僕が生きていく世界

人と少しだけ違うかもしれない考え方や視点、ぐるぐると考えるのが好きです。 あくまで、僕個人の考え方です。 みんながみんな、違う考えを持っていていい。 いろんなコメントも、お待ちしてますよ。

傷つきやすい、君が好き。

最近、心身の具合があまりよくない。
もう聞き飽きた「異常気象」で気圧の乱高下も温度の変化もひどいし、
そのおかげで僕の体調も乱高下。

周囲の健康そのもの、という感じの同僚たちを見ていると、
やっぱり僕はいわゆる「メンヘラ」というやつなんだなぁ、と感じることが増えた。
かつては僕は蔑称として使われる「メンヘラ」という言葉がとても嫌いだったのだけど、多くの典型的な人(定義は難しいけれど)と比べて生きづらい人は確かにいるのだから、それらをまとめて言い表せる言葉として、
「メンタルが弱い人=メンヘラ」という言葉で自覚するのはありかもしれないな、と
最近は思うようになってきた。

僕ももう少し、積極的に自分がメンヘラであることを認めて、名乗ってもいいかな、などとも思う。

「虚弱」でも「デリケート」でも「繊細」でもいいんだけど、なかなかしっくりこないんだもんな。

世の中に「ヘイト・メンヘラ言説」があふれていることの抵抗としての意識もある。
「メンヘラ」という言葉をレッテルとして用いて、自分の気に食わない人間に「これだからメンヘラはめんどくさい」などという人が多いし、
悔しいことにそういうことを堂々と告げるライターは一定の人気を得る。

他人に「メンヘラ」のレッテルを貼って蔑まないと安心できない人は、
十分に「生きづらくメンタルが弱いメンヘラ」の中に含まれると思うのだけど、
なぜかそういう人は自覚はなく、
「自分はメンヘラではないからうまくいっている。
でもメンヘラのせいでしょっちゅう迷惑をこうむっている」などと妄信していたりする。

ともかく、多くの人はそれほど気にすることなくスルー出来るような事柄に、
いちいち気を病んでしまうような、過敏で打たれ弱い、メンタルの弱い人はいる。
少なくとも僕はそう。
だからこそ、その立ち位置を受け入れたうえで、
「僕の目から見た世界と、僕の立ち位置から考えた行動」を発信していくことは、
何かしらの意味があると思っている。

僕の周りには生きづらい人が多い。
まぁ、そりゃそうだろう。
生きづらさを感じたことがない人は、なかなか生きづらい人に共感しづらい。
(共感しようと寄り添ってくれる人がいないわけではない)
何でもかんでも無批判に肯定しあうことがいいわけではないけれど、
自己責任ややる気を強要する社会から、ほっと一息つく場所があってもいいはずだ。

僕は、意識は低いし、やる気はないし、歯を食いしばれないし、
必要とあれば逃げるし、空気は読まないし、立場が上の人への尊敬は足りないよ。
でも自分がより良いと思う選択に対して妥協はしないし、自分に嘘はつかないし、乱高下する気分の中で大惨事にならないように軟着陸の方法を常に探しているよ。

僕らには僕らの生き抜くためのすべがあって、それは多くの人にとっては、
だらしがない、やる気がない、意識が低いことに見えるのかもしれない。
でもそうでないと生き残れないのなら。
周囲の無責任なアドバイスに従って無理をして、追い詰められて、死んでしまっても、
周りの人は責任なんてとってはくれないのだから。

だからこそ僕は、

傷つきやすい、君が好き。

「家族」を排他的なものにしない――非独占愛の先に

世間では、多くの場合「家族」というのは恋、性、愛と不可分に結びつく、と考えられている。
恋人をつくらないと、結婚をしないと……「将来孤独だよ」などと言われてしまうのは、「家族」の前提に「恋」(そして性)があるとされているからだ。
そして恋と性は「独占的で排他的」なものだとされるので、必然的に「家族」も独占的で排他的になる。
しかも、そうしてつくられた「家族」は、生活、経済、責任の単位であると多くの場合考えられている。日本の場合特に、生活の最小単位は、「個人」ではなくて「家族」だとみなされる。

