読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

僕が生きていく世界

人と少しだけ違うかもしれない考え方や視点、ぐるぐると考えるのが好きです。 あくまで、僕個人の考え方です。 みんながみんな、違う考えを持っていていい。 いろんなコメントも、お待ちしてますよ。

仕事に関するつぶやきまとめ。

最近のつぶやきから、仕事に関するものをピックアップして、並べてみる。

ちょっと脈絡がないけれど、考える種になりそうなものばかり。

 

 

仕事には、「やらなきゃいけないこと」「やった方がいいこと」「やった方がいいかもしれないこと」があると思う。
企画とか営業みたいな仕事だと、特にその差が顕著で、その割合は1:100:1000くらいなんじゃないかと思うんだけど、「やる気のある人」は、それを1101個全部やろうとしてしまう。
僕は体力がある方じゃないから、できるのはそのうちせいぜい100個しかない。
そして僕ががんばるべきは、100個を1000個に増やすことではなく(そんなことしたら潰れる)、「やらなきゃいけないこと」を見極めて決して落とさないようにすることだ。
そのためには100個を30個に減らしたっていい。
「やる気のある人」だらけの環境の中で、「やった方がいいかもしれないこと」に関して、それは優先順位が低いからやりません、と宣言することは、とてもきついことだ。
でも、それができないと少なくとも僕はいい仕事をすることはできない、と経験からわかっている。
経験によって仕事ができるようになる、ということは、自分なりの成長の道筋を理解することなのかもしれない。あ、このやり方では僕は伸びないな、と自覚することも大事。


僕はそもそも、社会にあまりうまく適合できない方で、だからこそ、試行錯誤を繰り返して、まっすぐではない道のりを歩きながら生きている。
でも、僕みたいに「平凡」を選べない人は「非凡」を目指さないといけない、ということになってしまうと、ちょっとつらいな。
今の僕の立場は、既存のシステムが出来上がっている役所に乗り込んで、役所の職員じゃできないようなことでも僕達ならできるぜ、ってうそぶいて、どんどん改革していくことなんだけど。
そういう「非凡さを発揮せねばならない」みたいな環境は、正直言ってすり減ってしまう。
もう少し怠け者に生きたいのだけど。


僕はこれまで、たくさんお金が欲しい、と思ったことはないし、割と最低限のお金で生きられる方だ。
だけど、20代の頃の給料の差は、多い人でも大抵はせいぜい僕の2倍とかくらいだけど、働きだしてから10年目、20年目になってくると桁が違ってくる。
そうなると流石に、住む世界が変わっちゃうよね。
年収が10倍、ってことはあんまりないけど、貯金なら10倍どころじゃない。
少し年上の地元の人なんかが、5000万円かけて家を建てた、とか聞くとどこの世界の出来事だろう、と思ってしまう。
さいわいなことに、僕は家を建てたいと思ったことが今までに一度もないので、別に妬む気持ちもないのだけど、「もし家を建てるとしたら……」という想像さえ、非現実的すぎて考える気が失せてしまうのは、少し寂しい。
僕にとってその想像は、「もし空が飛べたら」と同じくらい、文字通り「雲の上の出来事」だ。
上の世代の人たちとも仲良くなりたいし共感し合いたいけれど、そのあたりの断絶があまりに大きすぎて、なかなか共通理解が難しい。
たとえば「仕事に不満があってもそう簡単にはやめられない」というような感覚、僕にはいつも理解できなかったけど、「30年後に使えるお金が50分の1になっているかもしれない(5000万円か100万円か)」という危機感として捉えると、なるほどそれは怖いかもしれないな、と思う。


今やっている仕事について疑問を感じて、「このままでいいのかなぁ」と思ったら、自分の能力が今の10倍に上がったら、と仮定して、その能力をそこで発揮したいだろうか、ということを考えてみるといいかもしれない。
つまり、今の自分の頑張りの先に、自分の理想とするものがあるかどうか。
せっかく仕事をするならば、その仕事を通して「世界を良くするのに貢献」したい、と僕は思う。
自分の仕事の成果が、自分が考えるより良い世界づくりに役立つかどうか。
逆に言えば、たとえ職場が楽しくて、同僚がいい人でも、自分のやっていることをこれ以上頑張ることに価値はない、と思ってしまったら、僕はそこにいられないと思う。

