僕が生きていく世界

人と少しだけ違うかもしれない考え方や視点、ぐるぐると考えるのが好きです。 あくまで、僕個人の考え方です。 みんながみんな、違う考えを持っていていい。 いろんなコメントも、お待ちしてますよ。

文月煉のおすすめ本。

Twitterで紹介したものを転載。

1冊につき140字以内の解説を添えて紹介、ってなかなかいい試みなので、今後も機会を見つけて追加していきたいかも。

 

1.伊藤計劃虐殺器官

虐殺器官 (ハヤカワ文庫JA)

虐殺器官 (ハヤカワ文庫JA)

 

 大量殺人を止めるための殺人は「倫理的」か。そのために脳をいじり、罪悪感をなくすことは?

SFでありながら、「明日にでも起こりそうな」リアルさに、背筋が震える。主人公の葛藤から、目が離せなくなる。


2.いしいしんじ『ぶらんこ乗り』

ぶらんこ乗り (新潮文庫)

ぶらんこ乗り (新潮文庫)

 

 「天才で悲劇的な弟」について語る、姉の文章でつづられる、静かで悲しいファンタジー。

本の中に挿入される「弟が書いた物語」の研ぎ澄まされたことばたちに圧倒される。
孤独で美しい完全な物語。


3.友野詳ルナル・サーガ

 冒険の予感に満ちあふれた世界の設定、手に汗握る物語と魅力的な登場人物たちの葛藤と成長。

ファンタジー小説の楽しさをすべて詰め込んだシリーズ。
ライトノベルだけど、大作ハイ・ファンタジーとも言える。


4.吉田直トリニティ・ブラッド

 作者がなくなってしまったために、未完なのが悔やまれる、ものすごい密度のゴシックファンタジーSF。設定のことごとくが、中二病をくすぐるかっこよさなのに、実際の世界史や宗教学も踏まえていて、すごい。


5.堀田善衞『路上の人』

路上の人

路上の人

 

 中世ヨーロッパを舞台にした硬派な歴史小説

「どこの国にも属さない路上生活者」が主人公。教会に所属し、些細な教義の違いで泥沼の争いを繰り広げる聖職者と、何にもとらわれない主人公との対比が面白い。


6.芝崎みゆき『古代マヤ・アステカ不可思議大全』

古代マヤ・アステカ不可思議大全

古代マヤ・アステカ不可思議大全

 

 世界にたくさんある神話の中でもいちばんマイナーでいちばん奇妙と言ってもいい、マヤとアステカの神話と遺跡について、全編手書き!という謎の情熱で描いた本。初心者向け&マニアックを両立。


7.乙一きみにしか聞こえない

この短編集の中に収められている「しあわせはこねこのかたち」が、乙一の中でいちばん好き。乙一は、無理に風呂敷を広げず、狭い狭い世界の中での細かい部分を丁寧に描くのがうまいのだなぁと思う。


8.向山貴彦『童話物語』

童話物語〈上〉大きなお話の始まり (幻冬舎文庫)

童話物語〈上〉大きなお話の始まり (幻冬舎文庫)

 

 まるではるかヨーロッパで昔から語り継がれきた幻想小説ではないかと思える、洗練された物語。タイトルから優しいおとぎ話を想像してしまうが、これでもかと主人公に襲いかかる運命はつらい。でも読み切る価値は、ある。


9.山田ズーニー『伝わる・揺さぶる!文章を書く』

伝わる・揺さぶる! 文章を書く (PHP新書)

伝わる・揺さぶる! 文章を書く (PHP新書)

 

 世の中に数多ある文章術の本の中では圧倒的な出来だと思う。

「どんな体裁にすべきか」という表層的なことではなく、「文の目的を理解し、そのための方法を考える」という本質的な技術。


10.湯浅誠『どんとこい、貧困!』

どんとこい、貧困! (よりみちパン!セ)

どんとこい、貧困! (よりみちパン!セ)

 

 中学生向けシリーズ本のひとつで、貧困論として、だけでなく社会学の入門書として素晴らしい本。

「原因と結果」は世の中で考えられているような単純なものではなく、もっと構造的だ、ということがわかる。


11.九岡望エスケヱプ・スピヰド

エスケヱプ・スピヰド (電撃文庫)

エスケヱプ・スピヰド (電撃文庫)

 