「独占的で排他的」であり、さらに責任や経済の最小単位ともみなされる「家族」は、家族内の考えが一致していることが前提で、つまり家族の構成員に「同質性」を求めることになる。
「家族だから、考えていることはすぐにわかる」「家族の絆には、他人は太刀打ちできない」みたいなことは、「家族のすばらしさ」として美談にされがちだ。

でも僕は、現代社会の様々な問題の大半は、こういう考え方に起因しているんじゃないかなとさえ思う。
家族が強い結びつきをもち、独占的で排他的であればこそ、「家族の中のことは外から干渉すべきではないこと」とされ、虐待もDVもモラハラも見えなくなる。
いわゆる「毒親」の問題もそうだ。見えている世界が狭ければ狭いほど、その中の構造は絶対的なものになる。「相対化」ができないから。
だから、排他的な傾向が強い家族ほど、子供にとって親が絶対的な存在になってしまい、家庭内の環境がいかに異常でも、それに疑問を持つことができない。

「愛は独占的で排他的なものではない。好きな人が複数いてもいい。」
という僕の「非独占愛」の考え方は、性や恋についてだけではない、と最近では思う。
家族に対して感じる「親愛」の気持ちも、独占的で排他的ではない、と思うのだ。そしてそれには、「血縁」なんて必要じゃない。

最近僕は、「好きなひと」がどんどん増えている。それは必ずしも「恋している相手」ではなくて、「家族のように思いたいひと」がどんどん増えている。
付き合いたいとか一緒にいたいとかデートしたいとかとはちがう、「しあわせでいてほしい」という気持ちだ。

僕は自分自身の恋愛観である「非独占愛」から発展して、こういう感覚にたどり着いた。
「世間」がもっとこういう感覚を許容するようになったら、社会はもっと生きやすくなると思うよ。

呪いを解く人になりたい。

現代の日本には(外国に住んだことはないので、比較して、ということではないけど)、「誰かを呪う言葉」があふれていると思う。
呪いは、僕たちに「ねばならない」を強制し、今いるところに縛り付ける。

「普通でなければならない」という呪い、
「多くの人ができることはできなくてはならない」という呪い、
「他人に違和感を与えてはならない」という呪い、
年齢の呪い、性別の呪い、恋愛の呪い。
親からの呪い、恋人からの呪い、地域からの呪い、職場からの呪い、
そしてメディアで目にしたことによる呪い。

僕は、そういう呪いを、解く人になりたいと思う。

優等生じゃなくていい。
毎日元気に働けなくてもいい。
誰にでも優しくできなくてもいい。
友だちが多くなくてもいい。
家族と仲良くならなくてもいい。
結婚しなくてもいい。
恋人がいなくてもいい。
どんな服を着てもいい。
〇歳でこんなことするなんて、と思わなくていい。
合わないところからは逃げていい。
空気を読まなくてもいい。
相手の気持ちを探らなくてもいい。

そう言い続けることで、たぶん、解ける呪いもいっぱいある。
少なくとも僕はそうだったよ。

マイノリティは「あちら側」の人たち?

週末に我が家に恋人が遊びに来ていて、「わたしはポリアモリーです、って宣言したりするの、なんか違う気がするんだよね」という話をしたりした。

僕はかつて「僕はポリアモリー」っていうブログ記事を書いたけど、確かに今になってみると「これって宣言するようなものじゃないかもな」と思ったりもしている。

ポリアモリーは「性質」なのか「ライフスタイル」なのか、っていうのがたびたび話題になる。「性質」というと属人的で、「人」が(先天的であれ後天的であれ)そういう特徴をもっているということになる。なんとなく「自分の意志では変えられない」というようなニュアンスもある。一方で「ライフスタイル」と言えば、自分の意志で選び取ったものとして「ポリアモリーという生き方」があるような感じ。

僕の今の時点の実感としてはそのどちらもしっくりこなくて、変わらない「性質」でも選び取った「ライフスタイル」でもなくて、単なる「今の状態」をあらわすもので、偶然のタイミングや、自分の選択、周囲の人との関わりなどによる結果に過ぎないんじゃないか、と感じている。