【ネタバレ注意】「けものフレンズ」の続きを構想してみた。【ハードボイルド】

ようやく、話題の「けものフレンズ」を最終話まで見た。
最初は、「何でこの人たちこんなにのほほんとしてるんだー」と、ちょっとイライラしていたけど、見ているうちに個性的なキャラクターに愛着も湧いてきて、それなりに楽しく見ていた。
が、最終話で思いっきり拍子抜け。

あれ? こんなに強引なほのぼのエンディングでいいの?
ちらちら出していた、なんとも不穏なジャパリパークの設定は全部なかったかのようにして、
「みんななかよしだねー、かばんちゃんがんばれー、今日もたーのしー!」
みたいに終わらせちゃっていいの??

ジャパリパークは、「ヒト」のためのテーマパークとしてつくられた。
・「フレンズ」は、謎の自然現象「サンドスター」によって獣が美少女化した存在で、ジャパリパークでは「フレンズ」を見世物にするために、「ジャパリまん」という食糧を供給することで飼育している。
ジャパリパークはテーマパークとして運営していたが、謎の存在「セルリアン」による襲撃に対応しきなかったため、はるか昔に「ヒト」によって廃棄された。「フレンズ」の管理と「ヒト」への案内役として設置されたロボット(?)「ラッキービースト」は現在でも、緊急時を除いて「ヒト」に対してのみ会話を行う。
・獣とサンドスターが反応すると「フレンズ」になるが、遺物(動物だったもの)と反応してフレンズが生まれることもあるらしい。最終話まで見ると、かばんちゃんは、かつてジャパリパーク管理者の一人だった「ミライ」という人物の髪の毛から生まれたフレンズ、ということになるようだ。

ちょっと書き出しただけでもこれだけの設定。
まるまる一本長編SFが書けそうな設定だが、アニメではなにひとつ解決されていない。
これじゃあ納得できないぞ!
…‥っていうか、元物書きとして、こんなに面白い設定をそのままにしておくのはもったいない!
というわけで勝手に、ハードボイルドSFとしての続編を構想してみた。
アニメを一度通しで見ただけの知識で勝手気ままに書いているので、事実誤認や、理解の足りない部分はご容赦。


けものフレンズ ジャパリパーク戦国編 プロローグ】
ジャパリバスを改造してつくった船によってジャパリパークのある島「キュウシュウ」を出発して、
「ゴコクチホウ」にたどり着いたかばんとサーバル(とラッキービーストの AI)。
そこでかばんが目にしたのは、ヒトの町の……残骸。
おそらくは、ずっと昔に何かの天変地異で滅んだのだろう。かつては相当栄えたらしいその都市は、今は見る影もない。
生き残りを探して廃墟を歩くかばんたちは、地下のシェルターの中に、謎の駆動音を響かせる巨大装置を見つける。
装置の前に来ると、ラッキービーストが「ミライ」の声を再生し始める。
ミライによると、この装置はジャパリパーク管理用のマザーコンピュータで、今もパークにジャパリまんを供給し続けているもののようだ。
装置を眺めていたかばんは、気になる表示を発見する。
そこにはこう示されていた。
「稼働残り時間:365日 セーフモードに移行。あと365日で、全機能を停止します」

パークの危機を知り、慌ててキュウシュウに引き返すかばんたち。
ところが、パークではすでにジャパリまんの供給が激減し、大混乱に陥っていた。
無限にあると思っていた食料が制限され、ジャパリまんの獲得を巡り争いが始まる。
危機を知った博士は「ジャパリパーク民主政府」をつくり、自ら仮の大統領に着任して(助手が首相)、ジャパリまんの配給制度をつくろうとする。
一方ライオンは、彼女を慕うフレンズたちに祭り上げられて国王を名乗ることにし、より多くのジャパリまんの獲得を元にした国民の庇護を目指す。

