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僕が生きていく世界

人と少しだけ違うかもしれない考え方や視点、ぐるぐると考えるのが好きです。 あくまで、僕個人の考え方です。 みんながみんな、違う考えを持っていていい。 いろんなコメントも、お待ちしてますよ。

2016→2017

あけましておめでとうございます。
今年も無事、新しい年を迎えることができました。
日常からちょっとだけ離れた年始のこの時期に決意じみたブログの記事を更新するのが、
ここ数年の恒例になっているので、今年もキーボードを叩いてみることにしてみました。

去年の記事は、

 

fuduki-ren.hatenablog.jp

 

なかなか威勢のいいことを言っているなぁ(笑)。
ここで予言しているとおり、2016年は「仕事は一応安定しているけれど退屈」で、
何か他のところでやりがいを手に入れようと頑張った年ではありました。
「他のところ」とは具体的になにかと言えば、「居場所を作ること」「人とつながること」。

 

2016年はかけがえのない愛しい人との出会いがたくさんあった年だった。
具体的に言えば、新しい恋人が三人もできました。
2016年の出会いは、それまでのものとは質が違っていて、
最初から建前や探り合いがまったくなくて、心のとても深いところがいきなり共鳴し合うような、
まだ出会って日が浅いにも関わらず、
これから深く長く付き合っていけると確信してしまうようなものだった。
こういう出会いがあったことはきっと偶然ではなくて、ここに至るまでに僕が、
ブログやTwitterで、自分を偽らずにさらけ出してきたことが実を結んだってことなのかな。
それから、一年前の記事で宣言したように「やるかやらないか、迷ったらやる」というわけで、
自分で、きっかけとなった出会いから一歩踏み出して、大事な人とつながることができた。
その結果、今日のこのしあわせな気持ちがあるのだから、
「2016年の僕、よくやった」と褒めてあげたいと思うな。

一方で、2016年に離れた人もいる。
けっこう大きな別れが、いくつかあった。
でもそれは、僕が僕自身の「ありたい自分」「居たいところ」を、
これまでよりも具体的に感じられるようになって、
一緒にいることが困難な人、近すぎると傷つけあってしまう人と、
ちゃんと距離を取ることができるようになったということなんだと思う。
その証拠に、離れたらすごく肩の荷が下りたようになって、
自分のまわりにいる人たちを大切にしたいという気持ちがより強くなった。
一年前よりも確実に、僕のいる場所がより居心地のいい場所になってきていると言える。

 

そういうわけで、2016年は僕にとって、とてもたいせつな、愛おしい年になった。
だから今年の目標は、新しいことを求めるんじゃなくて、
今、僕の「手の届く範囲」にあるものを、ひとつひとつ丁寧に慈しむような、そんな年にしたい。
まぁそんなことを言っても、飽きっぽい僕はやっぱり「変わらない日々」には耐えられなくて、
新しい変化のための、準備を進めていたりもするんだけどね。

一年後の僕がどんなふうに思っているかなんて、想像もできないけれど。
僕と僕の大切な人たちが、楽しく過ごせているといいなぁ。

性的なことを、明るく安全にしたい

最近かなり真面目に考えていることのひとつに、「性欲をもてあました人が、安全にそれを解消するにはどうしたらいいのだろう」ということがある。
僕自身の話ではなく、社会としてね。
これは、笑いごとでも恥ずかしいことでもなくて、とても大事なことだと思う。

少なくとも現在の社会では、そういうのは笑いごとや、恥ずかしいこととして扱われがち。
本当に悩んでいる人が、ひたすらにそれを隠すしかない、という風潮になってしまっている。

誰にも言えないで困っているけれど、実は、ずっと性的なことがしたくてしたくてつらいと思っている。ってことは、本当はたくさんあるのだろうな、と思う。

男の人はまだしも風俗とかそういう手段があるけど(だけどそれにもかなりハードルはある)、女の人はリスクとか世間の目とか、本当にきついと思うんだよな。

性欲をもてあましているのは、いわゆる「軽い人」や「遊び人」であるとは限らない。
そうではないからこそ、自分のその感覚を否定したくてつらい、という人も多いんだろうな。

