動画が苦手~僕の特性の話~
僕は、動画が苦手。というか、動いている映像を長く見ていることが苦手だ。
うちにはテレビがないし、僕は映画とかもほとんど見ないんだけど、それって、「動く映像」の情報量多すぎてパンクしちゃうからなんだよね。
「映画を見るとぐったり疲れてしまうので滅多に見られない」と言うと驚かれるのだけど、たぶん、僕の脳の構造というか思考の癖というか、そういうものが関係しているのだと思う。僕はインプットされた情報をそれなりにうまく受け流すことがとても苦手で、すべてのことが気になってしまうから疲れすぎてしまうんだ。
僕が、「知的好奇心旺盛」と言われるのも、情報に接したときに「知らないこと」があるととても気になって気になって、流せないからなんだろうな。感覚過敏ではなくて情報過敏。そのわりについつい大量の情報を摂取しちゃうんだけどね。情報依存症気味なのかも。
さらに言うと、僕の摂取できる情報は、ほぼ文字情報に限られる。それ以外の感覚的なものに対してはとても感度が鈍くて理解できないから、無理矢理すべての感覚を文字情報に翻訳して理解しようとしてしまう。
写真や映像を見ても、すぐに文字による解説をつけて「分析」してしまう。一秒あたり数百文字のキャプションを頭の中でつけ続けてしまうのだから、そりゃあ映像は疲れる。
まぁ、だからこそ、「何かを言葉で説明する」ことには長けていて、仕事の種になってるんだけど。
僕がとても方向音痴で道を覚えるのが苦手なのも、空間認知能力が不足していて、例えば「棚の中にこれらの道具が入りきるかどうか」と言ったことをイメージするのが苦手なのもこの「目から入った風景や映像を、そのまま理解することができない」ということに起因しているように思う。道を覚えるときにもわざわざ、「この看板を右に曲がって、三つ目の角を左折して……」と、言葉にして暗記しないとダメだから、とても負担がかかる。
こうして自分の特性みたいなのを改めて理解して把握しておくと、何が得意で何が苦手なのかすぐに判断できるので、昔に比べるとわりと生きやすくはなった。
とはいえ、僕の「非言語的理解力」の低さは、一般の人の「当たり前にできること」をかなり下回っているようで、特に仕事のときなんかは、自尊心的にはかなりつらいものがあるんだけどね……。
罵倒は正当化されない ~「Don't Be Evi.(邪悪になるな)」ということ~
しばらく前に、こんな文章を書いた。
僕がDon't Be Evil.を座右の銘的に掲げるのは、
Twitterをふくむネット言論で支配的な「悪いやつには何を言っても(しても)いい」という空気に流されないようにするためだ。
この間Twitterで見かけた、
「黒人が全員いなくなれば差別問題は解決するという考え方もあると思います」という意見と、それに対する「あるワケねえだろ地獄に落ちろレイシストめ」という意見があったとき、どうやらTwitterには前者が穏当な主張で後者が攻撃的で排除的な主張に見える人が一定量いるらしいと知った。
— あおじる (@t2o_yama) 2017年8月21日
という意見は、「本当は前者が悪で後者が善なのに逆に思われてしまう」と言いたかったんだと思うけど、僕は後者に対してもひどく違和感がある。
現実には「前者が絶対悪なのだから、後者は攻撃的でも排除的でもない」とする考え方はある程度市民権を得ていて、だからこそ後者のような人が人気者になっているということも多いように思う。
Twitter上の議論がよくかみ合わないのは、このあたりの認識の違いなのかな。
後者を批判すると「前者の味方」扱いをされてしまったり……。
でも、「批判」と「罵倒」は同じではない。
僕の感覚では「罵倒」はEvilなので、どんな理由でも正当化はされない。
先ほどの例で言えば、「地獄に落ちろ」は明確に罵倒だから、たとえ相手が悪だとしても、その行為自体が正当化されることはないと僕は考える。
後者の人だって十分に「攻撃的で排除的」だと思うのだ。
まあそうは言っても、「正当化はされない」ということと「絶対にやってはいけない」ということはイコールではないとは思うけどね。
よくはないけどやってしまうことはあるさ。人間だもの。
僕だって、Don't Be Evil.は目標にすぎず、僕自身が今、胸を張ってI'm not Evil.と言えるわけではない。
それでも、「正義だと思ってやる」ということと、「よくはないけれどやってしまうことがある」ということは、少しだけ違うのではないかと、僕は思うのだ。
34歳。今日も生きてる。
少し前から毎年、誕生日前後にブログ記事を書いている。
「おめでとう!」と言われたいという下心もあるけど(笑)、定点観測的に自分の生き方を振り返るのにちょうどいいからね。
34歳時点で、「僕の人生はおおむね、とてもしあわせである」と感じていることをここに刻んでおきたい。
— 文月 煉 (@fuduki_ren) 2017年7月23日
30歳越えてからの人生が充実しすぎていて、一年が五年分くらいの気持ちだ。
— 文月 煉 (@fuduki_ren) 2017年7月21日
