僕が生きていく世界

人と少しだけ違うかもしれない考え方や視点、ぐるぐると考えるのが好きです。 あくまで、僕個人の考え方です。 みんながみんな、違う考えを持っていていい。 いろんなコメントも、お待ちしてますよ。

個人的な倫理の話をしよう。

「倫理」というと、なんだか偉そうな響きがする。

「道徳」や「哲学」と呼んでもいいけれど、どれも、
偉くて立派な人が、格下の人を教え諭すような。
「格下の人」からすると、嫌でも守らなくちゃいけない、窮屈なもののようにも思う。

だけど本当は、大抵の人は「自分の倫理」をもっているんじゃないだろうか。
「何を善だと思い、何を悪だと思うか」
「許せないものは何か」
「(誰も見ていなくても)こういうことだけはしないようにしよう」
誰かに強制されたからじゃなく、自分が自分に課しているマイルール。

少なくとも、僕にはある。
何かをしようとするとき、「それは自分の中の倫理観が許さない」っていうことが結構ある。
自分の中の「神」のようななにか。
世間の常識に縛られるつもりはないけれど、自分に対してだけは誠実でありたい。
僕なりに『善く生きたい』と、そう思っている。

「多様な価値観を認める」というのは、これからの社会で何よりも大切なことだと思う。
ただ大多数が支持しているからという理由で、
世間の「常識」をそのまま自分の価値観として受け入れることは、
今の僕にはもうできない。

でも一方で、ただ単に常識を放棄するだけでは、「何をしてもいい」ということになる。
そうじゃない。僕は、僕自身の価値観において「倫理的」でありたいと願う。
「常識を放棄して自分の価値観に従う」のならば、ちゃんと自分の価値観というやつを磨かなくちゃいけないと思う。

では、僕の言う「倫理的」とはどういうものだろう?
僕自身、まだまだそれをきちんと把握できているとはいえない。
だから僕は、ブログを使ったりして、自分の「倫理」を言葉にしていこうと思う。
僕だけじゃなくてたくさんの人が、
自分だけの「個人的な倫理」を表明してくれたらいいな、と思う。
まずはそれを表明することで、自分自身を理解することがいちばん重要だ。

自分が理解するためだけなら、自分だけが見るノートにでも綴っておけばいい。
なにもブログで公開する必要はないはずだ。
そして公開することは怖くもある。批判もあるかもしれない。
かつてのあらゆる哲学者がそうだったように、倫理の表明のせいで、
仲の良い人と袂を分かつことになってしまうかもしれない。

だけど。
もしかしたら、そのうちに、僕のひとりよがりな「マイ倫理」を根本からひっくり返すような、
すごい価値観に出会えるかもしれない。
世界の見方が、すっかり変わってしまうかもしれない。
そのためにはまず、自分の中にあるものを提示して、議論のきっかけをつくりたい。

最後に、「個人的な倫理」の表明は、あくまでも「そのときに考えていること」であって、
決して自分の価値観をひとつに決めつけるものであってはいけないことを、
改めて確かめておく。
僕の価値観は、いろんな人の話を聞いたり、生活していく中で考えが変わったりして、
僕が死ぬ寸前までずっと、修正・更新を続けていくべきものだ。
前言撤回をおそれるな。
未来の自分を侮るな。

2000年以上も前に生きたソクラテス孔子の頃から変わらない命題、
『善く生きるとは何か』。僕も可能な限り考え続けよう。