばあちゃんがパイプを通って、海に放たれることを想像した。
海は雄大だ。全てを包み込むおおらかさがそこにある。私の町も――決して近くはなかったが――、海にまつわるお菓子をお土産にして売っている。そして、観光客はそれを買う。海など見ていないはずなのに――海という言葉を見て、いいものだと思って買ってしまう。海の器は広かったのだ――だから犬の糞やおばあちゃんが混ざってもあまりに気にならないのかもしれない。
私は、これからできるであろう友達と、海水浴に行く予定なのだ。しかし――友達は本当にできるのだろうか。ううん――今日、隣に座っていた子を見た感じ、慣れそうになかった。彼女は、目玉をギョロギョロとして、ゼミの教授の顔を見回していた。そして、もらったプリントに、言われたことを一言一句書き留めていたのだ。学者が「私の研究室では今、隕石が堕ちるように忙しいのです、はっは」とギャグにならないギャグを口にしたのを書き留めたのを見たときは、びっくりした。恐ろしい。話しかけるのやめよって思った。きっと彼女の顔はずっと覚えているだろう――彼女のおかっぱ頭と、水色のドットのトレーナー。ダサイ。クソダサイ。私の方がオシャレ。しかし――彼女は毛虫を踏まなかっただろう。私は――靴裏に毛虫をひっつけている。やっぱり、私の方がダサい。私は、ギャグにならないギャグを書き留めるだけの、エキセントリックさを持っていない。私は――学生失格である。
本当は、この大学に隕石を落とさなければならないのだ。桜の枝の木の上から、隕石を。ここの学生みんなに、隕石を踏ませなければならないのだ。だけど――私にはできなかった。私は、家に帰って、靴裏を掃除したかった。もう、ニチャ、ニチャは嫌なのだ。嫌なのだ!
海に放たれた毛虫が、蒸発した。やがて、空気中に毛虫が飽和し、高気圧を生み出す。高気圧は――そのまま低気圧に流れる。低気圧はやがて大きくなり、熱帯低気圧――台風へと進化する。台風は、無事日本を直撃した。毛虫が反逆したのだ。私たちは――あまり毛虫を蔑ろにしたから――愛がなかったから――ギャグにならないギャグを書き留めなかったから――隕石が堕ちなかったから――日本語を――愛せなかったから――台風が、私を直撃するのだ。ニチャァ――ニチャァ――と音を立てる。私は電車に乗った。窓の外には、青空が広がっていた。山には相変わらず、毛虫の雲が乗っかっていた。あの雲が――やがて台風になるのだろう。私は――早く帰りたい。
「開発者」 by あかいかわ @necokiller (お題バトル0516参加作品)
【使用したお題】
日本語、隕石が墜ちる、低気圧、峠道、愛、金平糖、ワイパー、空、飴、雨
弟が部屋の片付けをしているあいだ、邪魔になるのでわたしはベランダに出てタバコを吸いながらなんてことはない景色をながめていた。重いものを運ぶ音、叩く音、引きずる音、掃除機の音(掃除機なんてこの部屋にあったんだ)、とにかくひっきりなしに音がつづいて、べつにうるさいとは思わなかったけど、それまでの総じて無音な生活との違いに違和感を覚えていた。
雨の匂いがしていた。低気圧特有のだるさもあった。日はまだ沈んでいないはずだったけれど、湿度を含んだ闇がぽってりとのしかかっていて、いつ降り出してもおかしくはなかった。分厚い動きのない鈍い雲が天を塗り込めていた。だからその、光の筋は見落としようもなく空をふたつに分割する瞬間をわたしに示した。
どっかーん。わたしはつぶやいたけれど、音はなにも聞こえなかった。
しばらくしてガラガラと窓を開け、弟が顔を見せた。掃除、終わったよ。懐かしい日本語の響きにも違和感を覚えてしまう。すでにわたしの耳のデフォルトはマレー語になっているのだといまさらながらに気づく。ほいよ。タバコをもみ消して返した返事が、果たして日本語なのか、どうか、わたしにはいまいち確信がもてなかった。
部屋は見違えるほど片付いていた。ひょっとして、入る部屋を間違えたのだろうか。くしゃくしゃの下着が転がってもいないし、灰皿代わりの空き缶もない。すげえや我が弟よ。あの短時間によくぞここまで。わたしはベッド脇の棚に飾っていたドロップ缶から飴玉をふたつ取り出して、ひとつを弟に差し出した。好きな方を取りなね。弟は白のハッカ味をつまんで口の中に投げ入れた。それ、わたしが欲しかったほうなのに、という言葉を飲み込んで、何味かわからない赤い飴玉をわたしは口に含んだ。ハッカの味が恋しかった。
ちょっと座ろうか。弟は口のなかで飴玉を転がしながらすこし改まった声でいった。年下のくせにその言葉にはそこはかとない威圧感があって、わたしはいわれたとおりベッドに腰をしずめる。弟は手近なクッションを引き寄せて、床に座った。いつ帰るのさ。端正な顔でこちらを見据え、我が弟は尋ねる。もう父さんも母さんも何度も呼びかけているけど、姉さんぜんぜん返事しないじゃないか。ふたりとも心配している。このままじゃ、いつ飛行機が止まるかもわからないんだ。帰っれ来られなくなる前に、早く決めてほしい。
何度もいっていますけれども。わたしは意図的に口のなかの飴玉をカチャカチャいわせ、反面丁寧な言葉づかいで答えた。わたしはもう日本へは帰りません。ここで暮らすのです。もう決まったことなのです。
べつにここに戻るなというわけじゃない。弟は苛立ちを隠さない表情で反論する。ただ、いまの情勢ではなにがあってもおかしくないんだから、一時的にでも帰ってきてほしい。そういうことなんだよ。事態が収まれば、戻ればいいんだから。姉さんだって、報道を見ていないわけじゃないんだろう?
