僕が生きていく世界

人と少しだけ違うかもしれない考え方や視点、ぐるぐると考えるのが好きです。 あくまで、僕個人の考え方です。 みんながみんな、違う考えを持っていていい。 いろんなコメントも、お待ちしてますよ。

「一人称」の世界

去年、はじめてアドラー心理学について書かれている本を読んだら、
自分がこれまで考えてきたことにそっくりだったので驚いた。
というわけで、今ここで僕が「僕なりにたどり着いた考え」を書くと、
「なーんだ、流行りのアドラー心理学の丸パクりじゃーん」と言われかねないのだけど、
あくまで僕としては「自分がたどり着いた考えが、たまたま一致した」のだと思っている。
知らないうちに影響を受けていた可能性とかは否定できないけど、
一応、そういうことで読んでほしい。

……まぁ、「そっくり」だと思っているのは僕のただの印象で、
ちゃんとアドラー心理学を勉強したら全然似ていないのかもしれないのだけどね。

15年以上前、大学生だったとき、演劇サークルの合宿で、
お酒も抜けはじめた深夜、部員同士でとりとめもない話をしているときに、
ふと「世界とはどういうものか」というのを語り合ったことがあった。
そのとき僕はこんなふうに話したのを覚えている。

世界をつくっているのは人間の「意識」で、人間の数だけ「一人称の世界」がある。
もちろん、「世界はただ、そのようにある」という、
「客観的」な「三人称の世界」は存在するのだろうけど、
それは誰にも見ることはできないから、僕らにとってはないのと同じ。
自分の意識というフィルターを通した「一人称の世界」が、
他人の「一人称の世界」とときどき重なり合い、
その向こうに見えるぼやっとしたはっきりとしないものを、
僕らは「世界」だと思っているに過ぎない。
「世界の終わり」とは意識の終わりであり、
つまりは、僕が死んだ瞬間に僕の世界は終わる。

僕の根本的な考えはこの頃から変わっていない。
「意味」とか「幸不幸」とか「善悪」とか、
そういうものは本当は「世界」に存在しているわけじゃなくて、
「一人称の世界」の内側、つまりフィルターである「意識」の方に貼りついている。

それは、身も蓋もない言い方をしてしまうと、
「『人生の意味』や『自分が幸せかどうか』を決めるのは自分次第」
ということになるのかもしれない。
でも、使い古された表現の陳腐さに対して、
それを実践するのは実は簡単なことではない。

「自分のしあわせを自分で決める」ということ、
それは「自分がしあわせだと思い込む」ということではもちろんないし、
「ポジティブに考えよう」というような安易なものではない。
自分ほどだましにくい存在はない(と、少なくとも僕は思っている)。

だから、自分をだまさずに、ちゃんと自分が納得できるように、
「説得」できないと意味がない。
しあわせとは、「自分がしあわせであることを自分に対して説得できた状態」だ。
そして、自分を説得するためには「説得力」が必要。
究極的に言うと「しあわせになる」ってことは、
「自分に対して説得力のある生き方に身を置く」ということなのじゃないかと思う。

だから、僕が思う、しあわせになるためにいちばん大切なことは、
「自分をだまさないこと、自分に対して説得力をもつこと」。
僕の思考の基礎は、いつもここにある。

「塵が積もって山となる前にみんな死ぬ」

最近僕がたどり着いた真理のようなもの。

「塵も積もれば山となる」という言葉が、実感として役に立つことってほとんどない。
もっと時間の流れがゆっくりだった大昔には役に立ったのかもしれないけど、
現代の世の中を生きている感覚としては、
「塵が積もって山になるのなんて待っていられない」。
むしろ「これは塵みたいなものだ」と早めに見極めて、
些細なことに時間や労力を割かないことが、すごく重要なんじゃないかと思う。

僕がよく口にする言葉に、
「減点法より加点法」とか、「100点満点を目指して潰れるより、
70点の経験をいくつもつくっていくのがいい」というのも本質は同じ。
「これは些細なことで、自分の人生にとってはなんの影響もない」
と思いきることで、本当に大事だと自分が思う人やことに、
時間と労力を使うことができる。
それこそが人生を「主観的に」しあわせに生きるコツなんじゃないかと、
僕は思うのだ。

