僕が生きていく世界

人と少しだけ違うかもしれない考え方や視点、ぐるぐると考えるのが好きです。 あくまで、僕個人の考え方です。 みんながみんな、違う考えを持っていていい。 いろんなコメントも、お待ちしてますよ。

呪いを解く人になりたい。

現代の日本には(外国に住んだことはないので、比較して、ということではないけど)、「誰かを呪う言葉」があふれていると思う。
呪いは、僕たちに「ねばならない」を強制し、今いるところに縛り付ける。

「普通でなければならない」という呪い、
「多くの人ができることはできなくてはならない」という呪い、
「他人に違和感を与えてはならない」という呪い、
年齢の呪い、性別の呪い、恋愛の呪い。
親からの呪い、恋人からの呪い、地域からの呪い、職場からの呪い、
そしてメディアで目にしたことによる呪い。

僕は、そういう呪いを、解く人になりたいと思う。

優等生じゃなくていい。
毎日元気に働けなくてもいい。
誰にでも優しくできなくてもいい。
友だちが多くなくてもいい。
家族と仲良くならなくてもいい。
結婚しなくてもいい。
恋人がいなくてもいい。
どんな服を着てもいい。
〇歳でこんなことするなんて、と思わなくていい。
合わないところからは逃げていい。
空気を読まなくてもいい。
相手の気持ちを探らなくてもいい。

そう言い続けることで、たぶん、解ける呪いもいっぱいある。
少なくとも僕はそうだったよ。

マイノリティは「あちら側」の人たち?

週末に我が家に恋人が遊びに来ていて、「わたしはポリアモリーです、って宣言したりするの、なんか違う気がするんだよね」という話をしたりした。

僕はかつて「僕はポリアモリー」っていうブログ記事を書いたけど、確かに今になってみると「これって宣言するようなものじゃないかもな」と思ったりもしている。

ポリアモリーは「性質」なのか「ライフスタイル」なのか、っていうのがたびたび話題になる。「性質」というと属人的で、「人」が(先天的であれ後天的であれ)そういう特徴をもっているということになる。なんとなく「自分の意志では変えられない」というようなニュアンスもある。一方で「ライフスタイル」と言えば、自分の意志で選び取ったものとして「ポリアモリーという生き方」があるような感じ。

僕の今の時点の実感としてはそのどちらもしっくりこなくて、変わらない「性質」でも選び取った「ライフスタイル」でもなくて、単なる「今の状態」をあらわすもので、偶然のタイミングや、自分の選択、周囲の人との関わりなどによる結果に過ぎないんじゃないか、と感じている。

あくまでも「今の状態」だから今後変わるかもしれないし、たまたまそういう状態になる条件がそろっていただけであって、はじめから「こうなろう」と思って他人との関係を作り上げてきたわけでもない。
要は、「そうでない人と、明確な線引きができるようなものじゃない」ってことが言いたいんだけどね。
「変わることもある」「それは自分のはっきりとした意志とは限らない」ってことは、誰だって状況によってはその状態になり得るってことでもある。

そしてこのことって、ポリアモリーに限らず、実はあらゆるマイノリティに言えるんじゃないかなと思う。

「(生まれつきの、変えられない)性質だ」というのも「(確固たる意志のもとに選び取った)ライフスタイルだ」というのも、どちらも「こちら側とあちら側」を分けてしまう根拠になりがちだと思う。おかげでマイノリティについて、「(わたしたちとは違う)LGBTの人たち」みたいな言い方があふれているけど、とても違和感がある。

あちら側もこちら側もないんだよ。おそらくはあらゆる人が、何かしらの面においてはマイノリティなんだし。だからこそ、マイノリティを優遇するんじゃなくて、マジョリティじゃなくても大丈夫、不便にならずに生きていけるようにしよう、ということ。

「こういう性質をもつ特別な人がいるから差別しないように」ってことじゃなくて、「だれもが状況によってマイノリティの状態になり得る」。だから、マイノリティを差別しない、ということは「お情けで差別しないであげる」のではなくて、自分をふくむあらゆる人が生きやすくなるために差別をなくすべき、ということのはず。

「マイノリティを支援するのはマイノリティのためではない」
そして、
「当事者と非当事者なんていない」。

だから、最近の「LGBT教育」にありがちな、「かわいそうだから、マイノリティを差別するのはやめましょう」という教育はまったく正しくない。
「誰かが多数派と異なる行動をとるのを見て、差別したりあざ笑ったりするのは愚かなことであり、それは社会を悪くしているということに気づきましょう」が本当だと思う。