かばんが港に上陸したとき、パークでは民主政府と王国が一触即発の状態だった。
慌てて仲裁に入ろうとしたかばんは、突如現れた覆面の集団に襲われ、誘拐されてしまう。
かばんを誘拐した集団は、「神官」ツチノコをリーダーとする教団。
彼らはヒトであるかばんを「神」として祭り上げ、その威光でジャパリパークの統一を図ろうとしているのである。
残されたサーバルは博士と協力し、さらわれたかばんの奪回を目指す。
いっぽうかばんは、教団における「神」の立場を利用することでフレンズたちの協力を獲得して、装置の停止を防ぐ手段を探ることを決意。パークに向けて「自分は神である」と宣言する演説を行う。
かばんの「神宣言」を耳にしたライオン国王は激怒し、王国による教団掃討作戦を開始する……。

 

とりあえず、今日はここまで。

新天地にて決意表明的ななにか。

ようやく一息ついたので、近況報告でも。
7年住んだ神奈川県川崎市の家を出て、見知らぬ土地、長野県に引っ越してきた。
生まれたのは横浜、これまで住んだことあるのは東京で、いわゆる「首都圏」から出たことがなかった僕。
生まれて初めての、首都圏外での生活がはじまる。

正直言って、まだまだ実感がない。
家の中は少しずつ整って快適になってきて、これまでとそんなに変わらない感じなんだけど、
ふと窓の外に目をやったり、一歩外に出たりすると、今まで見たことがない光景が広がっている。
どちらを向いても山、歩いている人はほとんどいない、日が落ちたら真っ暗。
それは例えば、学生の頃に部活の合宿で河口湖のあたりの民宿に泊まったときや、
週末の旅行で、恋人とペンションに泊まったときのような光景で。
まだここが我が家だとは思えず、引っ越しから4日経っても、長めの旅行に来ているような気分。
これが自分の日常であり、ここが生きていく土地だと実感するようになるには、
どれくらいの時間がかかるかなぁ。

僕の最近の交友関係は、ここ5,6年に神奈川でつながった恋人たちや友人たちが中心で、
首都圏に住んでさえいれば、会いたいときに会える人たちが20人くらいはいた。
そんな恵まれた状況だから、決して首都圏での生活に不満があったわけじゃなくて、
むしろそのままでいれば暖かくて穏やかな暮らしを続けられただろうと思う。
もちろん長野県に来たからと言って、今までの交友関係がなくなるわけじゃないけれど、
これまでのように気軽にみんなが集まってくるのは少し難しくなるだろう。
それなのにどうして僕はわざわざ居心地のいい場所を飛び出してきたんだろう?
新しい場所で、今までのようにいろいろなことが通用するとは限らないのに。

理由のひとつには、今までにない体験がしたい、という気持ちがある。
僕はとても飽きっぽくて、いつも新しいことを求めている。
一度しかない人生で、あれもこれも見てみたい、ためしてみたい。
新しい体験をするためには、今までと大きく変わるところに自分を置けばいい。
そうすれば、何もかもが新しく見える。

そしてもうひとつの理由は、僕がこれまでの人生でたいせつにしてきた、
「人の居場所づくり」ということを、もう少し大きな範囲に広げたい、という思いからだ。
神奈川で僕が定期的に開いていた自宅でのイベント、「煉’s Books & Bar」は全15回、
参加者の延べ人数はおそらく、200人くらいにはなった。
かなりの数の人にとって、我が家は「安心できる居場所」になっていたと思う。
その経験をほんの少し、「社会」にも広げてみたい、というのが僕の新しい試み。
経済を中心に回っていて、何事にも効率と競争が求められる「首都圏」の外側に、
世の中の主流から少し外れた人たちの居場所をつくる。
それぞれが「自分のしあわせ」を探し出して、誰に気兼ねすることなく笑って生きられるように。

僕は決して自己犠牲やボランティア精神にあふれた人間じゃないから、
世のため人のためにこんなことを言っているわけじゃないよ。
あくまでも自分のために、自分がほしい居場所を、現代の日本の社会につくりたい。ただそれだけ。
寿命が尽きるその瞬間に、僕が生きているこの世界が、
僕が生まれ落ちたそのときよりも、僕にとって心地よい場所であってほしい。
それだけのために、僕は僕の歩む道を、選んでいくよ。

