僕が生きていく世界

人と少しだけ違うかもしれない考え方や視点、ぐるぐると考えるのが好きです。 あくまで、僕個人の考え方です。 みんながみんな、違う考えを持っていていい。 いろんなコメントも、お待ちしてますよ。

「ことば」がいらなくなるとき~続々・僕は「ポリアモリー」~

「僕は『ポリアモリー』」という記事を書いてから、一年以上が経った。

 

fuduki-ren.hatenablog.jp

 

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奥さんのほかに最初の恋人ができてから――つまりは僕の「ポリアモリーなライフスタイル」がはじまってからは、もう二年以上。
その間に、僕の恋人は奥さんを入れて5人になり、好きな人はもっと増えた。

僕の中で、「ポリアモリー」はもうすでに特別なものではなくて日常になった。
この生き方が、僕にとってとても居心地のいいものであることはもはや疑いがなくて、
「本当にこの生き方でいいのか」なんて悩むことも、今ではもうほとんどない。
現在の恋はそれぞれがおおむねうまくいっていて、
少なくとも僕の周りにいる人たちから、
「そんなの本当の恋じゃない」とか、「奥さんがかわいそうだ」とか、
「浮気の言い訳をしているだけだ」なんてことを言われることも全くなくて、
もはや僕は「ポリアモリーであることに悩んでいる人」ではなくなった。

もちろん、当たり前のことだけど、
僕のアイデンティティは「ポリアモリー」だけなわけじゃなくて、
ポリアモリーであろうがなかろうが、
ひとつひとつの人間関係や、自分の感情の浮き沈みや、
経済的なことや、将来への不安や、そのほかいろいろなことに悩むことはある。
そうした中で、「自分がポリアモリーであること」について考えを巡らす機会や、
「僕はポリアモリーだ」と、他者に向かって主張する必然性は、
少しずつうすれてきている。

その一方で、「ポリアモリー」ということばは社会に少しずつ広がりつつあるみたいで、
数少ない「ポリアモリー実践者」として、いろんなメディアの人に発見されて、
インタビューや取材を受ける機会はどんどん増えている。
「ポリアモリーの人はどんな風に考えているんですか?」
などと聞かれるたびに、僕はポリアモリーの代表ではないし、
定義さえあいまいなポリアモリーということばで、
属する人たちの性格や思考を端的に言い表すことなど、
できはしないよなぁと思ってばかり。

本当は「ポリアモリー」ということばなんて、使わなくていいのかもしれない。
そんなことばでひとりひとりまったく違うはずの人たちをくくるのはよくないことかもしれない。
「ポリアモリー」が「セクシャル・マイノリティ」に含まれるかどうかはいったん置いておくとして、
僕自身が「マイノリティの代表として」何かを主張したい、という気持ちは全然ない。
本当はことばなんてなくしてしまって、
「人それぞれ様々な形の恋愛の方法がある」ということだけ、
みんなで認め合えればそれでいいんだ。

とはいえそれは、遠い遠い理想であり、
現実には、「複数の人と恋愛関係にある」ということは、
たとえ関わる人たちが認め合っていても、
関係ない第三者に非難され、否定され、眉をひそめられがちなのが事実だ。
だからしばらくは僕も、「ポリアモリー」ということばを使いながら、
同じように感じている人たちや、今はまだ悩みの渦中にいる人たちとゆるくつながりあって、
自分が自分を偽らずに、心からしあわせでいられるための生き方をつづけながら、
「ほら、こんな人間もいるんだよ。世の中は、人間は、多様なんだぜ」
というようなことを、発信していきたい。

「ことば」がいらなくなる、そのときまで。

愛が、あふれる。

ここ数ヶ月ほどで、僕のまわりが大変なことになってます。
新しい恋人がふたりもできたり(すきなひとはもっとできた!)、
僕の恋人と恋人が、恋人になったり。
もちろん、ずっと好きでいる人のこともますますいとおしく感じて。
今、僕のまわりに、愛が、あふれている。