さぁ、みなさん、ご一緒に。
「塵が積もって山となる前にみんな死ぬ」

非活動的な休日を過ごす意味

予定のない休日に、家から一歩も出ないことが増えた。
少し前まで僕は「やりたいことが多すぎて時間が足りないばかりで、
ついぞ「暇だ」という感覚を味わったことがない」などと言っていたくらいなのに、
ここ数ヶ月の休みの日は「やりたいこと」をやる気にもなれず、
家でだらだらとしていたらいつの間にか一日が終わっていた、
というようなことばかりだ。

慣れない仕事で、頭を使いすぎて、全身が常に疲れているような気がしている。
決して長時間労働ではないし、夜に寝付けないこともなく、
むしろ首都圏にいた頃よりはるかに長く寝ているのに、どうにも疲れが回復しない。

どうしてだろう? と考えてみると、たぶんちょっとここ一年、頭と体に入ってくる情報量が多すぎていっぱいいっぱいなんだと思う。
ここ一年の人生の密度が濃すぎる、と言ってもいい。
引っ越してきた長野県は、「見るべき場所」が無数にある観光地だし、
「この町のよいところを発掘するのが僕らの仕事」なんて言って、
いろいろなところに出入りしている。
まるで毎日が旅行中みたいな感じで、一人きりの暇な休日に、
「さあどこかに行こう」と思っても、
仕事の延長みたいな気分になってしまう。
むしろ、オフの日には脳みそもオフになって、
読書や映画を見るといったインプットも、
小説を書いたり絵を描いたりといったアウトプットも、
どこかへ出かけ、何かをすることを企画するようなことも、
どれも億劫に感じてしまう。

まぁ、これが特に悪いというわけでもなく、
僕の中でのインプットやアウトプットの欲は今は仕事で十分に満たされていて、
特に欲していない、ということなのかもしれない。
これまでの人生を振り返ってみても、仕事にやりがいがあるときほど、
趣味に力を入れなくなるのはいつものことだし、
今の仕事、大変さが大きいけど、ちゃんと手応えも感じているってことなのだろうな。
僕にしかできないことをしているという感覚があるし、
周囲から頼られている感じは、正直言って気持ちいい。

僕は、性格というか特性上、放っておくととにかく心身のバランスが崩れやすい。
休日になるべく刺激を減らして省エネに過ごすことは、
自分自身のバランスをとるための、僕の作戦なのかもしれないな。

手書き日記をはじめてみた。

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SNSにあげるために手書きで書く、ってなんだかずいぶん無駄なことをしているようだけど、キーボードを叩くときとペンを走らせるときでは、思考のテンポが違う気がする。

僕の場合、なぜか手書きの方が早口というか、後から後から文章がわいてくることが多い。だから書くのが追いつかなくて、ついつい走り書きのようなあまりきれいではない字になってしまうのだけどね。

使っているペンは、PILOTの新製品、Juice upの0.3mmブルーブラック。

後から後から湧き出る思考に合わせて速書きをしても引っかかりにくく、かといって滑りすぎて字がつながってしまったりもしない、絶妙な書き味。

毎日Twitterで140字でつぶやくのになれていると、A5のノート1ページにびっしり書く、というのは意外と長く感じる。その分、思いつきをいつもよりは少し深めに考察することができて、自分自身の思考について、意外な発見があったりする。

もしこれを習慣にできたら、自分を見つめるのにずいぶんと役に立つのではないだろうか。

「毎日必ず日記を書こう」なんて考えるときっと続かないので、ときどき忘れてもいい、くらいのスタンスで、わりと長めに続けていけるといいな。

 

10年後に思いを馳せる。

最近、不安と心配がつきない僕は、しょっちゅう1ヶ月後のことを考えている。
ここ1年間の新しい仕事で任されている冊子の締め切りがそこにあるからだ。
1ヶ月後、仕事が全然間に合わなくて、
この1年間の僕が役立たずだったことが白日の下にさらされてしまうのではないか。
1年間で知り合った人たちすべてに見限られてしまうのではないか。
そんな妄想にもにた不安がよぎることもある。
(おそらくそんなことにはならないと思うのだけど)