嵐のあとのさびしさ

たとえば自分のつくった居場所で、楽しんでくれる人がいると、

とてもとても満たされた気持ちになって、ああ、僕が生きてきたことに、
たぶん、意味があったんだな、なんて思ったりする。
自己承認欲求が満たされる、ということだと思うし、
文字通りの「自己満足」とも言える。

大げさに言えば、世界や未来に、僕の存在がほんの少しでも、
貢献できたような気分。
この瞬間のために、これまでの人生があった、
ここにつながっていたんだ、と思うような気持ち。

昨日、僕が我が家で開いたイベント、「煉's Bar」は、
昨日で14回目、参加者延べ人数で100人以上になって、
まさしくそういう居場所になった、という実感がある。
ここに来てよかった、出会えてよかった、
ここではほかのどこでも話せないことが話せたよ、
と言ってくれる人がいる。
ずいぶん前の煉's Barに参加してくれていた人が久しぶりに来て、
前に参加してから、生き方が変わってきたんですよ、
ももう少し心を開いて人と付き合ってみようと思うようになりました、
なんて言ってくれたりもした。

イベントが終わるといつもぐったりと倒れ込んでしまうほどに
疲れているけれど、不思議な達成感に満たされて、
奥さんと目を合わせて笑い合ったりしている。

でもね、その翌日とかには、すごく寂しい気持ちにおそわれるんだよね。
ぐったりして、自分に自信がなくなって、
みんなの反応を必死で調べようとしたりしちゃう。
もともと僕はそんなに行動的でもポジティブでもないのに、
「優しくてかっこよくて頼りになるお兄さん」を演じた反動で、
翌日に無気力かつネガティブになるのかもしれない。

逆に、これだけがんばったんだし、もっともっとほめられたい、
めちゃくちゃに甘やかされたい、なんて思って、
他人の反応について、理不尽に腹を立てたりする。
「自分のやってきたことが認められた!
つまりは、正しかったと証明されたんだ!」と思いすぎて、
気が大きくなって、自画自賛や自己正当化をしたり、
周囲に対して傲慢になっているなぁと思うこともある。

僕は根本的に自己愛が強いし、認められたい気持ちが強いから、
放っておくとどんどん自己正当化しがち。
そういうときこそ、自分で自分の制御を心がけないとな。
わかってくれる人がいるなぁと実感すると、
「わかってくれる人だけわかればいい」と思いがちで、
確かに世間の人の心ない雑音から身を守るために、
そういう考えが役に立つことはよくあるけれど、
でも、使いどころを間違えてはいけないな。


そんなわけで、昨日のイベントのふりかえり。
反省するところもあるけれど、かけがえのない居場所をつくってきた、
そのことはとても、誇らしい。

 

f:id:fuduki_ren:20170320184218j:plain

家族もふるさとも、自分でつくる。

結局のところ、僕がたどり着いたのはそういうことなのだ。

道に迷ったとき、自信がもてなくなったとき、ただ静かに泣きたくなったとき。
無条件に、何も求めずに、受け入れてくれる存在。
「家族」と「ふるさと」は、そういう人と、そういう場所だといいなと思う。

ところが、ふつう、ふるさとも家族も、自分では選べない。
生まれたとたんに、それは決まってしまうのだ。
自分がいちばん心地よくいられるためのものを、自分で選べないだなんて!
しあわせな人生を送れるかどうかに関わる大きな要素が、
自分の行為とは関係ない運次第、なんてのは、僕はいやだ。

だから僕は、それを自分で選びたい、と思った。
血縁とか、法律上のこととか、そんなことはどうでもいいんだ。
ただ自分の五感を使って、自分の頭で考えて、
心地よい人がいる心地よい居場所を、自分でつくっていく。

「家族をつくる」と言えば、すぐに結婚と子供を育てることが思い浮かぶけど、
そればかりに囚われる必要はないよね。
僕には、結婚相手ではないけれど、同じくらい大切にしたい人が何人もいるし、
自分の子供ではなくても、しあわせな未来を祈りたい人たちもいる。