自分のことながら、
あまりに「好き」の気持ちがあふれすぎてて、
浮かれすぎてるんじゃないかな、流されていないかな、
と心配になったり、こわくなったりするくらいだけど、
深呼吸して目を閉じて、じっくりと思いを巡らせてみても、
ひとつひとつの「好き」は、しっかりと手触りのある、確かなものだと思えるから。

焦ったり、勢いに身を任せたりせず、
ていねいにじっくりと、それぞれの関係を大切にしていこう。
「本当の愛じゃない」なんて、言わせないようにね。

恋を、しました。

久しぶりに、好きな人が増えた。

そのことを恋人たちに報告したら、「よかったね」、と一緒によろこんでくれた。

これは新しい発見なんだけど、僕はだれかを好きになると、
ほかの好きな人たちへの愛しさも、いっせいに増すらしい。
自分がしあわせな気持ちであることを、聞いてもらえるよろこび。
受け入れてくれて、いっしょによろこんでもらえるしあわせ。

それに何より、僕が新しい恋と出会えたのは、今の僕がこうしてあるのは、
僕の生き方を受け入れてくれた恋人たちの存在があったから。
言ってみれば、恋人たちが、僕に新しい恋をさせてくれたんだ。

好きな人がしあわせだと、僕もしあわせになる。
これは決して利他的なことではなくて、単純に自分の喜び。
だから、好きな人がしあわせそうに、
僕以外の好きな人のことについてのろける姿を、僕は見たいと思う。


ちょっと気恥ずかしい、今日の覚書でした。

居場所に、なりたい。

先週末、我が家で「煉’s Books & Bar」を開催した。

我が家の本を自由に読んでもらい、カクテルや珈琲を振る舞う、
いわゆる「ホームパーティー」のようなものだ。
知り合いを呼ぶのではなくて、twitter上で告知をして、
基本的にだれでも自由に参加できる。
今回のが7回目で、うれしいことに毎回ちゃんと参加者がいて、
我が家での時間を楽しんでくれている。

面白いのは、毎回必ず「はじめまして」の人がいるってこと。
Twitterで僕に興味を持ってくれた人なんかが、
緊張しながらも参加表明をしてくれる。
もちろん、気に入って何度も来てくれる常連さんもいて、
彼らは優しく、初めましての人を輪の中に入れてくれる。
なんだか本当にいろんな人が集い、
いつの間にか仲良くなる行きつけのBarのような空間。

人には「居場所」が必要だ。
できればひとつだけではなくて、いくつもあるといい。
でも、日常生活でたくさんの居場所を持つのは難しい。
学校と家だけ、あるいは職場と家だけが居場所だという人も多いだろう。
学校(職場)も家も安心できる居場所ではない、と感じている人は?
そういう人は、大きな孤独を感じているかもしれない。
心のなかのもやもやしたものを誰にも話すことができず、
もどかしい思いをしているかもしれない。
そういう人の、居場所をつくりたい。
できることは限られているし、今はまだ期間限定のイベントにすぎないけれど。

本当は「居場所をつくりたい」から更に進んで、
僕自身が「居場所になりたい」ような気がする。
僕がいるところが、すぐに誰かにとっての居場所になるような。
誰もが肩の力を抜いて、自然でいられる空間をどこにでも創りだして、
自分自身は微笑みながらそれを見守っている、仙人とか長老のような。
それはまだ、夢のまた夢。

Don't be evil.

Don't be evil.は、Googleのかつてのスローガンらしい。
少し前にGoogleがそれを掲げたとき、結構な話題になったことを覚えている。
残念ながら今はそのスローガンをやめてしまったらしいけれど、
(そして今のスローガンは、Do the Right Thingだそうで、比べものにならないほど程度の低いものになっちゃったなぁ、と僕は思う)

Googleの動向とは関係なく、僕自身が感銘を受けた「Don't be evil.」は、
これからも僕自身の胸に留めておきたいと思っている。
Googleの意図からは離れて、字義通りの意味の「Don't be evil.」を、
僕はとても大切にしたいと思う。