今の気持ちは、こんな感じ。
ここ5年くらい、毎年、誕生日の時点での生き方が、一年前の想像を超えている、っていうのを繰り返している。
30歳のときは結婚したばかりで、31歳のときは「ポリアモリー」という概念に出会って人生が様変わりしていた。
32歳のときは心身を捧げていた図鑑の編集者の仕事を過労と鬱で辞めたところで、33歳のときは、煉's Barでの「居場所づくり」に生きがいを見出していた。
そして今、34歳。
なぜか、長野県という、これまで縁もゆかりもなかった場所にいる。
またしても想像もつかないような仕事をしていて、会いに来てくれる人もたくさんいて、ふとした瞬間に「僕の人生はしあわせだな」なんて確信したりしている。
来年、35歳の自分が何をして何を思っているのか、さっぱりわからない。
わからないけど、わからないことが、とても楽しみ。
絶滅危惧種のうなぎを、大量に売る日本の現状に思うこと
ニホンウナギは、2014年についに国際的な絶滅危惧IB類に指定された。「希少な生き物」としてよく知られるジャイアントパンダやコアラよりも「絶滅の可能性が高い」とされたのである。
一方で、日本ではまた今年も「土用の丑の日」が近づき、全国的に「うなぎを食べよう!」というキャンペーンがすすめられている。
小売業と広告業界の努力の成果により、うなぎを売る勢いは近年、かつての何倍にも高まり、スーパー、コンビニ、牛丼屋などのファストフードで大量の「安いうなぎ」が売られている。
当然、土用の丑の日を過ぎるとうなぎを買う人は桁違いに減るので、丑の日直後には大量のうなぎが、ゴミとして廃棄されるのだろう。
そんな社会について、思うところをいろいろとつぶやいたので、あとで読み返せるようにブログにまとめておく。
うなぎの話ね、僕も結構リツイートしたり意見を言ってたりして、「めんどくさいな」と思っている人も多いかもしれないけど、僕が思うにこの問題って「動物愛護」とか「自然保護」とかの話じゃなくて、もっと大事な、資本主義そのものの恐ろしさや「未来のことを考えるかどうか」の話だと思うんだよね。
— 文月 煉 (@fuduki_ren) 2017年7月23日
近い将来絶滅することがほぼ確実になっているうなぎを、「客集めのためのイベントセール」で大量消費して絶滅を早めることが「資本主義的に正しいこと」と判断されるのが日本社会の現状である、という事実に対して相当な危機感がある、という話だ。
— 文月 煉 (@fuduki_ren) 2017年7月23日
だれが悪いか、っていうようなレベルではなくて、大企業であるスーパーやファストフードの会社の偉い人たちが出した結論がそうであるっていうのは、「今後絶滅するなら今のうちに食べとけ」という思考の仕方が、現代の日本で多数の理解が得られることであるという証明なんだ。
— 文月 煉 (@fuduki_ren) 2017年7月23日
これって他のあらゆることにも言えて、「自分が生きているうちに影響がないなら、未来にどれだけ不利益をもたらしても一向にかまわない」という考え方が、日本の大勢を占めているという証拠のひとつなんじゃないかな、と思うんだ。
— 文月 煉 (@fuduki_ren) 2017年7月23日
さらに考えを進めてみれば、未来かどうか、とかじゃなくて、「現在の自分に直接不利益をもたらすこと以外は、誰がどれだけ苦しんでもまったく問題ない」「知らない人の100の不利益よりも自分の1の不利益の方がずっと問題だ(から、1の不利益を決して許さない)」ということなのかもしれない。
— 文月 煉 (@fuduki_ren) 2017年7月23日
僕は別に「他の人のことももっと考えて行動しなよ!」みたいなことを言いたいわけじゃない。むしろ、他人の顔色をうかがって自分のしあわせを我慢する必要なんてない、もっと自分本位に生きろ!というのが僕のポリシーだ。
— 文月 煉 (@fuduki_ren) 2017年7月23日
譲れないところは譲らなくていい。だけど、自分のほんの少しの譲歩で、他者にいい影響があるなら、譲歩した方がどこかで巡り巡って、「自分にとって」もプラスになるものだと思う。目の前の利益を決して減らさないようにしがみつく「余裕のなさ」がこわい。
— 文月 煉 (@fuduki_ren) 2017年7月23日
おまけ。
めっちゃどうでもいいことだけど、これが「うなぎ」ではなくて「うさぎ」だったら、保護活動は何百倍もさかんなんだろうな……とふと思った。
— 文月 煉 (@fuduki_ren) 2017年7月23日
文月煉哲学 まとめ(とりあえず現状の考え)
最近、生活する環境が変わっても、話をする相手が違っても、僕が語る内容にあまり差がなくなってきた。
僕の中で僕なりの哲学が固まってきた証拠だと思う。
あまり固定化してそれに固執してしまうのはよくないけれど、揺らがなくなってきたのはうれしい。
僕が繰り返し語ってきたことを書き出してみると、たぶんこんな感じ。
①素直でいられること、そういう関係、そういう場所を何より重んじる。
②過去や未来より現在を優先する。
