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僕が生きていく世界

人と少しだけ違うかもしれない考え方や視点、ぐるぐると考えるのが好きです。 あくまで、僕個人の考え方です。 みんながみんな、違う考えを持っていていい。 いろんなコメントも、お待ちしてますよ。

嵐のあとのさびしさ

ひび。 おもい。

たとえば自分のつくった居場所で、楽しんでくれる人がいると、

とてもとても満たされた気持ちになって、ああ、僕が生きてきたことに、
たぶん、意味があったんだな、なんて思ったりする。
自己承認欲求が満たされる、ということだと思うし、
文字通りの「自己満足」とも言える。

大げさに言えば、世界や未来に、僕の存在がほんの少しでも、
貢献できたような気分。
この瞬間のために、これまでの人生があった、
ここにつながっていたんだ、と思うような気持ち。

昨日、僕が我が家で開いたイベント、「煉's Bar」は、
昨日で14回目、参加者延べ人数で100人以上になって、
まさしくそういう居場所になった、という実感がある。
ここに来てよかった、出会えてよかった、
ここではほかのどこでも話せないことが話せたよ、
と言ってくれる人がいる。
ずいぶん前の煉's Barに参加してくれていた人が久しぶりに来て、
前に参加してから、生き方が変わってきたんですよ、
ももう少し心を開いて人と付き合ってみようと思うようになりました、
なんて言ってくれたりもした。

イベントが終わるといつもぐったりと倒れ込んでしまうほどに
疲れているけれど、不思議な達成感に満たされて、
奥さんと目を合わせて笑い合ったりしている。

でもね、その翌日とかには、すごく寂しい気持ちにおそわれるんだよね。
ぐったりして、自分に自信がなくなって、
みんなの反応を必死で調べようとしたりしちゃう。
もともと僕はそんなに行動的でもポジティブでもないのに、
「優しくてかっこよくて頼りになるお兄さん」を演じた反動で、
翌日に無気力かつネガティブになるのかもしれない。

逆に、これだけがんばったんだし、もっともっとほめられたい、
めちゃくちゃに甘やかされたい、なんて思って、
他人の反応について、理不尽に腹を立てたりする。
「自分のやってきたことが認められた!
つまりは、正しかったと証明されたんだ!」と思いすぎて、
気が大きくなって、自画自賛や自己正当化をしたり、
周囲に対して傲慢になっているなぁと思うこともある。

僕は根本的に自己愛が強いし、認められたい気持ちが強いから、
放っておくとどんどん自己正当化しがち。
そういうときこそ、自分で自分の制御を心がけないとな。
わかってくれる人がいるなぁと実感すると、
「わかってくれる人だけわかればいい」と思いがちで、
確かに世間の人の心ない雑音から身を守るために、
そういう考えが役に立つことはよくあるけれど、
でも、使いどころを間違えてはいけないな。


そんなわけで、昨日のイベントのふりかえり。
反省するところもあるけれど、かけがえのない居場所をつくってきた、
そのことはとても、誇らしい。

 

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家族もふるさとも、自分でつくる。

おもい。 しゃかいについて。 ぼくの豊かな生活。

結局のところ、僕がたどり着いたのはそういうことなのだ。

道に迷ったとき、自信がもてなくなったとき、ただ静かに泣きたくなったとき。
無条件に、何も求めずに、受け入れてくれる存在。
「家族」と「ふるさと」は、そういう人と、そういう場所だといいなと思う。

ところが、ふつう、ふるさとも家族も、自分では選べない。
生まれたとたんに、それは決まってしまうのだ。
自分がいちばん心地よくいられるためのものを、自分で選べないだなんて!
しあわせな人生を送れるかどうかに関わる大きな要素が、
自分の行為とは関係ない運次第、なんてのは、僕はいやだ。

だから僕は、それを自分で選びたい、と思った。
血縁とか、法律上のこととか、そんなことはどうでもいいんだ。
ただ自分の五感を使って、自分の頭で考えて、
心地よい人がいる心地よい居場所を、自分でつくっていく。