僕としてはそういうのをね、後ろ暗いことなく、ぜんぜん悪いことじゃないよ!と言って、
「明るく楽しく気持ちよく安全に」、解決できるようにできたらいいなぁ、と思うんだよね。


「性欲を解消するだけならオナニーすればいい」という意見もあるかもしれないけれど、
性欲って、オナニーで解消できるものではなくない?
あれは排泄であって性的行為ではない気がするぞ。
やり方次第かもしれないけど……。
そのへんは、男女でも大きく違う気がする。

「性欲」とされるものの中にも、いわゆる「射精欲」みたいなものだけじゃなくて、人肌欲とか、大事に扱われたい欲とか、その他、さまざまなものが混じり合っているんだろうな。

さらに言えば、「セックスとは何か」ということが、人によって違いすぎることも、問題を深くしているんだろうな。
愛情表現だったり、楽しいエンターテインメントだったり、契約のための儀式であったり、欲を解消するためのやむを得ない行為だったり、その他いろいろ……

単純に「明るく楽しく気持ちよく安全に」やるには、付随するめんどくさい事柄が多すぎて、がんじがらめになっているのが実際なんだと思う。

どうするのがいいのか、簡単に答えは出せないけれど。
まずはこういう話を、できるようになることから、かな。

世界を、広げる。

僕が大学を出て、社会人になって驚いたことは、世界が広いということを知ったことだった。
つまりは、自分が今まで生きていた世界がどれだけ小さかったのかということを知った、ということでもある。
僕には、あんまりにたくさん知らないことがあった。
社会の仕組みがどうなっていて、
どういうふうにものが自分の手元に届くのかもよくわからなかったし、
自分がついた「営業」という仕事が、一体何をするのかも全然わかっていなかった。

 

大学を卒業するまで、こんなにもものを知らなくても生きていけていたのか、と驚いた。
そういえば学生の時の僕は、「やろうかどうしようか」と迷ったら、
失敗を恐れて必ず「まぁ、やめておこう」と選ぶような性格だった。
今だったら、「学生時代の時に、失敗して取り返しがつかなくなるようなことはまずありゃしないんだから、

何でもとにかくやってみれば、
成功しても失敗しても、必ずやらないより得をするよ」
とあの頃の僕に言ってやるのに。

 

そんなわけで今の僕は、新しいことをして、
自分の世界を広げることが楽しくて仕方がない。
自分の性格をいきなり180°変えられるわけじゃないから、びくびくと、おそるおそるではあるけれど。
人に出会うこと、誰かの話を聞くこと、知らなかったものに興味を持つこと。
何かに興味を持つと、それについての様々なことを知りたくなって、一気に自分の世界が広がる快感がある。

前に「何かを好きになるのには時間がかかる」と書いたけど、まさにその通りで、

忙しい毎日の中でただ漠然と色んな情報に触れているだけでは、何かに興味を持ったり、好きになったりすることは難しい。
残念ながら多くのサラリーマンは、会社に入って数年はいいけれど、
ある程度長く仕事をしていると、決まりきった毎日の世界だけで満足していまい、却って自分の世界を狭くしてしまうことも多い。
忙しいとは心を亡くすと書く、などというのはよく言われていることだけど、忙しくて新しい世界に興味なんて持っている暇がない、というのは、
僕自身働いている頃は実感していたけれど、すごく寂しくて、切ないことだった。
日々に新しい刺激がなくなると、あっという間に月日は経っちゃって、気がついたら何にもしないうちに、何をするにも億劫な、おじいちゃんになっちゃうよ!

 

本屋に行ってめぼしい本を物色したりしているとき、何だか唐突にそこに陳列してある本を全て読み尽くしてしまいたくなって、だけどそんなことは決してできないってことにすぐ気がついて、何だか無性に切なくなることがよくある。
世界がものすごく広い、っていうことを知ると、自分が生きているうちに世界のすべてのことに触れるなんて到底無理だ、ってことがわかる。
きっと世界にはまだまだ僕の知らない面白いことがあるのに、僕はそれを知らないで死んでいってしまうかもしれないんだなぁ、なんて思ったりする。
でも、考えてみたらそれは幸福かもしれないよね。
逆に考えれば、僕が生きているうちに、「もう世界には面白いことは何にもない」なんて絶望することはあり得ない、ってことでもあるんだから。

 

勝ち組だとか、そんな言葉には興味がないけど、僕が尊敬するのは、どんなに年を取ったって、「これが今面白いんだよ!」って目を輝かせて言える人。
人になんと言われたって、そんなおじいちゃんになれたら、それまでの人生、正解だった、って言える気がしないかい?