あくまでも「今の状態」だから今後変わるかもしれないし、たまたまそういう状態になる条件がそろっていただけであって、はじめから「こうなろう」と思って他人との関係を作り上げてきたわけでもない。
要は、「そうでない人と、明確な線引きができるようなものじゃない」ってことが言いたいんだけどね。
「変わることもある」「それは自分のはっきりとした意志とは限らない」ってことは、誰だって状況によってはその状態になり得るってことでもある。

そしてこのことって、ポリアモリーに限らず、実はあらゆるマイノリティに言えるんじゃないかなと思う。

「(生まれつきの、変えられない)性質だ」というのも「(確固たる意志のもとに選び取った)ライフスタイルだ」というのも、どちらも「こちら側とあちら側」を分けてしまう根拠になりがちだと思う。おかげでマイノリティについて、「(わたしたちとは違う)LGBTの人たち」みたいな言い方があふれているけど、とても違和感がある。

あちら側もこちら側もないんだよ。おそらくはあらゆる人が、何かしらの面においてはマイノリティなんだし。だからこそ、マイノリティを優遇するんじゃなくて、マジョリティじゃなくても大丈夫、不便にならずに生きていけるようにしよう、ということ。

「こういう性質をもつ特別な人がいるから差別しないように」ってことじゃなくて、「だれもが状況によってマイノリティの状態になり得る」。だから、マイノリティを差別しない、ということは「お情けで差別しないであげる」のではなくて、自分をふくむあらゆる人が生きやすくなるために差別をなくすべき、ということのはず。

「マイノリティを支援するのはマイノリティのためではない」
そして、
「当事者と非当事者なんていない」。

だから、最近の「LGBT教育」にありがちな、「かわいそうだから、マイノリティを差別するのはやめましょう」という教育はまったく正しくない。
「誰かが多数派と異なる行動をとるのを見て、差別したりあざ笑ったりするのは愚かなことであり、それは社会を悪くしているということに気づきましょう」が本当だと思う。

「自分がいつか多数派ではなくなるのではないか」と怯えながら生きなくて済む未来をつくっていくために。

余裕と自信がなくなってる

最近僕はどうやら余裕と自信を失っているみたいだ。
客観的に見るとかなり満たされているし、ひどい状況にいるわけではない。
なのになぜだか、どーんと構えていられないらしい。

仕事で、地域中の矢面にさらされる立場にいるからかな。
ようやく動き出した様々な仕事がすべて手探りで、やっていることが正しいか、びくびくおびえながら確認せざるを得ない状況だからかな。

原因はいろいろありそうだけど、結果として「余裕がなくなると、必要以上に他者からの承認を欲しがってしまう」ということを、身をもって示してしまっている。

僕はたくさんの人に、じんわりと静かに愛されている。
それはわかっているはずなのに、必要以上に「ねぇねぇ、僕のこと好き?どうなの??」と確認したくなってしまう。
悪くすると、わざと失礼なことや困らせることを言って、「僕なら許してもらえるはず」ということを確認する「試し行動」みたいなこともしてしまっているようだ。
「あ、よくないことをしたな」と思っても、とっさに自分を正当化できる言い訳を探してしまう。

よくない。ちょっと今の僕、イヤだな。
さらに自信を失う悪循環にならないように、いったんこの流れを止めよう。
自分を正当化する言い訳ができる場所としてのTwitterを、ちょっとお休み。
とはいえ、やっぱり僕にとってあの場所は大事なので、すぐに戻ってくると思うけどね。

大好きなあの人を、なんて呼ぼうか。

「恋人」「付き合っている人」「相方」「パートナー」「愛する人」「好きな人」。

親密な関係を築いている相手を呼ぶ言葉はたくさんある。それぞれのニュアンスは少しずつ違っているけれど、はっきりとした定義があるわけではなくて、境界はあいまいだ。

「恋人」「付き合っている人」は、たがいにはっきりとした約束をした関係、という感じ。僕の場合は違うけれど、一般的には「ほかの人とは付き合わない約束を交わしている」という意味も含むのかも。

「相方」「パートナー」は、少し、恋愛的な要素を薄めているような感じ。そういう照れ隠し、という意図もあるかもしれない。「たったひとりきりの」というニュアンスは、こちらもなんとなくあるな。

愛する人」は、すごく意志と覚悟をもっている感じ。やや重いくらい。「好きな人」はそれよりずっとライトだけど、あまりに幅広くて、その言葉だけではニュアンスをつかみづらい。(そういえば、女性は友人にも「好きな人」という言葉を使うことがわりとあるけれど、男性はかなり使いづらいように感じる)