まず、この言葉をなんと訳そうか。
「邪悪になるな」とされることが多いけど、becomeではなくbeを使っていることを考えると、
「邪悪であるな」という方が正確だ。
日本語としてはやや違和感があるけれど、「邪悪」という「(属性に)なる」ということではなく、
「邪悪」という「(状態に)ある」ということが、ここでは重要だ。

その人が善人か悪人か、ではなく、
今この瞬間、この行動をとるその人が邪悪であるかどうか。
「悪人になるなよ」なんていうことではなくて、
もっとその瞬間にフォーカスして、「今、自分が邪悪でないか、常に確かめる」ということ。
それが、Don't be evil.だ。

「善を成そうとすること」と「悪を成さないようにすること」は似ているようで大きく違う。
前者よりは後者の方が、ずっと実践可能で広く効果のある「倫理」ではないだろうか。
古今東西、「普遍的な善」が、明確になった試しはない。
誰かの「善」が、他の人にとってもそうであるとは限らない。
それに比べると、「普遍的な悪」というのは比較的明確なように見える。
例えば、「己の欲せざる所は人に施すなかれ」というのも、Don't be evilに通じるだろう。
これが「己の欲する所を人に施せ」だとしたら、それはとんだお節介になりかねない。

では、be evil(邪悪である)とは、どんな状態だろうか。
キーワードは「悪意」だ。
「悪意からくる行動」を起こすとき、人はbe evil(邪悪である)といえるのではないか。
ここで言う悪意とは、「他者を不幸にしようという思い」だと定義したい。

ある人との関わりの中で、不愉快な思いをし、
その人を嫌いになったとする。
その人から距離を置き、関わりを避けようとすることや、
これ以上害を被らないように、不快であることや怒りを表明すること、
それらは「悪意」ではない。
友人に対して、「あの人はこういうことをしたので、私はあの人が嫌いだ」
と伝えることも、それが真実の行為を伝えるのにとどまっている限り、悪意とは異なるだろう。

だが、相手への嫌悪をもとに、相手に不利益を被らせることを目的として、
自分がされたこととは無関係の単なる悪口を喧伝したり、
相手の秘密を暴露したりする行為は、「悪意」と言えるだろう。
怒りや、嫌悪そのものは正当であっても、「それを口実に」、
「相手に対して不誠実なことをしても構わない」と考えて行動するとき、
その人はその瞬間、「邪悪である」といえる、と僕は思う。

嫌いな人がいて、憎悪の感情が生まれることは自然なことだ。
だけどその「悪意」から出た行動をとること、
とくにそれを、SNSなどをふくめた「他の人に見える場所」で行うことは、
「邪悪である」自分の姿を周囲に見せつけることであり、
嫌いな人ではない人、自分の大切な人たちに不愉快を撒き散らす。

何かの行動を起こす前に、自分に問いかけよう。
「Are you evil now?」





※ちなみに、怒りや憎悪の感情を持つな、ということとは全く違う。
このことは、また、別に語りたい。

低気圧に弱い。

科学的にはまだ証明されていないとか、

気のせいだとか言われることも多いみたいだけど、
実際の体感として、低気圧に弱い。
気圧が低いときには頭が重くなり、肩や首が凝り、
気分が落ち込み、何かをやろうとする意欲が減退する。

子供の頃から、というわけではなく、
僕の場合はあきらかに一度、適応障害やうつを患ってからなので、
自律神経とかそういうのと関係があるのかもしれない。
細かい機序はわからないけれど、大雑把に言えば、
低気圧のとき、あるいは短い期間で気圧が大きく変わるとき、
抑うつ状態」になる、という感じなのかも。

去年の3月に前の仕事をやめて以来、僕の体調は順調に回復していて、
薬もやめてしばらく経つし、最近では気圧の変化も、
「あ、今日はちょっと頭が重いな」という程度で済んでいたのだけど、
今日の、「春の嵐に伴う低気圧」はかなり大規模なやつだったらしい。