 

※過去に別ブログで書いたものを転載

未来予想図を破り捨てよう

大学を卒業してからずっと、「5年後の自分が全く想像できない」生き方をしてきている。

23歳のとき、僕は営業マンだった。
28歳のときは、子供のための図鑑をつくっていた。
33歳の今、結婚していて、恋人が三人いて、定期的にホームイベントを開いている。
38歳の僕は、何をしているだろう?

この国では、小さな頃からよく、「将来の夢」を聞かれる。
「将来の夢は?」と尋ねられたら、ふつうはなんらかの職業を答えるものらしい。
いちど就いた職は生涯変わらないことが当たり前のような価値観。
大学生のときも「ライフプランを考えろ」なんて言われたなぁ。

22歳のときの僕に、今の生活なんて思い浮かべられなかった。
だけど今僕は、あのころ思い浮かべることができたどんな生き方よりも、
充実した、しあわせな日々を送っている。

人は、変わる。
まだ知らないものを知っていく。
未来予想図では、変わったあとの自分のしあわせは描けない。
勝手に「未来のしあわせのかたち」を決めてしまうのは、
まだ想像もできない、未来の自分に失礼だ。

今よりも狭い世界しか知らなかった過去の自分が描いた、
窮屈な未来予想図なんて、破り捨てちゃいなよ。

僕が「ポリアモリー」を発信するわけ

僕がツイートで予想したとおりに、

脊髄反射的なポリアモリー批判はもうほとんどなくなったみたい。
こんなタイミングで、それでもまだこの言葉が心に残っているあなたへ、
僕が「ポリアモリー」を発信するわけを伝えたいと思う。

ポリアモリーを批判する言葉の中に数多くあったのが、
「黙ってやっていればいい、表舞台に出てこようとするから叩かれるんだ」
というもの。
まぁ、そうかもしれない。
僕はもうすでに、見ず知らずのだれかに認めてもらったりしなくても、
僕の手のとどく範囲の親しいなかまたちとともに、しあわせにくらしている。
このままの生活を続けようとするのならば、口を閉ざしてしまってもいいのかもしれない。
だけど。
今僕の周りにいる大切な人たちとつながることができたのは、
僕が声を上げたからだ。

同時に複数の人を愛してしまうことはいけないことなのだろうか?
好きな人たちみんなで、しあわせになれる方法はどこにもないのだろうか?
そんなふうに思ったどこかのだれかが、
インターネットの海を泳いで、僕のところにたどり着いた。
そのために必要だったのが「ポリアモリー」という言葉の「目印」だ。
僕自身はもうしあわせで、これ以上周りに望むことはないのだけれど、
日本中にはまだまだ、一人で悩んでいる人が大勢いるんだろう。

僕自身は教祖でもなければカウンセラーでもないから、
流れ着いた人を救うことができるわけじゃない。
だけどもしかしたら、僕自身がしあわせに生きていることそのものが、
だれかを少しだけ勇気づけるかもしれない。

世界の意識を変えられるのはまだまだ先だろう。
今はまだそこまで望んでいるわけじゃない。
ただ、孤独にふるえている、あなたのところに届いたらいいな。

中くらい。

ふと、思ったこと。
「大きいことはいいことだ」とは、僕はぜんぜん思わない。
昔から、大きくなることにはあんまり興味がなかったなぁ、と思う。
大きくなる、ってのはまぁ、いろんな意味でね。
「ビッグになる」とか言った方が、意味は伝わりやすいかな。
この、「ビッグになる」とかいう言葉は
もはや死語になっている気がするように、
たぶん世間の風潮は、大きくなることばかりを目指すのは
そろそろお終いだ、と思い始めているようにも感じる。
とはいえ、ビジネスの世界では、
まだまだそういう雰囲気は残っている気もするけどね。
いまだにいろんな業界で「大合併」が進んでいるのとか見ると、
そんなに大きくなってどうするんだ、ってよく思う。