「自分がいつか多数派ではなくなるのではないか」と怯えながら生きなくて済む未来をつくっていくために。

余裕と自信がなくなってる

最近僕はどうやら余裕と自信を失っているみたいだ。
客観的に見るとかなり満たされているし、ひどい状況にいるわけではない。
なのになぜだか、どーんと構えていられないらしい。

仕事で、地域中の矢面にさらされる立場にいるからかな。
ようやく動き出した様々な仕事がすべて手探りで、やっていることが正しいか、びくびくおびえながら確認せざるを得ない状況だからかな。

原因はいろいろありそうだけど、結果として「余裕がなくなると、必要以上に他者からの承認を欲しがってしまう」ということを、身をもって示してしまっている。

僕はたくさんの人に、じんわりと静かに愛されている。
それはわかっているはずなのに、必要以上に「ねぇねぇ、僕のこと好き?どうなの??」と確認したくなってしまう。
悪くすると、わざと失礼なことや困らせることを言って、「僕なら許してもらえるはず」ということを確認する「試し行動」みたいなこともしてしまっているようだ。
「あ、よくないことをしたな」と思っても、とっさに自分を正当化できる言い訳を探してしまう。

よくない。ちょっと今の僕、イヤだな。
さらに自信を失う悪循環にならないように、いったんこの流れを止めよう。
自分を正当化する言い訳ができる場所としてのTwitterを、ちょっとお休み。
とはいえ、やっぱり僕にとってあの場所は大事なので、すぐに戻ってくると思うけどね。

大好きなあの人を、なんて呼ぼうか。

「恋人」「付き合っている人」「相方」「パートナー」「愛する人」「好きな人」。

親密な関係を築いている相手を呼ぶ言葉はたくさんある。それぞれのニュアンスは少しずつ違っているけれど、はっきりとした定義があるわけではなくて、境界はあいまいだ。

「恋人」「付き合っている人」は、たがいにはっきりとした約束をした関係、という感じ。僕の場合は違うけれど、一般的には「ほかの人とは付き合わない約束を交わしている」という意味も含むのかも。

「相方」「パートナー」は、少し、恋愛的な要素を薄めているような感じ。そういう照れ隠し、という意図もあるかもしれない。「たったひとりきりの」というニュアンスは、こちらもなんとなくあるな。

愛する人」は、すごく意志と覚悟をもっている感じ。やや重いくらい。「好きな人」はそれよりずっとライトだけど、あまりに幅広くて、その言葉だけではニュアンスをつかみづらい。(そういえば、女性は友人にも「好きな人」という言葉を使うことがわりとあるけれど、男性はかなり使いづらいように感じる)

僕が自分の感情にしたがって、親密な相手にこれらの言葉を使おうと思うとき、どの言葉もあまりしっくりこないなぁと感じる。

「たったひとりきり」を約束したりはしない。必ずしも恋愛や性愛ではない。そして、重くも、軽くもない言葉。

ふと思いついたのは「愛しい人」。
これならしっくりくるかもしれない。愛しい人とは、約束を必要としない。「愛する」のように能動的な意志や行為でもない。ただ、自然と湧き上がってくる愛しいという気持ち。

「あなたは僕の愛しい人なんだから、○○をしてくれるべき」なんて言葉は成立しない。愛しい人は、ただそうあるだけ。会えたらうれしいけど、どこか離れたところでしあわせでいてくれたらそれでもいい。愛ではあるけれど、必ずしも恋や性はなくていい。

これまでインタビューなどで「奥さんがいて、恋人もいます、それからほかにも好きな人はたくさん……」と自己紹介してきたけれど、いまいちしっくり来てなかった。(好きな人ってのは恋人じゃないの?じゃあ、友達とどう違うの?とよく聞かれていて、なかなかうまく答えられなかった)

今度からは「愛しい人がいっぱいいるんですよ」って答えることにしようかな。

「責任感」がきらい。

「責任感」という言葉がきらいだ。
「もっと責任感をもて」「お前は責任感がない」どれも人を追い詰める言葉だと思う。

そもそも「責任」の有無という極めて重要な問題に対して、「感」ってなんだよ。フィーリングかよ。
「感」という言葉には、責任があるかないかははっきりさせず、自分ではどうしようもないことについてもなんとなく罪悪感を覚えておきなさい、と呪いをかけるようなニュアンスがある。

僕はかつて「優等生」で、「責任感の強い子」だったと思う。
自分にはどうにもならないことも自分のせいなのではないか(もしくは、自分のせいだと思われるのではないか)と思って、失敗を極度におそれた。
ずっと失敗しない人生を選んできた。
いちばん失敗せずに住む方法は、「チャレンジしないこと」だ。
新しいことはやらない、誰かが困っていても見なかったふり。
そうすれば、とりあえず責任を取らずに済んだ。
「責任感が強い」からこそ、ほんの少しでも自分の責任になりそうなことは、そもそもやらずに済ませようと考えるような人間だった。