「家族をつくる」と言えば、すぐに結婚と子供を育てることが思い浮かぶけど、
そればかりに囚われる必要はないよね。
僕には、結婚相手ではないけれど、同じくらい大切にしたい人が何人もいるし、
自分の子供ではなくても、しあわせな未来を祈りたい人たちもいる。

「ふるさと」だってそうだ。
子供の頃は見えている世界が狭いから、
自分に合った土地なんて思いつきもしないけれど、
大人になって少しずつ広い世界を見たうえで、
「こんなところで、こんな生き方がしたい」というイメージを実現できる場所を、
みんなが自分で探せるようになったらいいな。

新しい家族や、ふるさとをつくるからといって、
元々の家族や生まれ故郷を捨てる必要はないしね。
今までの自分をつくってくれたそれらへの感謝はもったままで、
だけど自分がこれから生きていく場所は、自分でつくる。
時代は変わるし、親と自分は別の人間だし、
理想とする生き方が違うことは、過去を否定することでは決してない。

人は、いつからでも生まれ直せる。
新しくふみだしたそのときが、あなたの誕生日だね。

電子読書のススメ~「本はあまり読まない」という人へ

ガジェットとか。 ぼくの豊かな生活。 おすすめ

 

 

Kindle Paperwhite Wi-Fi、ブラック

Kindle Paperwhite Wi-Fi、ブラック

 

 

いろいろなところで電子書籍が好きなことを表明している僕だけど、

今回はあえて「ふだんあまり読書をしない」という人にむけて、
読書の楽しみを手軽に知るための手段としての電子読書をオススメしてみたい。
(ここでいう「読書」はマンガ以外の、文章を主とする本を読むことを
想定している。)

いろいろな人と話してみると、現代において
「よく本を読む」という人は意外に少ない。
僕の感覚だと20人に1人くらいかな……。
僕も決して読書家ではないのだけど、子供の頃から本を読み、
想像することはとても好きだ。
もちろん、趣味は人それぞれでかまわないし、
興味ないことを無理にすすめる必要はないけど、
本を読む楽しさについて共有できる機会が少ないのはちょっと寂しい。

文字だけしかない本を読んで楽しむのって、確かにちょっとコツというか、
慣れが必要だと思うから、「何年も本を読んでいない」という人が、
ごくたまに本を読んでみようと思うとうまく読み進められなくて、
なおさら本と疎遠になってしまう、ということはよく分かる。
様々なエンターテイメントコンテンツがあふれる現代において、
本というものが相対的に「割高」に感じるという気持ちも、わからなくはない。
「読書をする」ことへの入口がもっと手軽なものになれば、
読書を楽しむ人が増えるのではないか。そうなったらうれしいな。

あらためて強調したいのは、電子書籍はものすごく「手軽」だということ。
つまり、ふだん本をあまり読まない人への入口にぴったりだと思う。

電子書籍の「手軽さ」は、
1.お金
2.時間
3.機会
4.空間
の4つの面で、紙の本より優れていると思う。
これについて、ひとつずつ語っていきたい。


1.「お金」――電子書籍は安い!

そう、電子書籍って安い。
普通の書籍は、日本独特の「再販制度」という仕組みによって、
安売りできないことになっているから(ごく一部のバーゲンブックは除く)、
何年も前に出版された本でも定価で売られている。
もちろん、中古本はその限りではないけど、
中古本のネックは、作った人には一円も入らないってことなんだよなぁ。
好きな作品を書いた人にいっさい応援にならないというのはなんだかとても虚しい。

一方で電子書籍はそもそも定価が紙の本より1割ほど安いことが多いし、
出版社やAmazonのキャンペーンで30%とか、すごいときには80%とか、
大幅な割引やらポイント還元をしている。
しかもどうやらああいうキャンペーンで下がった利益については出版社持ちで、
著者にはちゃんと、定価で買った場合と同じだけのお金が入るようなのだ。
これはうれしい。
実際、僕が電子書籍でもっている本は150冊くらいあるけど、
新品の紙書籍で買った場合の6割くらいの価格で手に入れているんじゃないかなぁ。