 架空戦記、SF戦闘ロボット、青春群像劇、という要素を全て兼ね備えた素晴らしいライトノベル

新しく登場するキャラクターと設定がことごとく魅力的で、読み進めるのが楽しくてしょうがない。


12.長野まゆみ『野ばら』

野ばら (河出文庫―BUNGEI Collection)

野ばら (河出文庫―BUNGEI Collection)

 

 長野まゆみの小説は、言葉すべてが詩。透き通った文章は、読み進めるうちに魔法にかけられたような気分にさせてくれる。

通勤電車の中で読んでも、ひととき幻の世界に連れて行ってくれること間違い無し。


13.サン=テグジュペリ『人間の大地』

人間の大地 (光文社古典新訳文庫)

人間の大地 (光文社古典新訳文庫)

 

 『星の王子さま』の作者として有名なサン=テグジュペリが、自分の人生を見つめて書いたエッセイ。まだフライトが危険な時代に飛行士として、常に死と隣り合わせにいながら星を見つめ続けた美しい文章。


14.上橋菜穂子精霊の守り人

精霊の守り人 (新潮文庫)

精霊の守り人 (新潮文庫)

 

 緻密に作られた世界設定で、ファンタジーでありながら歴史小説のような重厚さをもつ大きな大きな物語

シリーズの中では、人の思惑が交差する、皇太子チャグムを主人公とした『旅人』と名のつく作品が好き。


15.藤本ひとみハプスブルクの宝剣』

ハプスブルクの宝剣〈上〉 (文春文庫)

ハプスブルクの宝剣〈上〉 (文春文庫)

 

 藤本ひとみ歴史小説は、世界観や政治的な大局の解説の部分と、人間の心情に寄り添った部分とのバランスがとてもよくて、難しすぎず没入できる。

この作品は、影のある主人公が非常に魅力的。


16.森達也『世界を信じるためのメソッド』

 中学生向けで、うすくてすぐに読めるので、メディア・リテラシーの基本として、誰もが一度読んでほしい本。

「メディアが示すのは、事実のたったひとつの断面に過ぎない」


17.岡檀『生き心地の良い町 この自殺率の低さには理由がある』

生き心地の良い町 この自殺率の低さには理由(わけ)がある

生き心地の良い町 この自殺率の低さには理由(わけ)がある

 

 周囲と比べて極めて自殺の少ない町にある「自殺抑制因子」は一体何なのかを丁寧に見極めようと試みた本。

まだまだはじまったばかりの研究だが、「生きづらさ」を解決する希望。


18.『日本の昆虫1400』

日本の昆虫1400 (1) チョウ・バッタ・セミ (ポケット図鑑)

日本の昆虫1400 (1) チョウ・バッタ・セミ (ポケット図鑑)

 

 身の回りにいる昆虫が「なんていう虫なのか」を調べようと思ったら、この図鑑が最適。

よくある「平らに広げて真上から撮った」標本写真ではなく、白い背景にまるで生きているように載せて撮った写真が素晴らしい。


19.サリンジャーキャッチャー・イン・ザ・ライ

キャッチャー・イン・ザ・ライ (ペーパーバック・エディション)

キャッチャー・イン・ザ・ライ (ペーパーバック・エディション)

 

ありがちで悔しいけど、主人公のホールデンは、とても他人とは思えない。

クソッタレなものであふれたこの世の中で、崖から落っこちそうになっている子供をキャッチするようなことがしたい。


20.瀬川昌男『星と星座の伝説 夏』

星と星座の伝説 夏

星と星座の伝説 夏

 

小学校低学年のときにおばあちゃんに買ってもらって、僕が神話マニアになるきっかけをつくった思い入れ深い本。

ギリシャ神話を中心に星の神話がたくさん。人間臭いゼウスやアポロンが好き。


21.内田樹『街場の中国論』

増補版 街場の中国論

増補版 街場の中国論

 

 大人気作家、内田氏の本には当たり外れがある。ブログの記事をピックアップしただけの本は、論旨もストーリーもなくて面白くないが、本書のように大学の講義をもとに書かれたものは、考えるきっかけを与えてくれる。


22.豊島ミホ『リテイク・シックスティーン』

27歳の女が、過去にタイムスリップして女子高生をやりなおす。冴えなかった高校生活を充実させれば、未来はバラ色になるはず?!