働きはじめると、「責任感が強い」ことが自分も周りも苦しめる。
責任感で「本来責任がないこと」まで無理してやろうとしてしまうと、当然、体や心は壊れる。
しかも、「自分がやっているんだから他人もやるべき」と思ってしまう。
さらに、会社や上司にも「やれるんだからそれを基準に」と思われてしまい、職場の環境は改善されずに放置される。そのしわ寄せは、同僚や後輩、部下に向かう。

僕はしあわせなことに、心から「死にたい」と思うことはほとんどないけれど、ときどき、「逃げたい」と思う。
何から逃げたいかといえば、それは「責任から」だろう。
日本人の「死にたい」の多くは「ハワイに行きたい」という意味だとだれかが言ってたけど、それも多くは「責任から逃げたい」というきもちなのだろう。

僕の感覚では、日本において「責任から逃げたい」と表明することは、「死にたい」ということ以上にタブーであるように思う。
日本社会の規範ではあらゆる人間は、責任感がなくちゃいけない、ということになっているようだ。
「あいつは責任感がない」と思われることは、とてもとてもおそろしい。それだけで死にたくなってしまうほどに。

おそらく日本で自死が多いのは、責任感が強い人が多いからだろう。好奇心は猫を殺すと言うが、責任感は容易に人を殺す。

「無責任」になれ、とは言わない。本当に誰もが無責任だったら世の中はうまく回らない。
だけど、責任というのは、どんなときも常に有限だ。
これを忘れてはいけない。
そして、責任が大切な社会であるからこそ、巧妙にあなたに責任を押し付けようとする人がいるということも、忘れてはならない。

「責任『感』をもて」という言葉を、そのまま受け取ってはならない。
それはあなたに無限の責任を押しつけようとする、呪いの言葉だ。

否定しない居場所。

連休の前半、我が家で煉's Barという名のホームパーティーを開催した。
ツイッターやネットで知り合った人たちが集まる、いわゆるオフ会。
僕の家は長野県で、参加者に長野県民は一人もいないというのに、
7人もの参加者が、東京から、千葉から、岐阜から、群馬から、集まってくれた。

僕と奥さんがカクテルをつくったりコーヒーを淹れたりして振舞い、
みんなでノンテーマでゆったりと語り合う、なんということもない時間。
なのだけど、みんな楽しくて仕方がない、という表情で、
僕も最初から最後まで、終始頬が緩みっぱなしだった。

初参加の人がつぶやいた「ここは、すごく平和で優しい場所だね。」
という言葉が印象的だった。

我が家の壁にいつも貼ってある「煉's Barの心得」の一番最初にあるのは、
「人のことを否定しない。自分とちがう人をおもしろがろう」という言葉。
なんだそんな当たり前のこと、と思うかもしれないけれど、
現実には、世の中には他人を否定する風潮があふれている。
「そんなのおかしいよ」「あなたは変わってるね」
「ふつうはそんなことしないでしょ」「これが常識でしょ」
僕も、僕に興味を持ってくれる人たちも、散々そんな言葉を言われてきた。
学校や職場や地域、「当たり前が支配する場所」では、
自分の考えや言いたいことを、半分も出せずに口を噤んで生きてきた。
そんな人たちが、「人のことを否定しない」場所で、心を解放する。
それが、20回以上続いてきた煉's Barの存在意義だと僕は思っている。

否定しないから、心から笑いあえる、平和で優しいみんなの居場所。
煉's Barは、今回も素敵な笑顔に満ちた空間だったよ。
あなたもいつか、遊びにおいで。

明日は煉's Bar

 

fuduki-ren.hatenablog.jp

 

こんな記事を書いたのはもう二年も前のことだ。

あれから頻度は減ってしまったし、

長野に拠点を移してから参加者も随分少なくなってしまったけど、

今でも「煉’s Books & Bar」は僕にとってかけがえのないものだ。

 

面白いのは、ときが移り変わるにしたがって、

参加者もだんだんと変わっていっているということ。

何回も参加してくれる常連さんもいるけど、

2年前と比べたりすると、ほとんどメンバーは入れ替わっている。

 

必ずしも参加していた人たちと疎遠になってしまったということではなくて、

イベントでなくても、つながっていられる人が煉's Barを卒業した、

みたいな感じになっていることもある。

 

このイベントが、誰かの人生の中で、

大事なターニングポイントになっていたりするのだろうか。

これからも、ゆるゆると、続けていきたい。