③物事を減点法ではなく加点法で考える。
④何かを選択するとき、その場だけの損得ではなく「長い目」で見る。
⑤誰かの「属性」を元に批判している言説は相手にしない。
⑥思考停止をしない。真実を知らない方が楽だとしても、知った上でどうすべきか判断したい。
⑦絶対の「約束」はしない。未来を縛らない。
⑧他人を操作しない。その結果が自分にとって不都合だったとしても、相手の自由選択を全力で守る。
⑨「常にがんばること」を前提に物事を組み立てない。
さらにわかりやすく短い言葉でまとめると、
偽らない。
ズルはしない。
目をふさがない。
無理はしない。
できないことは言わない。
変わることを厭わない。
という感じかなぁ。
かわいくて音のいいスピーカーが、部屋に音楽を満たす。
新しく買ったスピーカーがとても素晴らしいのでご紹介。
箱を開けた途端、予想以上の小ささに驚いた。
ちょっと大きめのみかんくらい。りんごよりはだいぶ小さい。
あまりに小さいので音が不安だったけど、ロックバンドのベースの音も、細かなハイハットの音もちゃんと聞こえる。
どちらかというと少しこもり気味の、暖かめの音かな。
スマホやノートパソコンのスピーカーの、シャカシャカした音が目立つのとは、全然ちがう。聴いていて、つかれない音。
4畳半の僕の部屋で音楽をかけると、「音に包まれる」って感じがする。
Ankerの商品は、シンプルの極み、という感じのデザインがいい。
無駄な飾りや色やマークがなくて、だけどゆるやかな丸みがあるので無機質でもない。
音楽を聴く環境は、数年でめまぐるしく変わっている。
10年くらい前まではさかんに売られていた「ラジカセ」や「ミニコンポ」は、今じゃほとんど見られない。
「小さいスピーカーではまともな音は出ない」ということもなくなってきた。
スマホで音楽を聴く時代、Bluetoothのスピーカーは、最適解なのかもしれない。
このスピーカーは充電式だから、使うときは本当にコードレスだ。
机の上にみかんくらいのオブジェクトを置くと、部屋が音楽で満たされる。そんな、おとぎ話みたいなことが、今では3000円以内で実現できるんだな。
Anker SoundCore mini コンパクト Bluetoothスピーカー 【15時間連続再生 / 内蔵マイク搭載 / micro SDカード & FMラジオ対応】(ブラック)
- 出版社/メーカー: Anker
- メディア: エレクトロニクス
- この商品を含むブログを見る
距離の制約を越えた「居場所」をつくる ~Skypeグループビデオ通話でのエアホームパーティー~
昨日、我が家で恒例のホームパーティー「煉's Bar」を開催した。
都心近くの神奈川県から、だいぶ離れた長野県に引っ越してから、初めての開催。
これまで200人近く来てくれた「煉's Bar」の常連さんたちは、
ほとんどが首都圏に住んでいて、はるばる長野県まで来るのはちょっとハードルが高い……
というわけで、ホームパーティー当日に我が家にいたのは僕とおくさんの二人だけ。
参加者はゼロ。
直近の3月に神奈川で開催したときには15人ほどのお客さんが来ていたから、
距離の制約は思ったよりも手強いらしい。
でも、嘆いてばかりはいられない。
これから僕は、この地でしばらく生きていくつもりなのだから、
僕の生きがいでありライフワークである「居場所をつくる」ということ、
そのための煉's Barをなくしてしまうわけにはいかない。
そんなわけで、昨日開催したのは「エア煉's Bar」。
Skypeのグループビデオ通話を利用して、参加者それぞれが自宅にいながら
「我が家に集う」新しい形のホームパーティー。
要は、それぞれの一人家飲みを映像と音声でつないだだけなんだけど。
パーティー会場は、「インターネットの雲(クラウド)の上」なんて言えるかも。
Skypeを使ったのも相当久しぶりで、もちろんグループ通話なんて初めてで、
うまくいくかどうか少し不安だったけど、
結果としては参加者8名、通話時間は約5時間。
途切れることなく話が弾み(主に僕がしゃべっていたけど)、
とても楽しいイベントになった。
SNSや趣味をきっかけに知り合った人は、「現実的な利害関係がない人」だ。
つまり、血のつながりもなく、仕事関係でもなく、地元の知り合いでもない。
そういう人とならば、だれにも言えなかった自分の本心をさらけ出すことができる。
それが「煉's Bar」の、あるいはオフ会全体の利点だと思う。
だからこそ「煉's Bar」は、ふだん生きづらさを抱えているような、
多くの人たちにとっての居場所になり得てきた。
新しく生まれた「エア煉's Bar」は、これまで参加できなかった人たちにも開かれた、
さらに大きな可能性をもった「居場所」になっていけるのかもしれない。
僕だけでなく、みんながいろんなところで「エアオフ会」を開催してくれたら、
現代の人たちの「さびしさ」が、ほんの少しはやわらぐのかもしれないね。
これからもちょくちょく、「エア煉's Bar」を開催していこうと思います。
興味がある方は、僕のTwitterアカウントをフォローしてみてね。