わたしは明日の報道を予言するよ。人差し指を突き出して、わたしはまじめな顔でいった。マレー半島に隕石墜ちる。金平糖のようなお星様がひとつ、山のなかに落下しましたとさ。
馬鹿。さすがに呆れたように、直接的な言葉で弟はいう。茶化さないで、まじめに答えてくれよ。
わたしがまじめじゃなかったときなんて、いちどもない。わたしはなかばにらみつけるような目で弟を見つめた。あんたをひっぱたいたときも、日本を発つときも、わたしは全部まじめだったよ。
それにさっき本当に隕石が墜ちたんだよ。唇を噛んで表情を暗くする弟を、ちょっとだけ慰めたくて、わたしは言葉を足した。本当に? 弟は疑いつつもそう尋ねる。本当に。わたしは自信たっぷりにそう答える。
そしてわたしたちは隕石を確かめに行くことになった。
* *
車に乗るとほぼ同時に雨が降り出した。ポツリ、から始まって滝のような豪雨に至るまでの時間の短さが実に東南アジアという感じ。ワイパー最大出力でテンションもあがって、わたしたちは出発する。安全運転でね。なかばあきらめたような弟の声がか細く聞こえる。
市街地はすぐに山道へと入る。曲がりくねった道をドリフト気味にこなすたびに弟が悲鳴のような声を上げる。でもじきに道幅は広くなりカーブの数もすくなくなって、弟はゆっくりと落ち着きを取り戻していった。
隕石はどのあたりに墜ちたの? 体の緊張は維持したまま、声だけは平静を装って弟は尋ねた。もうひとつ先の山のあたりと思う、とわたしは根拠のないことをいう。とりあえず、近かったよ。弟はちいさく咳払いをしたあと、でも音はなにも聞こえなかったけどな、とちいさくつぶやく。
最新兵器なのではとお姉ちゃんはにらんでいるよ。冗談めかしてわたしは口にする。我が機械兵士軍の秘密の最新光学殲滅兵器。光に包まれると人は死ぬ。爆薬ではないので、諸々の条約違反にはならない。ハッピー。
息を止めて、弟はわたしの顔を見る。
ワイパーが叩きつける粒の大きな無数の雨を払い落とす。
姉ちゃんのせいじゃない。押し潰すような声で弟はつぶやく。機械兵士の反乱はただのバグだ。人為的な原因じゃない。姉ちゃんはただ自分の仕事をこなしただけで、それは基本的にな人間生活を豊かにするためにやったことだ。悪いのは、それを悪用したやつらだ。姉ちゃんの開発した環境保全型思考システムは、機械兵士に組み込むべきものじゃない。そんなあたりまえのことを無視したやつらがいる。そこから不測のバグが発生した。そのことについて、姉ちゃんが責任を感じる筋合いなんて、ひと欠片だってないんだ。
マレーシアはいいところだよ。わたしはできるかぎり緩んだ声をつくってそうつぶやく。植物の色が濃くて、花も面白いのがたくさん咲く。ついつい写真に撮っちゃうんだ。ここにしか咲かない珍しい花もたくさんある。週末は、そういう植物園に遊びに行くととても心が晴れるんだよ。
姉ちゃん!
機械兵士は敵じゃない。わたしは静かな声でそうつぶやく。バグがあったとしたら、それをなんとかできるのは、開発者。当たり前のことなんだよ。あんたたちがわたしを心配してくれるのはすごくわかる。愛だ。家族愛だ。それに応えられないことはとても心苦しいよ。でもね、別の愛もある。わたしは自分の生み出したものが、不幸になることに耐えられない。悪用されようとなんだろうと、あの思考回路はわたしの作品なんだ。作品であり、子どもなんだ。そこには愛がある。わたしはあの子たちのことも、守ってやりたいんだよ。
車は峠に差し掛かった。その先に、もうひとつの山が見えるはず。さて、わたしの子どもである機械兵士たちが放った最新の殲滅兵器の実力や、いかに?
愛してるよ、あんたのことも。嗚咽をなんとか押し殺してなく我が弟に、わたしはささやく。涙をこらえよう。この先わたしたちをどのような未来が待ち構えているとしても、わたしは涙なんて流さずに、愛を絶やさずやってやるのみ。