「でも、電子書籍を読もうと思ったら電子書籍リーダーが必要なんでしょ?
お金かかるじゃん」
と思う人がいるかもしれないが、いやいや電子書籍スマホでも読める。
マンガや雑誌以外の、文字がメインの本なら、
スマホの画面で読むのは想像以上に快適だ。
(漫画や雑誌は、スマホだと小さいなーというのが個人的な感想。
これで十分、っていう人もいるだろうけど、そのへんは人それぞれかな)
このブログを読んでいる大多数の人はスマホをもっているだろうから、
電子書籍デビューに必要なのは無料アプリのダウンロードと、本代だけだ。


2.「時間」――読みたいと思った3分後に読める!

これについては、みんなよく知っていることだろうと思うけど。
ある本を読みたい、と思ったときに、それにたどり着くまでには結構かかる。
Amazonなどのインターネット書店で注文すれば、翌日か、あるいは2日後くらい。
とはいえ、受け取りのときに家にいないといけないし、すれ違いも結構あったり。
書店に買いに行けば待たなくて済むけれど、これだけ大量の本があふれる中で、
書店に必ず目当ての物があるわけじゃないし、交通費も労力もかかる。

そう考えると、クリックしてダウンロードすれば
すぐに読めるってのはやっぱりすごい。
読みたい気持ちを維持するのってけっこう大変だから、
読みたいと思った時点から読み始めるまでに間があると読む気をなくしてしまって、
結果として届いたのに開くこともなく、積読が増えてしまう、
なんてこともあるよね。
もちろん、便利だからって、買い過ぎには注意!だけど。
たとえばKindleコンテンツなら「サンプルダウンロード」という機能があって、
ある程度の試し読みが可能だし、それなりにじっくり選ぶこともできるから、
心配なら買う前にかならずサンプルを読む習慣をつければ、
無駄買いも減らせるかもね。


3.「機会」――読む機会が増える!

個人的にいちばん重要だと思っているのはここ。
どんなときにも一冊以上の本を持ち歩いていて、電車でもカフェでも、
時間さえあれば本を取り出して開く、というほどの本好きならともかく、
僕程度の「中途半端な」本好きは、「本を読みたい」と思う気持ちに波がある。
毎日の通勤時間にしたって、、
ハードな仕事を終えて疲れているときや、なんとなく眠いとき、
ゲームをしたいとか音楽を聞きたい気分のときなどなど、
特に本を読みたくならないときだってけっこうある。
「あまり読書をしない」と自認している人ならなおさらだろう。
いくら本を読もう、と思ったところで、毎日必ず読む、
なんてことはきっとできない。
そうなると、「今日読むかどうかわからない本」をつねに持ち歩いておく、
っていうのは、結構な負担になる。

何の本を読むかにしたって、
「一冊読みはじめたら読み終わるまでは他の本には目もくれない」
というストイックな人ばかりじゃないだろう。
僕も、読みかけの本がいくつもあって、ひとつに飽きたら違う雰囲気のを読んで、
それに飽きてまた最初のに戻ってきて……なんて読み方をしている。
数時間後に「この本が読みたい!」という気分になるかどうかは、
自分でも予測できないから、
「読みたくなるかもしれない本」を全部つねに持ち歩いていないと、
ちょうどいいタイミングでの読書はできないことになってしまう。
読みたい本は家に帰ってから読めばいいじゃないか、と言われても、
家に帰るころには、読みたい気持ちはなくなってしまうこともよくある。

電子書籍はつまり、「読みたくなるかもしれない本をすべて持ち歩く」
ということができるのだ。
いつも持ち歩いているスマホに、
「読みかけの本」または「次読みたいかもしれない本」を、
あわせて4~5冊くらい入れておく。
それだけで、「読みたいときに読めない」という機会損失をなくすことができる。
これって、読書を負担なく続けるうえでものすごく大事なことだ。


4.「空間」――電車で、座れなくても読める!