エッセイ『底辺女子高生』と合わせて読むと、なかなか刺さる。


23.夏目漱石草枕

草枕

草枕

 

漱石の作品の中ではこれがいちばん好き。

高すぎる自意識をもてあました若造が、「くだらない世の中から離れよう」と隠遁生活を目指しつつ、寂しさから逃れることはとてもできやしない、と自覚する。身につまされる。


24.たつみや章『月神の統べる森で』

月神の統べる森で

月神の統べる森で

 

 まさかの縄文ファンタジー!

縄文時代から弥生時代へ、ムラからクニヘと変わるその瞬間の、人々の心の揺れを丁寧に描く。透き通るように美しいシクイルケのたたずまいが、とても好き。


25.山本弘『神は沈黙せず』

SFは壮大なホラ話。風呂敷は、広げれば広げるほど面白い。

というわけで、B級オカルトものかと思いきや、「創造主たる神」にまで手を伸ばしてしまったから、さあ、たいへん。
「都市伝説」の頂点、みたいな話。


26.遠藤周作『イエスの生涯』

イエスの生涯 (新潮文庫)

イエスの生涯 (新潮文庫)

 

小説というべきか、神学というべきか。

カトリックのクリスチャンである遠藤周作が、自分なりの信仰を見出すために、「イエスとはどんな存在であったか」を探ろうとした本。「同伴者イエス」という結論。


27.山岸俊男『「しがらみ」を科学する: 高校生からの社会心理学入門』

「しがらみ」を科学する: 高校生からの社会心理学入門 (ちくまプリマー新書)

「しがらみ」を科学する: 高校生からの社会心理学入門 (ちくまプリマー新書)

 

 いじめが起こる原因は「悪人がいるから」ではない。いじめをするインセンティブを与えるしくみがあるからだ。社会の問題を「心」ではなく「しくみ」で読み解く。

いつまで「ムラ社会」をやってるつもり?

結局のところ僕が違和感を覚えるもの、
打破したいと思っているものは、
いわゆる「ムラ社会」というやつに他ならないのだ。

僕の考える「ムラ社会」の特徴は、

1. 世界を「身内」と「よそ者」に二分割する。
2. 「身内」には同質化を強要する。自分たちの「常識」から外れないようにさせる。
3. 2を前提として、「身内」を盲信的に信頼できるものとみなす。
「何があっても(何をされても)裏切らない」ことを美徳とする。
その一方で、「よそ者」に対しては強い警戒心(あるいは敵対心)を持ち、どこまでも冷淡になる。
4.個人の幸福やほかのあらゆるルール(法律、憲法、人権など)よりも、
ムラの掟が最優先。

現代日本で取り沙汰される、いじめも児童虐待も、
排外主義も労働基準法違反のブラック企業も、
どれも「ムラ社会」に起因した問題だといえるだろう。

ムラ社会にしないために大事な考え方が、「是々非々」だ。
「(立場に関係なく)是を是とし、非を非とす」ということで、
つまりは、誰の行為であれ正しいことは正しい、間違ったことは間違っている、
と判断できることが大事、ということ。

是々非々を貫き通すのは難しい。
そうすることは薄情だと思われたり、冷たい人間だとよばれたりする。
是々非々とは全く逆の、
「愛するあなたのすることは(たとえ間違ったことであっても)絶対に協力する」とか、
「あなたに敵対するやつは(対立している原因があなたにあったとしても)私が叩きのめす」
という、「身内を過剰にひいきする人」が、「愛情の深い人」とよばれ、人気者になったりする。

ムラ社会」ではしばしば、身内に対する一体感を高めたり、身内への忠誠を示したりするために、
半ばパフォーマンス的によそ者の軽視やよそ者への攻撃がなされる。
身内の集まりの中によそ者の言動を晒して笑いものにしたり、
よそ者に対して行ったひどい行為を、武勇伝として語ったりしたがる。
「いじめ」がなくならないのは、いじめる行為が、
あらゆるルールよりも優先されるムラの掟の中において
「非難されること」ではなく「称賛されること」だからだ。

だが、身内としてひいきされることで得られる安心感は、とても危ういものだ。
いつなんどき「お前は身内じゃない」とみなされるかわからないし、
そうなれば今まで自身がよそ者にそうしていたように、どこまでも残酷な扱いをされる。
そして、「ムラ社会」の人たちはそれを止めてはくれない。
だから「ムラ社会」の人間は、「ムラ八分」をおそれ、つねに身内の顔色をうかがいながら生きる。