「ふるさと」だってそうだ。
子供の頃は見えている世界が狭いから、
自分に合った土地なんて思いつきもしないけれど、
大人になって少しずつ広い世界を見たうえで、
「こんなところで、こんな生き方がしたい」というイメージを実現できる場所を、
みんなが自分で探せるようになったらいいな。

新しい家族や、ふるさとをつくるからといって、
元々の家族や生まれ故郷を捨てる必要はないしね。
今までの自分をつくってくれたそれらへの感謝はもったままで、
だけど自分がこれから生きていく場所は、自分でつくる。
時代は変わるし、親と自分は別の人間だし、
理想とする生き方が違うことは、過去を否定することでは決してない。

人は、いつからでも生まれ直せる。
新しくふみだしたそのときが、あなたの誕生日だね。

電子読書のススメ~「本はあまり読まない」という人へ

 

 

Kindle Paperwhite Wi-Fi、ブラック

Kindle Paperwhite Wi-Fi、ブラック

 

 

いろいろなところで電子書籍が好きなことを表明している僕だけど、

今回はあえて「ふだんあまり読書をしない」という人にむけて、
読書の楽しみを手軽に知るための手段としての電子読書をオススメしてみたい。
(ここでいう「読書」はマンガ以外の、文章を主とする本を読むことを
想定している。)

いろいろな人と話してみると、現代において
「よく本を読む」という人は意外に少ない。
僕の感覚だと20人に1人くらいかな……。
僕も決して読書家ではないのだけど、子供の頃から本を読み、
想像することはとても好きだ。
もちろん、趣味は人それぞれでかまわないし、
興味ないことを無理にすすめる必要はないけど、
本を読む楽しさについて共有できる機会が少ないのはちょっと寂しい。

文字だけしかない本を読んで楽しむのって、確かにちょっとコツというか、
慣れが必要だと思うから、「何年も本を読んでいない」という人が、
ごくたまに本を読んでみようと思うとうまく読み進められなくて、
なおさら本と疎遠になってしまう、ということはよく分かる。
様々なエンターテイメントコンテンツがあふれる現代において、
本というものが相対的に「割高」に感じるという気持ちも、わからなくはない。
「読書をする」ことへの入口がもっと手軽なものになれば、
読書を楽しむ人が増えるのではないか。そうなったらうれしいな。

あらためて強調したいのは、電子書籍はものすごく「手軽」だということ。
つまり、ふだん本をあまり読まない人への入口にぴったりだと思う。

電子書籍の「手軽さ」は、
1.お金
2.時間
3.機会
4.空間
の4つの面で、紙の本より優れていると思う。
これについて、ひとつずつ語っていきたい。


1.「お金」――電子書籍は安い!

そう、電子書籍って安い。
普通の書籍は、日本独特の「再販制度」という仕組みによって、
安売りできないことになっているから(ごく一部のバーゲンブックは除く)、
何年も前に出版された本でも定価で売られている。
もちろん、中古本はその限りではないけど、
中古本のネックは、作った人には一円も入らないってことなんだよなぁ。
好きな作品を書いた人にいっさい応援にならないというのはなんだかとても虚しい。

一方で電子書籍はそもそも定価が紙の本より1割ほど安いことが多いし、
出版社やAmazonのキャンペーンで30%とか、すごいときには80%とか、
大幅な割引やらポイント還元をしている。
しかもどうやらああいうキャンペーンで下がった利益については出版社持ちで、
著者にはちゃんと、定価で買った場合と同じだけのお金が入るようなのだ。
これはうれしい。
実際、僕が電子書籍でもっている本は150冊くらいあるけど、
新品の紙書籍で買った場合の6割くらいの価格で手に入れているんじゃないかなぁ。

「でも、電子書籍を読もうと思ったら電子書籍リーダーが必要なんでしょ?
お金かかるじゃん」
と思う人がいるかもしれないが、いやいや電子書籍スマホでも読める。
マンガや雑誌以外の、文字がメインの本なら、
スマホの画面で読むのは想像以上に快適だ。
(漫画や雑誌は、スマホだと小さいなーというのが個人的な感想。
これで十分、っていう人もいるだろうけど、そのへんは人それぞれかな)
このブログを読んでいる大多数の人はスマホをもっているだろうから、
電子書籍デビューに必要なのは無料アプリのダウンロードと、本代だけだ。


2.「時間」――読みたいと思った3分後に読める!