これはオマケだけど、スマホで本を読む利点がこれ。
スマホは片手で持てるし、ページをめくるときも
画面を軽くタッチするだけでいいから、
電車で、片手でつり革につかまりながらでも読める。
Kindleのような電子書籍リーダーでもだいたいできる。
大きな画面のタブレットだとちょっときついかもしれないけど)
紙の本も文庫ならできなくはないけど、片手で持ちながら読むのはかなり難しいし、
ページをめくるたびにつり革から手を離さないといけない。
これも「読書の機会損失」を減らすためには重要。
満員電車でかばんの中の本が出せず、
ああ、読みたいなーと、歯がゆく思いながら電車に揺られる、ってこと、
意外とあるもんなぁ。


そんなわけで、電子読書がいかに「手軽か」を伝えてきた。
僕が言いたかったのは、
読書への苦手意識をなくすのにだいじなのは
「読み始める、読み進めるハードルを下げること」だから、
電子読書はぴったりだよ、ということ。
ものすごくたくさん本を読む読書家、じゃない人にこそ、おすすめといえる。

まずはスマホアプリで試してみて、もっとたくさん読みたい、と思ったら、
目が疲れない電子ペーパー電子書籍リーダー(Kindleとか)を
買えばいいと思うよ。
とくに本を読み慣れない人なら、短編から入ったらどうだろう。
KindleにはKindle Singlesという、本にすると100ページにも満たない、
短編~中編作品ひとつだけを100円くらいで売るコンテンツもあって、
これならより手軽に「一冊読み終えた!」という達成感を得られるからおすすめ。

 

 

「若者の○○離れ」は、「要らないものは要らない」ことに気づいただけ。

ぼくの豊かな生活。 しゃかいについて。 ぼくの倫理。

よく、ネット上で「若者の○○離れ」というのが話題になる。
高齢者を喜ばせるためだろうか、テレビ番組などではたびたび
「若者の○○離れ」というのが話題になるらしい。
曰く、最近の若者は楽しみ方を知らず、消費行動が内向きで、元気がない。
だから「一流の大人」なら喜んでするはずの○○をしない。
これは若者の○○離れである、と。
○○には、大抵の場合、「かつて誰もが欲しがったとされるもの」が入る。
例えば、車、マイホーム、お酒、(高級品を売っている)百貨店、別荘、宝石、お酒、海外旅行......。
はては、「結婚、恋愛」なんてものまである。

こうした報道を受けて、比較的若者が多いと思われるTwitterなどのSNSでは、
「若者が好きで離れてるんじゃなくて、単にお金がないだけだろ」
「明らかに賃金が下がっている時代に、『贅沢をしない若者は元気がない』だなんてバカにしている!」
といった具合に、「若者の○○離れ」という言葉に対する批判的な反応が吹き荒れる。

僕としても基本的には(批判的な意見の方に)賛成なのだけど、
とはいえむしろ、「若者の○○離れ」って、いいことなんじゃないか、と僕は思う。
そもそも「かつて誰もが欲しがったとされるもの」というのが気持ち悪い。
営業だった頃の上司にバブル時代に自慢をされたことがあって、
「あの当時は、キャバクラで飲み歩いて、ドンペリもバンバン開けて、一晩で一人30万使ったりした」
とか言われたけど、少しもうらやましいとは思わなかった。ドンペリがかわいそう。
高級車も、車大好きな人が目を輝かせて買うのはとてもいいと思うんだけど、
周囲から一目おかれるためにとりあえずベンツを、みたいなのにはまったく引かれない。
僕がベンツをプレゼントされても見た目が好みじゃないからマツダのベリーサと交換したい(笑)。

お金を持った人が次から次へと高級品を手に入れたがるのって、
それが楽しくてやっているというより、しあわせを目に見えるかたちにしないと不安だから、
ということのように見える。
モノだけではなくて、「恋愛」「結婚」なんかもそうで、
「モテモテの俺」とか「イケメンと結婚して勝ち組の私」みたいに、
計量可能な「しあわせ」のかたちを手に入れないといけない、ということではないかな。
バブル時代に特に強調された競争原理がそういう気持ちをあおっていたのかもしれない。
その時代に生きていないので、詳しいことはわからないけれど。