そんな偽りの安心にすがるよりは、ムラの境界の石垣をとっぱらって、
「相手がよそ者だろうが誰だろうが、ひどいことはしない。
ムラの掟なんかより優先する基本的人権自然権)は誰にでもある」
と言ったのがフランスの人権宣言だったのだけど、
200年以上たった今でも、その考えが実現するのはなかなか難しい。

今こそ目指したい、目指すべきことは「ムラ社会からの脱出」だと、僕は思うのだ。

「しあわせを語るな」という呪いについて

Twitterを見ていると「Facebookが嫌い」という発言をよく目にする。
なぜかというと、「リア充のしあわせ自慢に見えるから」。
特に独身の人は、Facebookで同級生などが家族や子どもの話題でしあわせそうにしていると、自分と比較してしまい、家族も子どももいない自分が惨めに思えてしまう、というのだ。
だから、「自分がしあわせであることを自慢するな、自重しろ」と、本気で主張する人もいる。

実際、日本社会は(Facebookで多少変わってきたとはいえ)しあわせを語ることを嫌う傾向が強い。
逆に「自分は不幸だ」「自分はこんなにダメだ」と嘆くことには寛容に思える。
そういう人を見ると、「自分はまだマシ」と安心できるからだろうか。

SNSでそれぞれが「自分のしあわせ」を語ることが、「みんな同じことをしなければならない雰囲気」だと感じるのは錯覚だし、それを「しあわせの押し売り」と考えるのは被害妄想だ。
劣等感を覚えるのは他の誰でもなく自分自身が「独身は負け」だと思いこんでいるからであって、問題は、「しあわせを語る人」にあるんじゃなくて、「他人のしあわせを許せないと思う自分」の方にある。

共感が得られてお金になるからだろうけど、現代の広告社会は、そういう被害妄想的劣等感を刺激して、「みんなを見返すために○○しましょう」とか「負けたままでいいの?」みたいなことを言いすぎだと思う。
被害妄想からくる動機で行動してたらどこかで崩壊する。

他人との比較や相対評価なんぞ取るに足らないよ。それぞれの感じるしあわせのかたちは違うんだよ。ということを自分で納得できていないと、他者からの圧力がなくなっても、無限に被害妄想を生み出してしまって、生きづらさは決してなくならない。
「しあわせを語るな」という言葉は、巡り巡って自分を呪う言葉になる。

他人と自分を比べる「相対評価」には大きな問題がある。
自分の相対評価を上げるもっとも簡単な方法は、自分を高めることではなくて、「他人を失脚させる」ことだからだ。
人々が「社会や集団の中での相対評価を高めることこそしあわせ」だと錯覚していたら、おたがいに足を引っ張り合う社会・集団になるのはごく自然なことだ。

だから、たとえそれが多数派の意見だったとしても、他人を妬み、足を引っ張ろうとする声には耳を傾けてはいけない。
それに従ったら行き着く先は、「みんなで不幸になる」しかないのだから。
しあわせは、相対評価ではない。周りの人が不幸になったらあなたがしあわせになる、なんてことはありえないのだ。

LGBTとの接し方?

こないだ、今働いている職場で「LGBT研修」なんてのがあって、「あなたの身近にもLGBTはいます」と言われて「でも、知っている人では見たことがない」なんて人がたくさんいたんだよね。
で、ふと自分のことを考えてみたら、そういえば今仲良くしている人たち、だいたい半分くらいはLGBTとかセクシャルマイノリティとよばれるような人たちだった。
別にそれを意識しているわけではないけど、僕のまわりには「世間の常識に馴染めない人」が集まりがちだからかもしれない。

 

それで、ふと思いついたことなんだけどね、「身近な人がLGBTだったら、どう接していいかわかんなーい」みたいなこと言う人にはね、「例えば、きのこが嫌いな人、くらいな扱いをすればいいよ」って答えればいいんじゃないかな。
「もったいない!きのこが嫌いなんて人生損してるよ!」「きっと食わず嫌いなだけだよー、ほら、食べてみなよ」とか言い続けられたらそりゃ不愉快だよ。
だから、それをしない程度の配慮はいるだろうけど、それ以外は何も困んないでしょうよ。ってこと。