その一方で、「たったの1年間」とも思う。
たったの1年前、僕はこの場所で何者でもなかった。
ここで得たものをすべて失ったところで、たったの1年前に戻るだけだ。
いや、得たもの――失わないものは、確かにある。
時間を巻き戻すことはできないけど、立場を失ったとしても、
残るのは1年前にはなかった経験を刻んだ僕だ。

何がその理由なのかは分からないけど、僕は自分を根無し草だと感じている。
どこか特定の土地やコミュニティに、愛着を持ったことがほとんどない。
今僕のいる長野県の田舎では、多くの人が生まれた土地、
育った土地に強い愛着を感じているようで、その様子を僕は、
遠い世界のことのように見ている。
僕にももちろん故郷はあるが、数年に一度そこに帰ったとしても、
そこに僕の居場所など別に見いだせないし、他に無数にある町との差は感じない。

それをさびしく思うこともなくはないのだけど、
土地にこだわらないことは執着がないことでもある。
「いつだって新天地に行けばいい」という気持ちは僕の不安を軽くしてくれる。

僕の「居場所」は物理的な場所ではない。
人とのつながりだ。そのつながりだって、一年もすれば顔ぶれは大きく変わる。
儚いとも言えるかもしれないけど、
流動性こそが心からの自主性を保証していくれている。
心からつながっていたいと思う人とは、ちゃんとつながっていられる。
そもそもの僕のつながりはもはや、土地や育ってきた環境や、
共有してきた思い出の数なんかとはまるで関係ないものなのだから。
だから僕はどこへ行こうとも、僕自身を見失わない。

5年ごとに自分の人生を振り返ろう、と思う。
社会の中で認められようともがいていた22~25歳。
「自分の選択」で「やりたいこと」を必死でやった26~30歳。
知らなかった世界を見てみよう、と踏みだした31歳~今、34歳。

10年後にはどうなっているだろう、と考える。
僕自身がどんな生活をするかどうかだけでなく、10年後には確実に時代が変わっている。
今、社会の中で過ごしてはっきりと思うのは、
30年前につくられた仕組みの残り香がまだ幅をきかせているということと、
それは確実にあと10~15年でほぼ一掃されるであろうこと。
今の社会で想像できる範囲で自分の10年後の姿を思い浮かべたって、
それはたぶん意味がない。

必要なのはしがみつかない気持ちと、環境が変わっても変わらないつながり。
未来は少なくとも僕にとって、より生きやすくなるであろうという希望が、確かにある。
10年後にも笑っていたいから、今の自分を過小評価しないようにしよう。

僕の文章を読んでくれるようなあなたも、きっとそうじゃないかな。
今、生きづらさを感じている人たちのための未来が、
少しずつ、少しずつ、足音を立て始めたのが、僕には聞こえる。

ちなみに、
今からやっておくといいものは何かなぁ。
やっぱり、英語かな。
より多くの世界とアクセスできるツールは、とても大事だな。
なんて考えてみたり。

依存気味のTwitterを、ちょっとおやすみ。

昨日、Twitterでこう宣言して、スマホからTwitterのアプリのショートカットを削除した。
ふと気がつくとすぐにタイムラインを眺めてしまって、
一日のつぶやきを全部追いかけようとしてしまって、
それがかなりの時間を浪費してしまっているように感じていたし、
最近僕自身がストレスを感じているので、刺激はなるべく減らしたいと考えたのだ。

そして今日、まだ一日も経たないというのに、
たびたびTwitterを開こうとしてしまう僕がいる。
普通に生活していても「あ、これTwitterに書こう」と思ってしまったり、
ごはんを食べ終わってぼーっとしているとき、
Twitterのタイムラインを眺める、ということをしないでいると、
手持ち無沙汰でやることがないと感じてしまったりしていた。