朝から頭が重く、気分も重くて起き上がれない。
あまりにきついので、半年以上ぶりに「頓服」の抗不安薬を飲んだら、
ずいぶんと体が軽くなり、昼間は元気で過ごせた。
ところが日が落ちたらまた体が鉛のように重くなって、
ああ、今日はやっぱりダメなんだな~と苦笑い。
今日が日曜日でよかった。
やらなくちゃいけないこともないことだし、
思う存分ダメダメなままで過ごせる。

一度精神的な不調を経験すると、「ダメなときをやり過ごす」
というやり方を学べるのが、いいことだな。
心や気分の不調は、どうしても自分を責めてしまったり、
絶望的な気持ちになってしまったりするけれど、
今日みたいに、何一つ悪いことなんて存在しない日でも、
気圧とか、そういう外部的な要因で急に憂鬱になったりするのだ。
自分を責めたって意味ないし、そんなときは、
好きな人達に愚痴ったり甘えたり嘆いたりして、
文字通り嵐がすぎるのを待てばいい。
それが心も体も弱々しい僕が得てきた、生きていく術なのだ。

個人的な倫理の話をしよう。

「倫理」というと、なんだか偉そうな響きがする。

「道徳」や「哲学」と呼んでもいいけれど、どれも、
偉くて立派な人が、格下の人を教え諭すような。
「格下の人」からすると、嫌でも守らなくちゃいけない、窮屈なもののようにも思う。

だけど本当は、大抵の人は「自分の倫理」をもっているんじゃないだろうか。
「何を善だと思い、何を悪だと思うか」
「許せないものは何か」
「(誰も見ていなくても)こういうことだけはしないようにしよう」
誰かに強制されたからじゃなく、自分が自分に課しているマイルール。

少なくとも、僕にはある。
何かをしようとするとき、「それは自分の中の倫理観が許さない」っていうことが結構ある。
自分の中の「神」のようななにか。
世間の常識に縛られるつもりはないけれど、自分に対してだけは誠実でありたい。
僕なりに『善く生きたい』と、そう思っている。

「多様な価値観を認める」というのは、これからの社会で何よりも大切なことだと思う。
ただ大多数が支持しているからという理由で、
世間の「常識」をそのまま自分の価値観として受け入れることは、
今の僕にはもうできない。

でも一方で、ただ単に常識を放棄するだけでは、「何をしてもいい」ということになる。
そうじゃない。僕は、僕自身の価値観において「倫理的」でありたいと願う。
「常識を放棄して自分の価値観に従う」のならば、ちゃんと自分の価値観というやつを磨かなくちゃいけないと思う。

では、僕の言う「倫理的」とはどういうものだろう?
僕自身、まだまだそれをきちんと把握できているとはいえない。
だから僕は、ブログを使ったりして、自分の「倫理」を言葉にしていこうと思う。
僕だけじゃなくてたくさんの人が、
自分だけの「個人的な倫理」を表明してくれたらいいな、と思う。
まずはそれを表明することで、自分自身を理解することがいちばん重要だ。

自分が理解するためだけなら、自分だけが見るノートにでも綴っておけばいい。
なにもブログで公開する必要はないはずだ。
そして公開することは怖くもある。批判もあるかもしれない。
かつてのあらゆる哲学者がそうだったように、倫理の表明のせいで、
仲の良い人と袂を分かつことになってしまうかもしれない。

だけど。
もしかしたら、そのうちに、僕のひとりよがりな「マイ倫理」を根本からひっくり返すような、
すごい価値観に出会えるかもしれない。
世界の見方が、すっかり変わってしまうかもしれない。
そのためにはまず、自分の中にあるものを提示して、議論のきっかけをつくりたい。

最後に、「個人的な倫理」の表明は、あくまでも「そのときに考えていること」であって、
決して自分の価値観をひとつに決めつけるものであってはいけないことを、
改めて確かめておく。
僕の価値観は、いろんな人の話を聞いたり、生活していく中で考えが変わったりして、
僕が死ぬ寸前までずっと、修正・更新を続けていくべきものだ。
前言撤回をおそれるな。
未来の自分を侮るな。

2000年以上も前に生きたソクラテス孔子の頃から変わらない命題、
『善く生きるとは何か』。僕も可能な限り考え続けよう。