「だれもがきのこ好きだと思い込んだ」無神経な発言をくり返したりしなければいいだけであって、そんなに難しいことは要求されないだろうと思うんだよね。
LGBTに配慮しなきゃいけなくなったら、なんにも言えなくなる」とか言う人は、普段からどんだけ無神経なのさ。
これはLGBTだけでなく、アセクノンセクとかにも言えるな。
というか、シンプルに「人の好き嫌いや趣味嗜好その他もろもろに口を出すな」ってことなわけで、なんにだって適用できる話だよね。全然難しい話じゃない。

 

勘違いしないでほしいのは、「その人の前できのこの話をするな」ってことじゃないってこと。そんなことまでは、たぶんほとんどの人は思ってないよ。「わたしはこういうきのこが好き」という話は、気にすることなく話せばいい。
「あなたはどのきのこが好きなの?」「きのこが好きなのは人間なら当然だよね!」みたいに、「きのこが好きなこと」を押しつけるべきではないよね、ということ。

 

「文月煉哲学」を編纂したい

哲学というと大げさだけど(笑)。

僕がこれまでに考えてきたこと、選んできたこと、したいと思っていること。
いろいろとまとめたらなにかの役に立つんじゃないかと思って。
僕が下手くそながらなんとか生きて、考えてきたことを、残したい、という気持ちなのかも。
とりあえず、本にするとしたら「章タイトル」になりそうなキーワードを、今思いつくままに書き出してみる。

  • Don't Be Evil.
  • 減点法ではなく、加点法で考える
  • 甘えること、頼ること、無条件降伏をすること
  • 少し長い目で見る、ということ
  • 過去や未来で、現在を縛らない
  • 「より良い未来」に加担する
  • 手のとどく範囲をしあわせにしたい
  • Pay it forward、あるいはgiveがtakeになるよろこび
  • 脱「ムラ社会」――是々非々で物事を判断する

君の世界を広げようぜ。

「世界」とか「世の中」と聞くと、なにか確固たるものがあるように思うけど、それは錯覚だ。
「世界」とは、「自分が認識できる範囲」と同義なのだから。
だからこそ、ときに「新しい世界を知って」、「世界が広がった」りするのだ。

一人の人間にとって、認識できていないものは、存在しないのと同じだ。
「職場(や学校)」と「家」しか認識していない人にとっては、そのどちらにも馴染めなかったら、「世界中の人に嫌われている」ということになってしまう。
単に今いる職場(や学校)に馴染めないだけなのに、「自分は世の中で何の役にも立たない」と錯覚したりもする。

世界は、広がるものだ。
そう認識するだけで、全然ちがう。
小さな部屋から飛び出すのが難しければ、まずは窓を開けよう。
窓の向こうに、まだ知らない何かがある、ということだけでもいい、たびたび思い出そう。
狭い世界に閉じこもっている人たちは、自分の知識を過大評価する。
「○○な人なんていない」「○○な場所なんてない」とか、すぐ言いたがる。
なんでそんなことわかるのさ。君は世界のすべてを知ってるの?
ソクラテスの言った、「無知の知」。
なにも知らないということを知ろう。

まだ出会っていない君のために、僕はここに、居場所をつくって待っているね。

 

主体性をもつこと。あるいは、自分の人生の支配者であること。

結局のところ、僕の人生における命題は「主体性をもって生きる」というところにすべて行き着く。という結論に、不意にたどりついた。

他人を信頼する(信用ではなく)のは、自分の主体性でもって「この人になら裏切られてもかまわない」と思うからであり、そういうふうにしていれば、何かを誰かのせいにすることはない。

僕は、自分の人生のいろんなことを誰かのせいにしたくないから、束縛すること・されること、依存すること・されることから、離れる道を選び続けてきた。
おかげで、今の人生はまさしく僕が自分の選択で作り上げたものになっていて、なにひとつ他人のせいにはできない。

 

今、僕は僕の支配者であるという確かな感覚がある。
家族も、会社も、配偶者も、恋人も、友人も、何も僕を縛らない。
だからといって傍若無人に振る舞ったって楽しくないから、僕は僕の意志で、信頼したい人を信頼して、生きる。
誰かを喜ばせたいと思って何かをすることもある。

 

自由とは、主体性だ。主体性とは、誰かのせいにしないことだ。

 

主体性をもつことと、他人の主体性をうばわないこと。
これがたぶん、僕の中でもっとも大切な命題。
さらに言えば、主体性を奪われている人がそこから抜け出すのに手を貸したい、という気持ちもある。
ポリアモリーのことも、働き方のことも、居場所をつくりたいのも。
すべてはつながっているんだ。