だから、
かつて「誰もが欲しいと思わされていたもの」に関して、それを知らない若者たちは、
「要らないものは要らない」という当たり前のことを知っていて、
それが「○○離れ」と言われているっていうことじゃないだろうか。
だとしたらそれっていいことだよね。
むしろ「○○離れ」できない人たちは「○○依存」だったりするのかもね。

 

過去でも未来でもなく、今を生きる。

おもい。 しゃかいについて。 ぼくの倫理。

どうしてだろう?世の中には、「未来」や「過去」を優先して、
いちばん大切な「今」を蔑ろにしているように見える人が、たくさんいる。

「未来の安定をめざして今は我慢する」と言ったり、
「過去の責任があるから今は仕方ない」と諦めたり。
「今を一番大切にして生きる」と言ったら、「そんな刹那的な生き方ではダメだ」と言われてしまったり。

過去は「歴史」で、未来は「空想」、そして今が「現実」だ。
歴史や空想は、現実をよくするためのスパイスとして使うのはいいけれど、
歴史や空想を第一に考えて現実を縛るのは本末転倒だろう。

過去のために生きる人は、いつも不満を抱えている。
「仕方ない」という言い訳でしか、今を肯定できないから。
未来のために生きる人は、いつも不安を抱えている。
今の「我慢」が、報われなくなることが怖いから。

過去のことをないがしろにするわけじゃない。
だけど、過去は「更新していくもの」だと思っている。
大事な思い出や、いつかの決意や、交わした約束は、
しょっちゅう取り出しては、持ち続けていくべきものかどうか、
まっさらな気持ちで点検してみる。
それが自分を制限するものになってしまっていたら、
その場所に置いていってしまえばいい。

未来に対して見ないふりをするわけじゃない。
だけど、「未来の自分の位置をイメージし、そこから逆算して行動しましょう」
なんてことは、できる気がしない。
それは、未来の自分が今と同程度の視野と思考しかもっていないことを前提にしている。
だけど、今を積み重ねているうちに、自分の視野と思考は、今よりも広がっているはずだ。
未来においてありたい自分は、今の自分にはイメージできないと思うんだ。
はっきりとした像ではなくて、未来において進んでいたい漠然とした方向だけ決めて、
常にコンパスの向きだけは確認しながら選択していく。
「未来の自分の位置」へは、最短距離で行かなくたっていいんだから。

「今から目をそらさずに生きる」
新しい選択を目の前にしている今、この言葉を心に刻む。

2016→2017

おもい。 ひび。

あけましておめでとうございます。
今年も無事、新しい年を迎えることができました。
日常からちょっとだけ離れた年始のこの時期に決意じみたブログの記事を更新するのが、
ここ数年の恒例になっているので、今年もキーボードを叩いてみることにしてみました。

去年の記事は、

 

fuduki-ren.hatenablog.jp

 

なかなか威勢のいいことを言っているなぁ(笑)。
ここで予言しているとおり、2016年は「仕事は一応安定しているけれど退屈」で、
何か他のところでやりがいを手に入れようと頑張った年ではありました。
「他のところ」とは具体的になにかと言えば、「居場所を作ること」「人とつながること」。

 

2016年はかけがえのない愛しい人との出会いがたくさんあった年だった。
具体的に言えば、新しい恋人が三人もできました。
2016年の出会いは、それまでのものとは質が違っていて、
最初から建前や探り合いがまったくなくて、心のとても深いところがいきなり共鳴し合うような、
まだ出会って日が浅いにも関わらず、
これから深く長く付き合っていけると確信してしまうようなものだった。
こういう出会いがあったことはきっと偶然ではなくて、ここに至るまでに僕が、
ブログやTwitterで、自分を偽らずにさらけ出してきたことが実を結んだってことなのかな。
それから、一年前の記事で宣言したように「やるかやらないか、迷ったらやる」というわけで、
自分で、きっかけとなった出会いから一歩踏み出して、大事な人とつながることができた。
その結果、今日のこのしあわせな気持ちがあるのだから、
「2016年の僕、よくやった」と褒めてあげたいと思うな。