これについては、みんなよく知っていることだろうと思うけど。
ある本を読みたい、と思ったときに、それにたどり着くまでには結構かかる。
Amazonなどのインターネット書店で注文すれば、翌日か、あるいは2日後くらい。
とはいえ、受け取りのときに家にいないといけないし、すれ違いも結構あったり。
書店に買いに行けば待たなくて済むけれど、これだけ大量の本があふれる中で、
書店に必ず目当ての物があるわけじゃないし、交通費も労力もかかる。

そう考えると、クリックしてダウンロードすれば
すぐに読めるってのはやっぱりすごい。
読みたい気持ちを維持するのってけっこう大変だから、
読みたいと思った時点から読み始めるまでに間があると読む気をなくしてしまって、
結果として届いたのに開くこともなく、積読が増えてしまう、
なんてこともあるよね。
もちろん、便利だからって、買い過ぎには注意!だけど。
たとえばKindleコンテンツなら「サンプルダウンロード」という機能があって、
ある程度の試し読みが可能だし、それなりにじっくり選ぶこともできるから、
心配なら買う前にかならずサンプルを読む習慣をつければ、
無駄買いも減らせるかもね。


3.「機会」――読む機会が増える!

個人的にいちばん重要だと思っているのはここ。
どんなときにも一冊以上の本を持ち歩いていて、電車でもカフェでも、
時間さえあれば本を取り出して開く、というほどの本好きならともかく、
僕程度の「中途半端な」本好きは、「本を読みたい」と思う気持ちに波がある。
毎日の通勤時間にしたって、、
ハードな仕事を終えて疲れているときや、なんとなく眠いとき、
ゲームをしたいとか音楽を聞きたい気分のときなどなど、
特に本を読みたくならないときだってけっこうある。
「あまり読書をしない」と自認している人ならなおさらだろう。
いくら本を読もう、と思ったところで、毎日必ず読む、
なんてことはきっとできない。
そうなると、「今日読むかどうかわからない本」をつねに持ち歩いておく、
っていうのは、結構な負担になる。

何の本を読むかにしたって、
「一冊読みはじめたら読み終わるまでは他の本には目もくれない」
というストイックな人ばかりじゃないだろう。
僕も、読みかけの本がいくつもあって、ひとつに飽きたら違う雰囲気のを読んで、
それに飽きてまた最初のに戻ってきて……なんて読み方をしている。
数時間後に「この本が読みたい!」という気分になるかどうかは、
自分でも予測できないから、
「読みたくなるかもしれない本」を全部つねに持ち歩いていないと、
ちょうどいいタイミングでの読書はできないことになってしまう。
読みたい本は家に帰ってから読めばいいじゃないか、と言われても、
家に帰るころには、読みたい気持ちはなくなってしまうこともよくある。

電子書籍はつまり、「読みたくなるかもしれない本をすべて持ち歩く」
ということができるのだ。
いつも持ち歩いているスマホに、
「読みかけの本」または「次読みたいかもしれない本」を、
あわせて4~5冊くらい入れておく。
それだけで、「読みたいときに読めない」という機会損失をなくすことができる。
これって、読書を負担なく続けるうえでものすごく大事なことだ。


4.「空間」――電車で、座れなくても読める!

