僕が生きていく世界

人と少しだけ違うかもしれない考え方や視点、ぐるぐると考えるのが好きです。 あくまで、僕個人の考え方です。 みんながみんな、違う考えを持っていていい。 いろんなコメントも、お待ちしてますよ。

32歳だけど高熱を出すと泣きます。

高熱を出している。
39.5℃くらい。病院に行ったけど、インフルではないらしい。
まぁ、これくらいの熱なら僕にとっては日常茶飯事だ。

認めたくないのだけど、僕は虚弱らしい。
年に3,4回は高熱を出して3日くらい寝込む。
40℃を超えることも珍しくない。

僕はふだん、あまり感情を露わにしないけれど、
体が弱っていると途端に理性の力が弱くなる。
高熱を出すとよく泣く。
小さい頃から、僕が泣くときはほとんど「悔し涙」だった。
高熱のときの涙もそう。
思い通りにならない自分の体の不甲斐なさが、悔しくて泣く。

健康になりたい、とは思う。
でも逆に言えば、文明が発達する前までは、
僕みたいな存在は幼児の頃に死んでいたのだろう、
と思うと、現代に生まれたおかげで生きられているのかな、と思う。

こんな僕でも、どうにかこうにか、生き延びてやるぞ。
そう思わなくもない。

「青少年に悪影響」なSMAPの謝罪

ふだんテレビを見ないし、タレントにはほぼ興味がないのだけど、
Twitterを眺めていたら「SMAPがスマスマの冒頭で謝罪した」という話が流れてきて驚いた。

なにに対して謝っているのかよくわからない言い方。
表情でものを伝えることになれているはずのプロフェッショナルたちの、
おそろしく暗いあの表情。
何かを謝罪したいと思っていってるのではなくて、
「謝罪しろといわれたので謝罪している」
ということがよくわかる。
自分の言葉で語らないメンバーたち。

ネット上でさんざん言われているように、
あれは見せしめなのだろうか。
クーデターを計画し、失敗したメンバーたちが、
事務所の社長という「皇帝」に膝を屈したということなのか。
もしそうだとしたら、とてつもなく暗いメッセージだ。
「国民的アイドル」とまで言われる人たちによる、
「アイドルは事務所の奴隷です」という表明。
「奴隷の分際で、自由になろうとしたことが間違いでした」という謝罪。
それを、「自分たちの意志で」謝罪しているように見せる演出がえげつない。

よく、タレントが何か悪いことをすると、
「青少年に悪影響だ」とかなんとか言って、
めちゃくちゃに叩かれる。
こういう言い方は好きじゃないけど、
今回のことほど青少年に悪影響なことはそうないだろう。
「人々に希望を与える」アイドルが、
「希望なんて持つな、あきらめろ」
「黙っていいなりになるしかない。逆らえば罰を受け、謝罪させられる」
と伝えてしまっているのだから。

唯一の希望は、会見をするメンバーたちが、
納得していないように見えるところだ。
あの公開処刑のような会見にあえて乗ることで、
事務所の横暴さを世間に知らしめ、
その後の「自由のための戦い」のための布石としたのではないか。
そんなことを妄想している。

もう、奴隷の作り笑顔は、見たくない。




雪の日に無理して出社するかどうかという話。

今日は夜から朝にかけて積もった雪で東京の交通機関は乱れまくり。

僕の家の最寄り駅もずっと入場規制をしているとかで、
無理して電車に乗ったとしても、のろのろ運転かつすし詰めで、
会社まではいつもの何倍もの時間がかかり、きっと体調も崩す。
というわけで交通機関が完全に回復するまで自宅待機。
こういうとき、休んだら給料が出ないだけの非正規社員は気楽だ。

こういうことがあると、「こんな日に休めない日本の企業なんて!」
っていう話がよく出てくるけど、
実際のところ、どれくらい「休めない」ものなんだろうね。
本当は勇気を出して「休みます」って言ってしまえばなんとかなることも多いのに、
自主的に空気を読んじゃったり、自己判断するのがこわかったりして無理をしてしまう、
ということがよくあるのかもね。

僕が勤めたのは3社だけで、どれも特別に「いい会社」だったとは思わないけど
(いろいろと仕組みに問題はあったし、いわゆる「ブラック」だった……)、
それでもこういうときに「はってでもこい!」みたいなこという会社はなかったな。
自己判断で休んでた人に文句をいう人もいなかったと思う。