なんという依存!
せっかくいい機会なので、どうして僕がこんなにTwitterに依存してしまっているのか、
自分なりに考えてみよう。

ひとつはやはり、「つながりを欲している」からだろうな。
僕は4月に長野県という、縁もゆかりもない土地にやってきて、
慣れない仕事をやっている。
職場の人たちはとてもいい人だけど、
僕はここまでの人生で築いてきた「自分なりの世界」がわりと強固にあるので、
それを出会って間もない人たちと共有することは難しい。
僕が腹を割って心から話せる人といえば、奥さんの他はみな、離れたところにいる。
となると、「話したいけど話せないこと」が毎日おなかの奥にたまっていって、
ちょっと苦しくなる。そういうときにTwitterで吐き出せば、
タイムラインの向こうには、気心の知れたフォロワーさんがいて、
すぐに反応してくれる。
これがよいことなのかどうか難しいところだけど、
僕ははじめからネット上の「文月煉」という人格を、
「言いたいことを何でも言ってしまう存在」として作り上げているから、
何も気にかけずにすべてを書き込めるTwitterは、とても心地がよい。

つぶやく方だけじゃなくて、タイムラインを眺めることも、僕には魅力的だ。
そもそも活字中毒気味の僕は、いつでも「言語」を、
そしてその奥にある「思考」を求めている。
いろんな思考に触れるという知的好奇心が、
僕のアイデンティティを形成しているといってもいい。

しかしそんな偉そうなことを言いながら、日々の忙しさにかまけて
「めんどくさいことはしたくない」という怠け心も僕の中にははっきりとある。
というかむしろ、僕は類い希なる怠け者といっていい。
いつも楽することばかり考えて、面倒なことは逃げ出したいと思っている。
楽をして満足したり、楽をして欲求を満たせたら万々歳。
そんな僕にとってタイムラインにあふれる「言葉」たちは、
ファストフードのようなものだ。
長い本を読み通すのはめんどくさい。
そんなことせずにお手軽に「思考」に触れて、とりあえず知的好奇心を慰めたい。
そんな欲求に応えてくれるTwitter

とはいっても、僕はこれまで自分がTwitterに、
依存してきたことを後悔しているわけではない。
憂鬱気味で、腹の中に黒いものをためていたとき、
狭い世界でがむしゃらになっていることにむなしさを感じていたとき。
Twitterは僕を確かに助けてくれていた。
だからこれからも使い続けたいと思う。

ただ、あまり依存していると、知らず知らずのうちに疲れはててしまうので、
ときどき距離を置いて、ほどほどにね。

安全圏から他人を断罪するという快楽に抗え

Twitterでこうつぶやいたところ、かなり多くの反応を得た。
こういうことに共感する人は日に日に増えているのだろう。
にも関わらず、こういう馬鹿げた報道は減らないし、
テレビのワイドショーは相変わらずこの手の映像垂れ流し、
コメンテーターは「介護を言い訳にした不倫はよくないですよね」と知った口を叩く。

メディアが悪いのは間違いないが、確かにそれを求めている人がいる、
というのはよく分かる。
他人を安全圏から断罪するのは、「気持ちいい」のだ。

かつて、江戸時代や中世のヨーロッパで、あるいは現代の中東などの一部の国で、
公開処刑」が最大の娯楽として通用しているのと同じ原理だ。

資本主義経済では、お金を稼ぐことは善とされる。
原則として、
「たくさんお金をもらえるということは、
それを求めている人に応えているということだから、
より多くの人をしあわせにしている。
だからそういう人は多くの見返りを受ける権利がある」
という考え方。
だからタレントのスキャンダルや暴露報道なんかも、
「知りたいという人がいるからそれに応えて何が悪い」と言いがちだ。
でもこの理屈では、覚醒剤を密売して大儲けする人を非難できなくなってしまう。

「職業に貴賎なし」と言うけれど、それは嘘だ。
がんばって仕事をすればするほど、人を傷つけ、社会を悪くするような仕事もある。
倫理を持たずにする仕事は、尊くない。それは奴隷の仕事だ。

僕自身の譲れないわがままとして、
生きるために倫理を捨てて、社会を悪くするような仕事に従事することがないように、
誇りをもって生きたいと思う。

 

globe

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殺して忘れる社会---ゼロ年代「高度情報化」のジレンマ

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