僕が自分の感情にしたがって、親密な相手にこれらの言葉を使おうと思うとき、どの言葉もあまりしっくりこないなぁと感じる。

「たったひとりきり」を約束したりはしない。必ずしも恋愛や性愛ではない。そして、重くも、軽くもない言葉。

ふと思いついたのは「愛しい人」。
これならしっくりくるかもしれない。愛しい人とは、約束を必要としない。「愛する」のように能動的な意志や行為でもない。ただ、自然と湧き上がってくる愛しいという気持ち。

「あなたは僕の愛しい人なんだから、○○をしてくれるべき」なんて言葉は成立しない。愛しい人は、ただそうあるだけ。会えたらうれしいけど、どこか離れたところでしあわせでいてくれたらそれでもいい。愛ではあるけれど、必ずしも恋や性はなくていい。

これまでインタビューなどで「奥さんがいて、恋人もいます、それからほかにも好きな人はたくさん……」と自己紹介してきたけれど、いまいちしっくり来てなかった。(好きな人ってのは恋人じゃないの?じゃあ、友達とどう違うの?とよく聞かれていて、なかなかうまく答えられなかった)

今度からは「愛しい人がいっぱいいるんですよ」って答えることにしようかな。

「責任感」がきらい。

「責任感」という言葉がきらいだ。
「もっと責任感をもて」「お前は責任感がない」どれも人を追い詰める言葉だと思う。

そもそも「責任」の有無という極めて重要な問題に対して、「感」ってなんだよ。フィーリングかよ。
「感」という言葉には、責任があるかないかははっきりさせず、自分ではどうしようもないことについてもなんとなく罪悪感を覚えておきなさい、と呪いをかけるようなニュアンスがある。

僕はかつて「優等生」で、「責任感の強い子」だったと思う。
自分にはどうにもならないことも自分のせいなのではないか(もしくは、自分のせいだと思われるのではないか)と思って、失敗を極度におそれた。
ずっと失敗しない人生を選んできた。
いちばん失敗せずに住む方法は、「チャレンジしないこと」だ。
新しいことはやらない、誰かが困っていても見なかったふり。
そうすれば、とりあえず責任を取らずに済んだ。
「責任感が強い」からこそ、ほんの少しでも自分の責任になりそうなことは、そもそもやらずに済ませようと考えるような人間だった。

働きはじめると、「責任感が強い」ことが自分も周りも苦しめる。
責任感で「本来責任がないこと」まで無理してやろうとしてしまうと、当然、体や心は壊れる。
しかも、「自分がやっているんだから他人もやるべき」と思ってしまう。
さらに、会社や上司にも「やれるんだからそれを基準に」と思われてしまい、職場の環境は改善されずに放置される。そのしわ寄せは、同僚や後輩、部下に向かう。

僕はしあわせなことに、心から「死にたい」と思うことはほとんどないけれど、ときどき、「逃げたい」と思う。
何から逃げたいかといえば、それは「責任から」だろう。
日本人の「死にたい」の多くは「ハワイに行きたい」という意味だとだれかが言ってたけど、それも多くは「責任から逃げたい」というきもちなのだろう。

僕の感覚では、日本において「責任から逃げたい」と表明することは、「死にたい」ということ以上にタブーであるように思う。
日本社会の規範ではあらゆる人間は、責任感がなくちゃいけない、ということになっているようだ。
「あいつは責任感がない」と思われることは、とてもとてもおそろしい。それだけで死にたくなってしまうほどに。

おそらく日本で自死が多いのは、責任感が強い人が多いからだろう。好奇心は猫を殺すと言うが、責任感は容易に人を殺す。

「無責任」になれ、とは言わない。本当に誰もが無責任だったら世の中はうまく回らない。
だけど、責任というのは、どんなときも常に有限だ。
これを忘れてはいけない。
そして、責任が大切な社会であるからこそ、巧妙にあなたに責任を押し付けようとする人がいるということも、忘れてはならない。

「責任『感』をもて」という言葉を、そのまま受け取ってはならない。
それはあなたに無限の責任を押しつけようとする、呪いの言葉だ。