もちろんいろんな仕事があるので、
「みんな休んじゃえばいいのに」と簡単には言えないけど、
「こんなときに出勤させる日本企業はクソ」ってのは実際とはちょっと違っていて、
社員それぞれの「過剰な配慮やおそれ」が背景にある気がする。
何を隠そう僕自身も、少し前まで、
「絶対に行かなきゃ」教を信仰していた人なので偉そうなことは言えない。
誰もそんなこと直接は言ってないのに、
「もしかしたらやる気のないやつだと思われてしまうかもしれない」
みたいな恐怖で、自分で自分を縛ってしまうのだ。

そんなわけで、
「みんな頑張ってるんだから僕も行かなきゃ!」って気持ちになって
無理して出勤してしまう人の気持ちはめちゃくちゃわかるし、
責める気は全くしない。
でも、自分が無理して行ったからって、
来なかった人を「あいつはやる気がない」ととがめるような人のことは責めたい。

映画『ホビット』を見た。

AmazonPrimeビデオに二作目までが入ったということで、
ホビット』見ました。



前に1作目と2作目は見ていたのだけど、この際、と思って2作目をもう一度見始めたら面白すぎて、
ついつい3作目もAmazonビデオでレンタルして見ました。

1作目と2作目だけプライムにするアマゾンもなかなかやるな、と思ったけど、
まぁ、3作めだってレンタルで、家から一歩も出ずに400円で見られるんだからすごい時代だ。

 

実は僕は映像を長く見ているのが苦手で、普通に2時間の映画だって結構辛くて、
一年に1つか2つくらいしか映画を見ない人なので、
2作連続、合計5時間以上映画を見たなんて、僕としてはすごすぎる。
それだけすんごい作品だったってわけで。

 

まぁ、見ればハマることは間違いなくわかっていたわけですよ。
ロード・オブ・ザ・リングのあの信じられないクオリティを考えれば、続編がつまらないわけがないじゃないか。
しかもですよ、二作目からはばっちりあのレゴラスが出てくることも知っていたわけで。

 

ああレゴラス
僕はレゴラス演じるオーランド・ブルームは世界一かっこいい俳優だと思っているわけです。
ロード・オブ・ザ・リング1作目を見たとき、僕はこう思ってたわけですよ。
「しかし、超美形のエルフはどうするつもりなんだろうなー。筋金入りのファンタジー好きの僕としては、ちょっとやそっとの美形じゃエルフとは認められないな-、ま、どうせ期待はずれなんだろうけど、ちょっくら見てみるか」
我ながらクソ生意気な高校生ですね。ぶん殴ってやりたい。
ところが、ロード・オブ・ザ・リングを劇場で見て、僕はもう言葉を失ってしまった。
なななな、なんだこれは。非の打ち所がないじゃないか。
彼は本当にエルフに違いない。そうじゃなきゃなんだっていうの??
……ちょっと熱くなりすぎました。

 

でも実際のところ、原作を比較すると、指輪物語よりホビットの冒険のほうが面白い、なんてことはありえないわけです。
だから、ロード・オブ・ザ・リングの後にホビットをやるのは無謀じゃないかな、とずっと思っていました。
指輪物語の豪華絢爛なキャラクターに対して、ホビットの冒険に出てくるのは冴えないドワーフばっかり。
いやこれ大丈夫かよ、面白くなるのかよ、という心配もかなりあり。
でも、そこはちゃんとオリジナルの話をたくさん織り交ぜて、すごい作品にしあげていました。
ロード・オブ・ザ・リング」は原作がすごいけど、「ホビット」は脚本がすごい。

 

「かっこ良くて性格も優れている英雄たちの物語」だったロード・オブ・ザ・リングと違って、
ホビットに出てくる登場人物は、弱かったり、情けなかったり、嫌なやつばかり。
旅の仲間も、熱い絆で結ばれているんじゃなくて、喧嘩ばっかりしていたり、疑心暗鬼だったり、一癖も二癖もあるやつばかりが出てくる。
でもだからこそ、「決して英雄じゃないし臆病だけど、約束は守るし仲間思い」というビルボの美点が、際立って見える。

 

戦いも、ロード・オブ・ザ・リングの方は、能動的な、強い信念のもとの戦いだったけれど、
ホビットでは、みんなほぼ巻き込まれるような形で戦っていて、そこには栄光も正義もない。
だからこそ、より人間臭くて、共感せずにはいられない、そんな作品にしあがっている。

 

 

(1/19 以下、追記)

