エア煉's Bar @ zoom、毎月やることにしたよ!
やってみたらめちゃくちゃ楽しかったので!
そりゃ実際にあって話すのには及ばないかもしれないけど、
それでもじゅうぶん、人とつながることができた。
心で濃厚接触できたよ!
煉's Barのいちばん大事な心得は
「人のことを否定しない。自分とちがう人をおもしろがろう。知らないことを恥じない、笑わない」
の部分だと思ってる。
そして、そういう場所が(特に年若い人にとって)めちゃくちゃ貴重で、なかなかない場所だとも思う。
毎月開催することで、イベントが「居場所」として機能する。
そんなことを目指してみようと思う。
というわけで、とりあえずコロナの諸々が収まるまで、
毎月エア煉's Bar開催します!
とりあえず来月は5/5(火)の予定。
みんな参加してね!
あ、それと重要な点。
zoomでのビデオチャットが基本だけど、声のみの参加もOKにします!
オンラインでの繋がりだし、顔や部屋を見られるのに抵抗がある人もいるだろうから。
もちろん、気にしないのならビデオチャットにしたほうが、
表情も読み取れるし、より会話しやすいのは確かなんだけど、参加のハードルは下げるに限るしね。
4/4(土)に エア煉's Bar @ zoom を開催します!
「出張煉's Bar@東京」を泣く泣く中止にした4月4日。
転んでもただでは起きない!
体なんてなくたっていい、心で濃厚接触しようぜ!!
というわけで。
最近、リモートワークとやらで話題急上昇中のオンライン会議用のソフト
「zoom」https://zoom.us/jp-jp/meetings.html を使った、距離を超えた感染リスクゼロのホームパーティーをやります!
【開催日時】
4/4(土)13:00〜20:00(入退場自由)
【参加の仕方】
①カメラの付いたパソコンか、スマートフォンを用意し、自宅(またはインターネット環境のある場所)にこもりつつ、開始時間を待つ。
②文月煉がTwitter上で発表したURLをクリック。
③zoomのアプリをインストールし、「会議に参加する」を選択する。
④ビデオをオンにして、会議室に入る。
⑤お互いの顔を見ながらお話できる!
というわけ。
特に自分用のIDをつくったりしなくても、参加だけならできるらしい。
(あらかじめアプリをインストールしておくとより楽かも)
実は僕はzoomを使うのは初めてで(うちの会社はリモートワークなんてないから……)、
あまり勝手はわからないのだけど、なんでも50人まで同時にビデオチャットができるという触れ込みだし
(どれくらいカオスになるかは想像つかないけど……)、
一応有料会員登録したから時間制限無しでできるので、まぁ、やってみましょー。
試しに使ってみた感じでは、音もクリアだし、表情もよく見えるし、かなり楽しい感じ。
あくまで「はじめましての方歓迎のホームパーティー」なので、そんなに肩肘張らず、いっぱい喋ろうと意気込んだりもせず、ゆっくりとやりましょう。
もちろん、途中退室、途中参加OK。好きなだけいてくれればOK。
友達の家にふらっと遊びに来た感じで、気軽に行きましょう。
もちろん、参加費は無料!
「出張煉's Bar@東京」に参加表明していた人じゃなくても参加OK。
「Twitterで 文月煉 @fuduki_ren をフォローしていること」だけが参加条件です。
定員は、一応50人までかな(笑)。
みんな、気軽に参加してね!
【煉's Barの心得】
一,人のことを否定しない
一,知らないことを恥じない。笑わない。
一,沈黙しても大丈夫。
一,悪口はほどほどに。
一,楽しくなるのはステキ。でも声の音量に注意!
居心地のいい、居場所に
文月煉
4/4(土)の「出張煉’s Bar @東京」について
こんにちは、文月煉です。
4/4に企画していた「出張煉’s Bar @東京」
https://twipla.jp/events/441015
3年ぶりに関東で行う企画であるにも関わらず、開催の1ヶ月前には15人の定員が全て埋ままるという、予想外の人気で、とてもうれしかった。
ずっと楽しみにしていたし、「自粛要請」なんていう責任逃れの言い分に従うのは癪だけど、どうも、企画を決めたときよりも状況は悪くなっているみたいだ。
15人定員の屋内で、定員いっぱいの15人が集まって、話に花を咲かせたり、お茶を飲んだり、一緒に御飯を食べたりする。しかも、主催者とはフリーハグ……って、まさしく新型コロナウイルス対策にとっていちばん良くないと言われる「密閉・集合・近距離会話」の三拍子に当てはまってしまうじゃんか!
