33歳。
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「ことば」がいらなくなるとき~続々・僕は「ポリアモリー」~
「僕は『ポリアモリー』」という記事を書いてから、一年以上が経った。
奥さんのほかに最初の恋人ができてから――つまりは僕の「ポリアモリーなライフスタイル」がはじまってからは、もう二年以上。
その間に、僕の恋人は奥さんを入れて5人になり、好きな人はもっと増えた。
僕の中で、「ポリアモリー」はもうすでに特別なものではなくて日常になった。
この生き方が、僕にとってとても居心地のいいものであることはもはや疑いがなくて、
「本当にこの生き方でいいのか」なんて悩むことも、今ではもうほとんどない。
現在の恋はそれぞれがおおむねうまくいっていて、
少なくとも僕の周りにいる人たちから、
「そんなの本当の恋じゃない」とか、「奥さんがかわいそうだ」とか、
「浮気の言い訳をしているだけだ」なんてことを言われることも全くなくて、
もはや僕は「ポリアモリーであることに悩んでいる人」ではなくなった。
もちろん、当たり前のことだけど、
僕のアイデンティティは「ポリアモリー」だけなわけじゃなくて、
ポリアモリーであろうがなかろうが、
ひとつひとつの人間関係や、自分の感情の浮き沈みや、
経済的なことや、将来への不安や、そのほかいろいろなことに悩むことはある。
そうした中で、「自分がポリアモリーであること」について考えを巡らす機会や、
「僕はポリアモリーだ」と、他者に向かって主張する必然性は、
少しずつうすれてきている。
その一方で、「ポリアモリー」ということばは社会に少しずつ広がりつつあるみたいで、
数少ない「ポリアモリー実践者」として、いろんなメディアの人に発見されて、
インタビューや取材を受ける機会はどんどん増えている。
「ポリアモリーの人はどんな風に考えているんですか?」
などと聞かれるたびに、僕はポリアモリーの代表ではないし、
定義さえあいまいなポリアモリーということばで、
属する人たちの性格や思考を端的に言い表すことなど、
できはしないよなぁと思ってばかり。
本当は「ポリアモリー」ということばなんて、使わなくていいのかもしれない。
そんなことばでひとりひとりまったく違うはずの人たちをくくるのはよくないことかもしれない。
「ポリアモリー」が「セクシャル・マイノリティ」に含まれるかどうかはいったん置いておくとして、
僕自身が「マイノリティの代表として」何かを主張したい、という気持ちは全然ない。
本当はことばなんてなくしてしまって、
「人それぞれ様々な形の恋愛の方法がある」ということだけ、
みんなで認め合えればそれでいいんだ。
とはいえそれは、遠い遠い理想であり、
現実には、「複数の人と恋愛関係にある」ということは、
たとえ関わる人たちが認め合っていても、
関係ない第三者に非難され、否定され、眉をひそめられがちなのが事実だ。
だからしばらくは僕も、「ポリアモリー」ということばを使いながら、
同じように感じている人たちや、今はまだ悩みの渦中にいる人たちとゆるくつながりあって、
自分が自分を偽らずに、心からしあわせでいられるための生き方をつづけながら、
「ほら、こんな人間もいるんだよ。世の中は、人間は、多様なんだぜ」
というようなことを、発信していきたい。
「ことば」がいらなくなる、そのときまで。
愛が、あふれる。
恋を、しました。
久しぶりに、好きな人が増えた。
そのことを恋人たちに報告したら、「よかったね」、と一緒によろこんでくれた。
これは新しい発見なんだけど、僕はだれかを好きになると、
ほかの好きな人たちへの愛しさも、いっせいに増すらしい。
自分がしあわせな気持ちであることを、聞いてもらえるよろこび。
受け入れてくれて、いっしょによろこんでもらえるしあわせ。
それに何より、僕が新しい恋と出会えたのは、今の僕がこうしてあるのは、
僕の生き方を受け入れてくれた恋人たちの存在があったから。
言ってみれば、恋人たちが、僕に新しい恋をさせてくれたんだ。
好きな人がしあわせだと、僕もしあわせになる。
これは決して利他的なことではなくて、単純に自分の喜び。
だから、好きな人がしあわせそうに、
僕以外の好きな人のことについてのろける姿を、僕は見たいと思う。
ちょっと気恥ずかしい、今日の覚書でした。
居場所に、なりたい。
先週末、我が家で「煉’s Books & Bar」を開催した。
我が家の本を自由に読んでもらい、カクテルや珈琲を振る舞う、
いわゆる「ホームパーティー」のようなものだ。
知り合いを呼ぶのではなくて、twitter上で告知をして、
基本的にだれでも自由に参加できる。
今回のが7回目で、うれしいことに毎回ちゃんと参加者がいて、
我が家での時間を楽しんでくれている。
面白いのは、毎回必ず「はじめまして」の人がいるってこと。
Twitterで僕に興味を持ってくれた人なんかが、
緊張しながらも参加表明をしてくれる。
もちろん、気に入って何度も来てくれる常連さんもいて、
彼らは優しく、初めましての人を輪の中に入れてくれる。
なんだか本当にいろんな人が集い、
いつの間にか仲良くなる行きつけのBarのような空間。
人には「居場所」が必要だ。
できればひとつだけではなくて、いくつもあるといい。
でも、日常生活でたくさんの居場所を持つのは難しい。
学校と家だけ、あるいは職場と家だけが居場所だという人も多いだろう。
学校(職場)も家も安心できる居場所ではない、と感じている人は?
そういう人は、大きな孤独を感じているかもしれない。
心のなかのもやもやしたものを誰にも話すことができず、
もどかしい思いをしているかもしれない。
そういう人の、居場所をつくりたい。
できることは限られているし、今はまだ期間限定のイベントにすぎないけれど。
本当は「居場所をつくりたい」から更に進んで、
僕自身が「居場所になりたい」ような気がする。
僕がいるところが、すぐに誰かにとっての居場所になるような。
誰もが肩の力を抜いて、自然でいられる空間をどこにでも創りだして、
自分自身は微笑みながらそれを見守っている、仙人とか長老のような。
それはまだ、夢のまた夢。