やっぱりこの作品のいちばんの魅力は、

ビルボの「素朴で純粋な善」だと思う。

 

ホビットは神をもたない。地位も名誉も、彼らにはほとんど関係ない。

作中でドワーフたちは、ことさらに自分の血筋の良さと誇りを口にするが、

ビルボにはそんなものはなんの関係もない。

にも関わらず、ビルボの成す「善」は、誰よりもすごい。

 

理不尽にも、ドワーフ達によって彼らの富を奪い返す手伝いをさせられ、

たった一人で龍の住むところから「アーケン石」という宝物を探してこい、

と言われたときも、そんな義理はないのに恐ろしさをこらえて向かっていく。

ドワーフで唯一、ビルボのことを気にかけてくれるバーリンが、

「断ってもよいのだ。恥ではない」と告げると、ビルボはこう言う。

「行きますよ、だって……契約したから」

このシーンのビルボの演技が、秀逸だ。

彼は自分が仲間のために命がけで宝を探しに行く理由を、

「契約したから」というが、それを言う前に少し間がある。

明らかに「何を言うべきか探している間」だ。

つまりビルボは、「行きますよ、だって……」と口にしたときには、

自分でもそれがなぜなのか、わかっていないのだ。

 

ビルボは、自分の善を説明する言葉をもたない。

それこそが彼の善が、極めて素朴であり、純粋なものである所以だ。

ビルボが口にした「契約」は、

旅に出るときにドワーフたちと交わした契約のことなのだけど、

それはほとんど無理矢理に勢いでサインさせられたものであって、

大した根拠になるようなものではない。

だからそれは、「契約してしまったから断れない」というような意味ではなく、

(実際、契約を交わした当人であるバーリンが、「断ってもいい」と言っている)

「仲間の期待には出来る限り応える」「約束はちゃんと守る」

というような、ビルボにとってはごく当たり前なことなのだ。

 

実際に竜の住処に行き、文字通りの宝の山の中からアーケン石を探すときも、

ビルボは目もくらむような宝には見向きもせず、ただ仲間との約束を果たすため、

アーケン石だけを探し続ける。

そして、目を覚ました竜が吐いた炎から、命からがら身をかわしたときに、

竜の一瞬のすきを突いてアーケン石を拾う!

このシーンは本当にすごい。

その場にいるのは邪悪な竜とビルボだけ。ドワーフはひとりも見ていない。 

絶体絶命の大ピンチで、宝を諦めて裸足で逃げ出したところで

誰も責めようがない、そんな状況で。

ビルボはまだ、ドワーフのために石を探し続けていたのだ!

このときのビルボはまるで、イエス=キリストのようでさえある。

一切の見返りを求めない、純粋なる善。

それでいて、彼はそのことに対して無意識なのだ。

 

世界の行く末にまで介入する偉大な魔法使いであるガンダルフが、

一見とるに足らないように見えるホビットという種族に、

やたらと肩入れする理由が、ビルボの姿を通してよく分かる。

そしてたぶん、トールキンが書きたかったのも、そういうことなのだ。

「味わう」時間が必要だ。

職場には給湯室があって、いつでもお湯を使うことができるから、
お湯で溶かすインスタントドリンクの類を愛用している。
新しいのを試してみるのが好きで、
しょっちゅうコンビニに寄っては、新製品がないかチェックしている。
最近は結構色んなものがあって、「スパイスココア」とか「ジンジャーアップル」とか、
変わったのも多くてとても楽しい。
で、新製品を買った後は早速入れて、仕事をしながら飲むわけだけど。

昼休みが終わる→ドリンクを作る→ドリンクが入ったカップを置いて、飲みながら仕事
→仕事が一段落してふと気づくと、カップは空になっている

ということがほとんどで。
仕事しながら何気なく飲んでいると、実はほとんどドリンクの味を覚えていない!
ということに気がついた。
入れたことに満足してしまって、「味わう」時間を取るのを忘れてしまっていたのだ。

食べ物や飲み物にかぎらず、いろんなことについて、
この「味わう」時間が必要なんじゃないかと思う。
毎日忙しく働いていると、やらなければならない「タスク」が増えていく。
時間に追われているのに慣れると、仕事だけじゃなくて、
趣味ややりたいこと、いろんな楽しみまでも、ついつい「タスク化」してしまう。
本を何冊読む、だとか、このアニメを何話みる、だとか。
買い物も、休日のイベントも、果ては大好きな人とのデートや、セックスまでも……?
とにかくいろんなことをタスク化して、
やり終えたらタスクボックスにチェックを入れる、みたいな感覚が増えていく。