さすがに楽観的な僕でも、この時期に、大都市東京で、大部分の参加者が電車に乗ってくるだろうイベントを行なう気にはなれないなぁ。
というわけで、残念だけど、出張煉’s Barは延期にします。もう良さそうだ、ってなったらなるべく早くやるからね。待っててね。
会場キャンセル料の一万円はキツイけど、お金払って経済を回してやるんだから!
当日は、家にいてもできる、オンラインでのエア煉’s Barをやろうと企画しています。よかったらそちらに参加してね!(SkypeかZoomか……どっちでやろうか迷ってまーす)
みんなにラブを。
「年下は年上に敬語を使うべき」って文化はなくした方がよくない?
僕は日本語の「敬語」の文化はとてもいいものだと思っているんだけど、日本の、「年下は年上には敬語を使うべき」という文化はとてもよくないものだと思っている。
「年齢に関係なく親密な関係になるまではお互いに敬語、親密な関係になったらお互いに敬語をとってフランクに」というマナーの方が絶対いいと思うんだけどな。
敬語は尊敬の念をあらわしているんだから、基本的に初対面同士は「お互いに敬意を持ち合う=どちらも敬語」というのが理想だと思う。
ビジネスの場でも大人同士の交渉の場でも、相手が年下だと知るといきなり敬語を使わずに話す人ってかなり多い。かといってこっちがそれに合わせて敬語抜きで話したりしたら間違いなく機嫌を悪くする。
まして、SNSみたいなフラットなはずの場所で、相手の年齢をいちいち気にして、相手が自分より年下だとわかると急に敬語ではなく話しかけるようになる人はたくさんいる。
いや、人ごとじゃなくて、僕もそういうことはあった。そういう慣例だと思ってしてしまっているから。そういうときは相手からも敬語じゃなくていい、と思ってはいるんだけど、それは相手には伝わらないだろうしなぁ。
「年上には無条件で敬語を使え」というのは、たいていの人は中学校の「先輩・後輩」の序列の中でたたき込まれることだったりする。
小学生はあまりそんな意識がないので、学童や塾で大人に対して敬語を使う子どもは少ないよね。
つまりこのマナーって、中学高校や、年功序列の日本企業特有の縦社会に根ざしたものなんだろうな。
学校や企業の中の狭い世界の内側でなら、先輩は敬われるぶん責任や役割があったりして、まぁ妥当なのかもしれないけれど、そこで身につけたマナーを何の利害関係にもない外側の人にまで適用するとなると、そこに合理性はないと思う。
日本社会に深く根ざしたこの因習を僕がなんとかすることはできないだろうけど、少なくとも僕自身は「年下だからといって親しくもないのにいきなり敬語なしで話す」ことはしないようにしたいなぁ、と、なんとなく心に決めてみよう。
傷つきやすい、君が好き。
最近、心身の具合があまりよくない。
もう聞き飽きた「異常気象」で気圧の乱高下も温度の変化もひどいし、
そのおかげで僕の体調も乱高下。
周囲の健康そのもの、という感じの同僚たちを見ていると、
やっぱり僕はいわゆる「メンヘラ」というやつなんだなぁ、と感じることが増えた。
かつては僕は蔑称として使われる「メンヘラ」という言葉がとても嫌いだったのだけど、多くの典型的な人(定義は難しいけれど)と比べて生きづらい人は確かにいるのだから、それらをまとめて言い表せる言葉として、
「メンタルが弱い人=メンヘラ」という言葉で自覚するのはありかもしれないな、と
最近は思うようになってきた。
僕ももう少し、積極的に自分がメンヘラであることを認めて、名乗ってもいいかな、などとも思う。
「虚弱」でも「デリケート」でも「繊細」でもいいんだけど、なかなかしっくりこないんだもんな。
世の中に「ヘイト・メンヘラ言説」があふれていることの抵抗としての意識もある。
「メンヘラ」という言葉をレッテルとして用いて、自分の気に食わない人間に「これだからメンヘラはめんどくさい」などという人が多いし、
悔しいことにそういうことを堂々と告げるライターは一定の人気を得る。
他人に「メンヘラ」のレッテルを貼って蔑まないと安心できない人は、
十分に「生きづらくメンタルが弱いメンヘラ」の中に含まれると思うのだけど、