一方で、2016年に離れた人もいる。
けっこう大きな別れが、いくつかあった。
でもそれは、僕が僕自身の「ありたい自分」「居たいところ」を、
これまでよりも具体的に感じられるようになって、
一緒にいることが困難な人、近すぎると傷つけあってしまう人と、
ちゃんと距離を取ることができるようになったということなんだと思う。
その証拠に、離れたらすごく肩の荷が下りたようになって、
自分のまわりにいる人たちを大切にしたいという気持ちがより強くなった。
一年前よりも確実に、僕のいる場所がより居心地のいい場所になってきていると言える。

 

そういうわけで、2016年は僕にとって、とてもたいせつな、愛おしい年になった。
だから今年の目標は、新しいことを求めるんじゃなくて、
今、僕の「手の届く範囲」にあるものを、ひとつひとつ丁寧に慈しむような、そんな年にしたい。
まぁそんなことを言っても、飽きっぽい僕はやっぱり「変わらない日々」には耐えられなくて、
新しい変化のための、準備を進めていたりもするんだけどね。

一年後の僕がどんなふうに思っているかなんて、想像もできないけれど。
僕と僕の大切な人たちが、楽しく過ごせているといいなぁ。

性的なことを、明るく安全にしたい

おもい。 からだとこころ。 しゃかいについて。 ぼくの倫理。

最近かなり真面目に考えていることのひとつに、「性欲をもてあました人が、安全にそれを解消するにはどうしたらいいのだろう」ということがある。
僕自身の話ではなく、社会としてね。
これは、笑いごとでも恥ずかしいことでもなくて、とても大事なことだと思う。

少なくとも現在の社会では、そういうのは笑いごとや、恥ずかしいこととして扱われがち。
本当に悩んでいる人が、ひたすらにそれを隠すしかない、という風潮になってしまっている。

誰にも言えないで困っているけれど、実は、ずっと性的なことがしたくてしたくてつらいと思っている。ってことは、本当はたくさんあるのだろうな、と思う。

男の人はまだしも風俗とかそういう手段があるけど(だけどそれにもかなりハードルはある)、女の人はリスクとか世間の目とか、本当にきついと思うんだよな。

性欲をもてあましているのは、いわゆる「軽い人」や「遊び人」であるとは限らない。
そうではないからこそ、自分のその感覚を否定したくてつらい、という人も多いんだろうな。

僕としてはそういうのをね、後ろ暗いことなく、ぜんぜん悪いことじゃないよ!と言って、
「明るく楽しく気持ちよく安全に」、解決できるようにできたらいいなぁ、と思うんだよね。


「性欲を解消するだけならオナニーすればいい」という意見もあるかもしれないけれど、
性欲って、オナニーで解消できるものではなくない?
あれは排泄であって性的行為ではない気がするぞ。
やり方次第かもしれないけど……。
そのへんは、男女でも大きく違う気がする。

「性欲」とされるものの中にも、いわゆる「射精欲」みたいなものだけじゃなくて、人肌欲とか、大事に扱われたい欲とか、その他、さまざまなものが混じり合っているんだろうな。

さらに言えば、「セックスとは何か」ということが、人によって違いすぎることも、問題を深くしているんだろうな。
愛情表現だったり、楽しいエンターテインメントだったり、契約のための儀式であったり、欲を解消するためのやむを得ない行為だったり、その他いろいろ……

単純に「明るく楽しく気持ちよく安全に」やるには、付随するめんどくさい事柄が多すぎて、がんじがらめになっているのが実際なんだと思う。

どうするのがいいのか、簡単に答えは出せないけれど。
まずはこういう話を、できるようになることから、かな。