ふと立ち止まって振り返ってみると、そうやって「こなして」いったことは、
全然記憶に残っていない。
これじゃああまりにももったいない。
大事なのは、ほんの少しでもいいから、「味わう」時間をつくることだ。
ふっと肩の力を抜いて、直前の行動を振り返りつつ、
そのときの感覚や感情にゆっくりと浸る。
次の行動に移る前に、そういう時間が、必要だ。

これは前に書いた、「行動までのロスを減らしたい。
というのと対になっている。
「やろうかな」と思いついたことは、時間のロスなくすぐに行動に移し、
行動した後には、きちんと「味わう」。
こうすることで、毎日がほんの少し、有意義で豊かなものになりそうだ。

Kindleがいとしい。

昨日の夜、こたつでネットサーフィンしていたら、
Twitterの「#あなたの大好きな児童文学教えてください」というタグで、
仲の良いフォロワーさんたち複数が「ダレン・シャン」を挙げていたのを見て、
「そういえば、前から読んでみたいと思っていたのに機会を失して、まだ読んでなかった」
ということを思い出して、
即効でKindleで「ダレン・シャン1巻」購入してお風呂に入りながら読み、
今朝の通勤電車でも読み、今日のお昼休みにはもう読破していた。

我ながらなんという早業。
これも、Kindle(というか電子書籍)だからこそなせる業なわけで。
思い立ったら即読む!という勢いはとても大事だ。
この勢いがなかったら、もしかしたらこの先も長いこと、
僕がダレン・シャンを読む機会はなかったかもしれない。

ああ、Kindleのある世界、いいなぁ。
ちなみに僕の愛機はKindle Paperwhiteの2012年モデル。
たぶん今のやつはもっと性能がいいのだろうけど、
ふつうに文章を読むには、今のでも十分。

なんだか世間では未だに「電子書籍なんて」っていう人がいるけれど、
紙の本と電子書籍ではそれぞれのメリットとデメリットがあまりに違うんだから、
どっちがいい、なんて競う必要はなくて、
それぞれのメリットを認めつつ共存させたらいいのに、と思う。

電子書籍は、紙の本より定価がだいたい10%くらい安いし、
ちょくちょくセールをやってて、本がめちゃくちゃ安く手に入ることも多いから、
端末代なんて1年くらいで元が取れる。
何よりも、たとえセール価格とはいえど、電子書籍で買えば古本とは違って、
ちゃんと作者や出版社にお金が入る、ってことがうれしい。
いちばんわかりやすい応援の仕方だもんね。

10インチタブレットを手に入れてからは、
電子書籍のマンガが見開きで読めるので、こちらもはかどりそう。
電子読書生活、楽しんでます。

Kindle Wi-Fi、ブラック、キャンペーン情報つきモデル、電子書籍リーダー
  by カエレバ
ダレン・シャン1 奇怪なサーカス (小学館ファンタジー文庫)
  by カエレバ

みんな、年齢について気にしすぎなんじゃない?

ふと、思いついた。

 

「どうせ死ぬ年齢は人によってまちまちなんだから、今の自分が何歳か、
なんてこと、いちいち気にする必要なんてないんじゃないの?」

 

誰が何歳まで生きるかなんて、死んでみるまでわからない。
ってことはつまり、「今が人生の何合目」なのかさえわからないわけだ。
わかるのはたかだか「生まれてから何年経ったか」ということだけ。
その年齢が、自分の人生のどのくらいの位置に当たるか、
それは人によってぜんぜん違う。

 

何ができて何ができないか、というときも、
成長曲線の形は人によって様々だし、
その物事が、その人にとってどれくらいの重要度を占めているか、
優先順位はどれくらいか、とか、
その人は他に何ができるかとか。
そういう条件だって人によってぜんぜん違う。

 

それなのに世の中は、必要以上に同じ年齢で一列に並べて、
ぜんぜん違う人間たちを比べたがる。
「○歳にもなってこんなことするなんて」とか、
「○歳でそれは早過ぎる」とか、
「○歳ならこれくらいのことはできないと」とか。

 

年齢によって軽んじたり、
年齢を言い訳にしたり。
そういうの、もうやめちゃえばいいんじゃないかな。
僕もこれからは、あんまり自分の年齢を表明するのやめようかな。
それってそんなに重要な事じゃないよ、きっと。