これはオマケだけど、スマホで本を読む利点がこれ。
スマホは片手で持てるし、ページをめくるときも
画面を軽くタッチするだけでいいから、
電車で、片手でつり革につかまりながらでも読める。
Kindleのような電子書籍リーダーでもだいたいできる。
大きな画面のタブレットだとちょっときついかもしれないけど)
紙の本も文庫ならできなくはないけど、片手で持ちながら読むのはかなり難しいし、
ページをめくるたびにつり革から手を離さないといけない。
これも「読書の機会損失」を減らすためには重要。
満員電車でかばんの中の本が出せず、
ああ、読みたいなーと、歯がゆく思いながら電車に揺られる、ってこと、
意外とあるもんなぁ。


そんなわけで、電子読書がいかに「手軽か」を伝えてきた。
僕が言いたかったのは、
読書への苦手意識をなくすのにだいじなのは
「読み始める、読み進めるハードルを下げること」だから、
電子読書はぴったりだよ、ということ。
ものすごくたくさん本を読む読書家、じゃない人にこそ、おすすめといえる。

まずはスマホアプリで試してみて、もっとたくさん読みたい、と思ったら、
目が疲れない電子ペーパー電子書籍リーダー(Kindleとか)を
買えばいいと思うよ。
とくに本を読み慣れない人なら、短編から入ったらどうだろう。
KindleにはKindle Singlesという、本にすると100ページにも満たない、
短編~中編作品ひとつだけを100円くらいで売るコンテンツもあって、
これならより手軽に「一冊読み終えた!」という達成感を得られるからおすすめ。

 

 

「若者の○○離れ」は、「要らないものは要らない」ことに気づいただけ。

よく、ネット上で「若者の○○離れ」というのが話題になる。
高齢者を喜ばせるためだろうか、テレビ番組などではたびたび
「若者の○○離れ」というのが話題になるらしい。
曰く、最近の若者は楽しみ方を知らず、消費行動が内向きで、元気がない。
だから「一流の大人」なら喜んでするはずの○○をしない。
これは若者の○○離れである、と。
○○には、大抵の場合、「かつて誰もが欲しがったとされるもの」が入る。
例えば、車、マイホーム、お酒、(高級品を売っている)百貨店、別荘、宝石、お酒、海外旅行......。
はては、「結婚、恋愛」なんてものまである。

こうした報道を受けて、比較的若者が多いと思われるTwitterなどのSNSでは、
「若者が好きで離れてるんじゃなくて、単にお金がないだけだろ」
「明らかに賃金が下がっている時代に、『贅沢をしない若者は元気がない』だなんてバカにしている!」
といった具合に、「若者の○○離れ」という言葉に対する批判的な反応が吹き荒れる。

僕としても基本的には(批判的な意見の方に)賛成なのだけど、
とはいえむしろ、「若者の○○離れ」って、いいことなんじゃないか、と僕は思う。
そもそも「かつて誰もが欲しがったとされるもの」というのが気持ち悪い。
営業だった頃の上司にバブル時代に自慢をされたことがあって、
「あの当時は、キャバクラで飲み歩いて、ドンペリもバンバン開けて、一晩で一人30万使ったりした」
とか言われたけど、少しもうらやましいとは思わなかった。ドンペリがかわいそう。
高級車も、車大好きな人が目を輝かせて買うのはとてもいいと思うんだけど、
周囲から一目おかれるためにとりあえずベンツを、みたいなのにはまったく引かれない。
僕がベンツをプレゼントされても見た目が好みじゃないからマツダのベリーサと交換したい(笑)。

お金を持った人が次から次へと高級品を手に入れたがるのって、
それが楽しくてやっているというより、しあわせを目に見えるかたちにしないと不安だから、
ということのように見える。
モノだけではなくて、「恋愛」「結婚」なんかもそうで、
「モテモテの俺」とか「イケメンと結婚して勝ち組の私」みたいに、
計量可能な「しあわせ」のかたちを手に入れないといけない、ということではないかな。
バブル時代に特に強調された競争原理がそういう気持ちをあおっていたのかもしれない。
その時代に生きていないので、詳しいことはわからないけれど。

だから、
かつて「誰もが欲しいと思わされていたもの」に関して、それを知らない若者たちは、
「要らないものは要らない」という当たり前のことを知っていて、
それが「○○離れ」と言われているっていうことじゃないだろうか。
だとしたらそれっていいことだよね。
むしろ「○○離れ」できない人たちは「○○依存」だったりするのかもね。