「大きくなんてなくてもいい」っていう考え方は、
とてもいいと思う。
「足るを知る」という言葉もあるけど、
実際問題、年収1000万円とか、僕には使いきれる気がしないし。

だけどそこでふと思う。
「大きくなんてなくていい」、という考え方は、
反動的に、「じゃあものすごく小さくなる」ってことになりがちだなぁ、と。
格差社会、なんていう言葉にはあまり意味を感じないけど、
でもとにかく二極化が進んでいるという実感はある。
構造、というよりも、多くの人々が進んで極端なものを望んでいるようにも見える。
二元論化、と言ってもいいのかも。

そこで僕が感じるのは、もっと「中くらい」が
見直されるようになったらいいな、ということ。
大きいのも、小さいのも極端だ。
どっちにしても、利点と欠点がそれぞれに大きすぎる。
そういう状態は、たぶん余裕がなくなってくる。
いちばん余裕がある状態って、「中くらい」じゃないだろうか。

大企業と中小企業、という言葉はあるけど、
それは大きいのと小さいの、という意味だ。
単独で中企業っていう言葉はない。
今までの社会では、「中企業であることを貫く」っていうのは、
なかなか受け入れられなかったのかもしれない。
でも今、そういうのを目指してもいいんじゃないかと、
僕は思うのだ。

そういえば、かつて僕が衝撃を受けた「ほぼ日刊イトイ新聞」のコピーは、
「ゴキゲンを創造する、中くらいのメディア」
だったなぁ。

めざせ、中くらい。

 

※5年前に別ブログで書いたものを、転載。

メメント・モリ~死をおもうこと

僕は体がよわい。

幼いころはとくにひどくて、幼稚園は3分の1くらいを病欠していたらしい。
小学校以降はそこまででもなかったので、卒業や進級をあやぶまれることはなかったが、
それでも皆勤賞とは程遠く、毎年2,3回は風邪などで数日寝込む。

とくに熱を出すのがひどい。
小学生くらいまでは高熱からくる熱性けいれんでよく気を失って病院に運ばれていたそうだ。
これまでもっとも高かった熱は42℃で(そこまでしか測れない体温計だった)、
今でも1年に1回くらいは40℃を超える熱を出す。

世の中には「体が丈夫なだけが取り柄」ということをさもうれしげに言いたがる人が結構いて、
そういう人からの聞きかじりの、「40℃を超える熱を出すと脳みそが溶けちゃうらしいよ」
というセリフはもはや聞き飽きた。
「わたしもたまには熱でも出して会社を休みたいなぁ」とか言ってくる人に対しては、怒りを通り越して呆れる。

「病は気から」という言葉があるが、「気は病から」というのもあるのだろう。
熱を出しているとき、僕はとてつもなくよわい。
高熱による寒気や悪寒、頭痛や怠さに襲われているときは、
なにもできず、ただそれが過ぎ去るのを祈ることしかできない。
そして、限りなく悲観的になった僕の頭は、その時間が永久に続くのではないかと錯覚する。
実際には数日もすればウソのように熱は下がり、
元通りに体が動くようになるというのをいつも体験しているにも関わらず、
治るなんてことはありえない、と思ってしまう。

そうして僕は、死をおもう。
体がよわく、極端にやせていて力もない僕は、
原始時代だったら今の歳まで生きることはできずに死んでいただろうという確信がある。
僕を生かしているのは文明と、知性の力だ。
理屈っぽいとか理論武装とか言われるが、そうしないと僕は、
文字通り、死んでしまうのだ。

だから僕は、遠い未来のために今を犠牲にすることをよしとしない。
遠い未来なんて、僕にはないかもしれないのだ。
別に不治の病に侵されているわけでもないのにこんなことを言うのは、
大袈裟で自意識過剰で、自己陶酔にすぎないことはわかっているけれど。

まずは今を生きよう。
もし僥倖にも、十年後生き残っていたら、そのときは十年後の今を生きよう。