なぜかそういう人は自覚はなく、
「自分はメンヘラではないからうまくいっている。
でもメンヘラのせいでしょっちゅう迷惑をこうむっている」などと妄信していたりする。
ともかく、多くの人はそれほど気にすることなくスルー出来るような事柄に、
いちいち気を病んでしまうような、過敏で打たれ弱い、メンタルの弱い人はいる。
少なくとも僕はそう。
だからこそ、その立ち位置を受け入れたうえで、
「僕の目から見た世界と、僕の立ち位置から考えた行動」を発信していくことは、
何かしらの意味があると思っている。
僕の周りには生きづらい人が多い。
まぁ、そりゃそうだろう。
生きづらさを感じたことがない人は、なかなか生きづらい人に共感しづらい。
(共感しようと寄り添ってくれる人がいないわけではない)
何でもかんでも無批判に肯定しあうことがいいわけではないけれど、
自己責任ややる気を強要する社会から、ほっと一息つく場所があってもいいはずだ。
僕は、意識は低いし、やる気はないし、歯を食いしばれないし、
必要とあれば逃げるし、空気は読まないし、立場が上の人への尊敬は足りないよ。
でも自分がより良いと思う選択に対して妥協はしないし、自分に嘘はつかないし、乱高下する気分の中で大惨事にならないように軟着陸の方法を常に探しているよ。
僕らには僕らの生き抜くためのすべがあって、それは多くの人にとっては、
だらしがない、やる気がない、意識が低いことに見えるのかもしれない。
でもそうでないと生き残れないのなら。
周囲の無責任なアドバイスに従って無理をして、追い詰められて、死んでしまっても、
周りの人は責任なんてとってはくれないのだから。
だからこそ僕は、
傷つきやすい、君が好き。
「家族」を排他的なものにしない――非独占愛の先に
世間では、多くの場合「家族」というのは恋、性、愛と不可分に結びつく、と考えられている。
恋人をつくらないと、結婚をしないと……「将来孤独だよ」などと言われてしまうのは、「家族」の前提に「恋」(そして性)があるとされているからだ。
そして恋と性は「独占的で排他的」なものだとされるので、必然的に「家族」も独占的で排他的になる。
しかも、そうしてつくられた「家族」は、生活、経済、責任の単位であると多くの場合考えられている。日本の場合特に、生活の最小単位は、「個人」ではなくて「家族」だとみなされる。
「独占的で排他的」であり、さらに責任や経済の最小単位ともみなされる「家族」は、家族内の考えが一致していることが前提で、つまり家族の構成員に「同質性」を求めることになる。
「家族だから、考えていることはすぐにわかる」「家族の絆には、他人は太刀打ちできない」みたいなことは、「家族のすばらしさ」として美談にされがちだ。
でも僕は、現代社会の様々な問題の大半は、こういう考え方に起因しているんじゃないかなとさえ思う。
家族が強い結びつきをもち、独占的で排他的であればこそ、「家族の中のことは外から干渉すべきではないこと」とされ、虐待もDVもモラハラも見えなくなる。
いわゆる「毒親」の問題もそうだ。見えている世界が狭ければ狭いほど、その中の構造は絶対的なものになる。「相対化」ができないから。
だから、排他的な傾向が強い家族ほど、子供にとって親が絶対的な存在になってしまい、家庭内の環境がいかに異常でも、それに疑問を持つことができない。
「愛は独占的で排他的なものではない。好きな人が複数いてもいい。」
という僕の「非独占愛」の考え方は、性や恋についてだけではない、と最近では思う。
家族に対して感じる「親愛」の気持ちも、独占的で排他的ではない、と思うのだ。そしてそれには、「血縁」なんて必要じゃない。
最近僕は、「好きなひと」がどんどん増えている。それは必ずしも「恋している相手」ではなくて、「家族のように思いたいひと」がどんどん増えている。
付き合いたいとか一緒にいたいとかデートしたいとかとはちがう、「しあわせでいてほしい」という気持ちだ。
僕は自分自身の恋愛観である「非独占愛」から発展して、こういう感覚にたどり着いた。
「世間」がもっとこういう感覚を許容するようになったら、社会はもっと生きやすくなると思うよ。